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古本夜話441 広瀬千香と青燈社『山中共古ノート』

ずっとふれてきた『女人芸術』の世界と異なり、同時代にありながらも、戦前の様々な古書、古物を蒐集する趣味人たちのグループはホモソーシャルな世界を形成していて、その世界の内部に女性の影はほとんど見られない。これは近代文化史、及びジェンダーの問題として、一考に値するように思われるし、それは集古会も例外ではない。ただ集古会の会員ではなかったが、その周辺に華を添えるような一人の女性が常にいて、集古会人脈の中のヒロインとよんでもいいような気がする。その名を広瀬千香という。

彼女については山口昌男の「広瀬千香が見た『星座』」(『内田魯庵山脈』所収、晶文社)という紹介もあるが、私なりに一編を書いておこう。
内田魯庵山脈

平成二年に日本古書通信社から刊行された広瀬の『思ひ出雑多帖』を読むと、彼女が集古会だけでなく、これもホモソーシャル斎藤昌三書物展望社永井荷風を取り巻く人々、吉野作造宮武外骨などの明治文化研究会の近傍にもいたことがわかる。それでもやはり最も愛着が深かったのは集古会であり、同書の中でもその会員だった山中共古、林若樹、三田村鳶魚森銑三、木村仙秀の思い出を記している。ちなみにここに出てくる荷風柳田国男尾佐竹猛も集古会の一員だった。

また大正十二年にはあの『末摘花』の論講会が広瀬の家で開かれ、山中共古、鳶魚、尾佐竹猛などが出席し、そこでは彼女は鳶魚から、昔の甲府教会の牧師をなされた方と山中を紹介されたのだという。彼女は甲府の出身で、山梨教会へ通い、荷風の弟の鷲津牧師によって洗礼を受けていたのである。当然のことながら、柴田宵曲もその場にいたはずだ。それを証明するように速記録はとっていたが、本連載422でふれた西鶴や一九と異なり、単行本ともならず、「ものがものだけに行方も知れない」と述べている。

この『思ひ出雑多帖』を読んで、あらためて知ったのが、彼女が四十年にわたる出版者であったことで、それは書影を掲載した「青燈社の出版」として一章が設けられている。青燈社の社名は荷風によるもので、韋応物の「坐使青燈暁」から選ばれたという。その出版は昭和十一年の荷風の『机辺之話』から始まる限定版で、それらは竹久夢二の『九十九里へ』、伊東深水の『此君亭小曲集』、少雨荘桃哉一斎藤昌三の句集『前後三十年』などが続いた。いずれも稀覯本のようで、これらは未見だが、私にとっての広瀬千香と青燈社は『山中共古ノート』に尽きるのである。

この広瀬千香を著者とする『山中共古ノート』は、青燈社から「未発表稿 私家版」として、昭和四十八年に第一、二集、五十年に第三集が出されている。私が所持しているのは第三集が刊行された際に作られた菊判外装箱入りの上下二段組み三百六十ページに及ぶ三冊セット本で、三十年ほど前に古本屋で購入したものである。背に貼られた題簽にふさわしいタイトルはその筆跡からして共古の自筆からとられたものだろう。彼女は「小さいノートですが、老いの精一杯の仕事でございます」と第一集の前口上を述べ、その最初の章「手稿本『共古日録』を読みて」を、次のように始めている。

 つひに悲願が届いた―といはうか、共古・山中笑先生の遺された手稿本五十二冊、閲読を許された日、素晴らしい衝撃に駆られ、年令(とし)も忘れて、日参とまではいかないけれど、隔日に通って、先生の手蹟にふれ、ノートをとり初めた。早稲田大学図書館の貴重書中に、これが納ったのは、捺印でみると昭和廿五年十月廿五日とあることから、もう、とうの昔、此処に秘蔵されてゐたのである。知らないといふことは、可哀さうなもので、遂に今日まで、私はこれを突きとめることができなかった。

彼女の記述を補足しておけば、『共古日録』は旧幕臣で、メソジスト教師の牧師であり、また集古会の中心人物、日本の民俗学の先達として、集古会の人々や柳田国男や折口信夫からも山中共古翁と呼ばれた人物が、明治三十五年から大正十二年にかけて書き続けた五十二冊に及ぶ「見聞記」「忘備録」である。彼女はそれを「維新前生れのお祖父様から、江戸の昔語りを聞くことが出来、或は書物好きで博学の、記憶のよい学者が、古銭、板碑、出土品、庶民の生活、風俗、祭事、なんでもござれ、老の心を動かした事象悉く」を充満させた「博覧強記の先生」の「知恵袋」とよんでいる。

彼女は『共古日録』が早大図書館に架蔵されていることを、書物展望社時代の知己だった雄松堂の新田勇次から聞かされ、それを読むべく図書館に通い始める。通い始めたのは昭和四十七年五月末日で、四十八年正月明けに読了にこぎつけ、ノートを十二冊とった。これがベースとなって、『山中共古ノート』全三巻へと結実していくのである。この広瀬の大部の労作の詳細に言及する紙幅はないが、これだけは言っておくべきだろう。『共古日録』の全巻が出版されていないため、広瀬の『山中共古ノート』が山中共古、及びその様々な周辺事情と関係人物についての言及も含めて、それこそ「見聞記」「忘備録」となっていて、現在でも彼女の著作をこえる研究は出現していない。

私は山中共古の『見付次第/共古日録抄』(パピルス)の編集資料として、『共古日録』のマイクロフィルムを見ているので、広瀬がいうように「共古翁の手跡には大変クセがあって読み難い」ことがよく理解できる。それを彼女は国会図書館蔵の大正十二年震災後から昭和三年までの『続共古日録』全十四冊まで読んで、この『山中共古ノート』を書いている。その努力に対し、オマージュを捧げたくなる。『思ひ出雑多帖』の中に、次のような言葉があった。
見付次第/共古日録抄

 私の人生も涯(はて)に来た。自分の立場から、つくゞゝ顧ると、短い人の命に比べれば、形を留めるものは文字であり、活字ではないか。文字、活字のこわさ、無気味さを、考へずにはゐられない。

これは永井荷風にふれた章に見える言葉であるが、この一文を書いた時、彼女の脳裏を過ぎっていたのは、『共古日録』を読み続けて実感した思いではなかっただろうか。

『共古日録』についても『山中共古ノート』に関しても、紹介に終わってしまい、詳しくはふれられなかったけれど、私が出版した『見付次第/共古日録抄』はまだ在庫があるし、この一冊は格好の共古の世界への案内書ともなっているので、ぜひ読んでほしいと思う。

最後に私も知らなかった共古の狂歌が『山中共古ノート』第三集に引用されているので、それを掲げ、閉じることにしよう。

   またの世に紙魚に生れて珍本を    穴のあくまでよみとほしなん

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