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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話445 竹内道之助、風俗資料刊行会、三笠書房

これまで散発的に竹内道之助と三笠書房にふれてきた。ここであらためて竹内のプロフィルを描いておくことにしよう。その前に鈴木徹造の『出版人物事典』での立項を引いておく。

出版人物事典

[竹内道之助 たけうち・みちのすけ]一九〇二〜一九八一(明治三五〜昭和五六)三笠書房創業者。東京生れ。正則英語学校、アテネフランセ卒。一九三三年(昭和八)一〇月、三笠書房を創業。竹内道之助訳でジイド『ドストエフスキィ研究』を処女出版、以来、英米文学の翻訳出版を主に行った。三八年(昭和一三)には、マーガレット・ミッチェル、大久保康雄訳『風と共に去りぬ』を出版、ベストセラーとなり、戦後も売れ続け、延べ三〇〇万余部にも達した。さらに、ドストエフスキー、ヘルマン・ヘッセ、クローニンなどの全集を出版、英米文学に強い三笠書房として知られた。六八年(昭和四三)ころから経営不振に陥り、七三年(昭和四八)会長に退き、以後、翻訳に専念した。
風と共に去りぬ(三笠書房版)

これが出版正史から見られた典型的な竹内の紹介で、見事なほどに彼の実像を伝えていない。本連載で、竹内が藤澤衛彦の下で『伝説』の編集に携わり、藤澤が梅原北明の文芸資料研究会編輯部の同人となったことから、印刷屋の福山福太郎と知り合い、福山が文芸資料研究会を設立した際に、そちらに入り、同会発行の雑誌『奇書』や「変態文献叢書」の編集を手がけたこと、それを小説に書いていること、まだポルノグラフィの翻訳に手をそめたこと、三笠書房の設立協力者が西谷操だったことなどを既述してきたが、それらは一切捨象されてしまっている。

しかも三笠書房は社史を出していないこともあるとはいえ、明治、大正の出版社ではなく、昭和十年に設立され、四十年代までは竹内の現役の出版者だったことからすれば、あまりにも一面的な見方のように思える。もちろん現在の三笠書房が経営や出版物もまったく異なっていることを考慮したとしても。それに私は、竹内が梅原人脈から始まり、昭和十年代から戦後の三十年代にかけて、小説も含めた人文書や翻訳の出版において、かなり重要な役割を果たしていたのではないかと考えている。ただ三笠書房は全出版刊行目録も出されていないので、その全貌を俯瞰できないでいる。

しかし『発禁本』(「別冊太陽」)における、竹内の主催した風俗資料刊行会の出版物の四ページにわたる掲載、及び関連雑誌の『談奇党』や『匂へる園』の復刻などもあり、福山の文芸資料研究会から三笠書房創業に至る間の出版活動のラフスケッチが描けるようになったので、それを記しておきたい。

発禁本

昭和五年に竹内道之助は縁戚の資金後援を受け、梅原一派の酒井潔、佐藤紅霞、原比露志たちの協力もあり、風俗資料刊行会を設立し、いずれも竹内編の雑誌『風俗資料』、続けて『デカメロン』を創刊した。それから同年には、同じく雑誌『絵入百物語』、また日本愛書家協会を名乗って『匂へる園』を刊行し、重なる発禁処分を受けている。発禁といえば、近年金沢文圃閣から復刻された『匂へる園』第二輯は「現代軟派文献大年表」と銘打たれた軟派出版の歴史と関係書目、及び出版社と発禁書目を特集したもので、この種の特集としは最も早いものだと思われる。中扉に「ÉDITION PRIVÉE /a quatre cent exemplaires 」とあるから、数えはしないが、「発禁書目」は四百冊に及んでいるだろう。

『日本好色美術史』
そのかたわらで、原浩三『日本好色美術史』、佐藤紅霞『好色秘事談奇』、酒井潔『菫苑夜話』、竹内『苦病と快楽』、原比露志『寝室の美学』『港々の猟奇街』などを出版している。酒井の『菫苑夜話』について付け加えておけば、これは本連載36「南方熊楠と酒井潔」で既述したように、「南方先生訪問記」が収録され、口絵写真に南方の葉書、及びユーモラスな「書斎裡の南方熊楠先生像」を無断で掲載したことで、南方の怒りをかった一冊である。その他にはやはり本連載52「風俗資料刊行会の『エル・キターブ』」で記しておいた検閲の愚を笑うしかない。イスラムの性典も出されている。

これまで見たきたように、竹内道之助は文芸資料研究会を経て、風俗資料刊行会を興し、出版者のみならず、著者、訳者としても出版活動に参加していく。その軌跡は『匂へる園』第二輯の「軟派出版略史」に述べられている、昭和に入ってのこの分野の出版の流行や出版社の変化と軌を一にしている。また明治、大正時代にはそれらを活版で組み、合法的に出版することは容易でなかったが、そのような状況が変わると同時に、それらの出版活動に携わる人々も異なってきたと。そして「近代に於ては比較的知識階級者若くは著述に関して趣味と経験とを有する素人が出版計画を為すことで、従つて自ら著述し自ら発行人となり、そうして出版営業もやるのである」と「軟派出版略史」は記している。

この竹内が書いたと思われる一文は、まさに梅原北明の文芸市場社から始まり、風俗資料刊行会までの「昭和艶本時代」の内側からの証言となっている。しかしこのような「軟派出版」のディケードも、小林多喜二の虐殺に象徴される左翼弾圧とパラレルに終わりを迎えようとしていた。それゆえに竹内は風俗資料刊行会を閉じ、三笠書房の設立へと向かったのであろう。

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