出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話453 馬込文士村、田中直樹、チップ・トップ書店

本連載448でふれなかったが、原比露志の『世界風流譚』は様々な図版入りの小型艶笑本である。いうなれば、これもコントと見なしていいのかもしれない。この本を読んでいて、以前に同様の小型艶笑本を取り上げたことを思い出した。それは同39の田中直樹の『モダン・千夜一夜』である。同書は昭和六年にチップ・トップ書店から刊行され、二百ページ弱の本に外国人のヌード写真を五十枚近く収録したことで、ただちに発禁処分になったようで、『発禁本3』(「別冊太陽」)にその書影を見ることができる。

発禁本3

この『モダン・千夜一夜』は『犯罪科学』に連載された「埋草」記事をまとめたもので、著者の田中直樹は既述したように、武俠社の『犯罪科学』の編集者であった。昭和八年に文化公論社を立ち上げ、『犯罪公論』『文学界』『文化公論』を創刊するに至っている。これらの経緯、特に『文学界』創刊事情については、高見順の『昭和文学盛衰史』(文春文庫)などに詳しい証言が残されている。
昭和文学盛衰史

これらの田中に関する様々な出版事情はともかく、どうしてこのような発禁処分を受けるとわかっている本を、田中やチップ・トップ書店があえて出したのかがずっと疑問のままであった。田中はそれまでの経験から発禁処分を覚悟していたはずだし、チップ・トップ書店もおそらくこの一冊を出しただけで終わってしまったと思われたからだ。

実は最近になって、この田中とチップ・トップ書店の名前を目にしたのである。それは近藤富枝の『馬込文学地図』(中公文庫)においてだった。以前に読んだ時には記憶に残っていなかったが、田中とチップ・トップ書店の双方が出てきたのである。両者とも所謂「馬込文士村」の一員で、その関係については言及されていないが、次のように書かれていた。まずは田中から示そう。田中が菊池寛の近傍にあったことは既述しているけれど、このようなプロフィルはここでしか描かれていない。

馬込文学地図

 この田中直樹というのがまた端倪すべからざる人物で、馬込で麻雀倶楽部を開いていた。もともと彼は文芸春秋で経理を預かり、菊池寛の秘書だった。ところがある事件があって彼は菊地の怒りにふれた。田中は菊地を尊敬していたが、口惜しさの余り服毒したのだ。この行為は未遂に終わったが、静養先から帰ってみると、もう文芸春秋に田中の席はなかった。菊池夫人の同情で、田中は『小学生全集』の興人社(ママ)に就職した。

「ある事件」についての見当はつくが、ここではふれない次にチップ・トップ書店を示す。尾崎士郎と宇野千代の家は馬込放送局と呼ばれるほど、大勢の人が集まり、様々な情報が伝播していくようになり、これが馬込文士村の崩壊を早めたとされる。

 放送局員として重要な役目を果たしたと思うのは、馬込村の純粋な住人ではないが、大森駅から馬込へくる途中、弁天池のそばでチップトップという新本屋を開いていた松沢太平という人物である。彼は水戸生まれで、姉のはまが広津和郎の恋人であった。彼は自分の店で、誰と誰が馬込の誰を訪問したかをつねに監視していたので、馬込の番人とか関守とか綽名されるようになった。

松沢もまた宇野の言に見られる「人に愛されすぎるというのが唯一の欠点のような」尾崎の信奉者の一人だったのである。

このふたつの記述から、田中とチップ・トップ書店の結びつきが馬込村を通じてなされたと推測できる。そこであらためて『モダン・千一夜』の奥付を見てみると、チップ・トップ書店の住所は大森を示す東京市外入新井町一七一一と記され、発行者は松澤真蔵となっている。これはおそらく松沢太平の兄弟、もしくは縁戚に当たる人物ではないだろうか。発禁処分を覚悟の上の出版であったので、実際の発行者は松沢太平だったが、代理人名義にしたとも考えられる。

近藤が述べているような事情から、田中は一時的に出版界から離れ、馬込村で麻雀倶楽部を営んでいたが、それは仮の姿で、絶えず出版界への復帰を目論んでいたと思われる。彼は本連載31の武俠社の『近代犯罪科学全集』や『犯罪科学』の編集者であったし、後者に自らが連載した「埋草」にヌード写真を併録し、『モダン・千一夜』なるタイトルで出版すれば、たとえ発禁となったとしても、かなり売れるであろうし、また田中自身の編集者、出版者としての顕在ぶりを示すことができると考えたのではないだろうか

そして想像するに、馬込村人脈から発売所としてチップ・トップ書店が浮かび上がり、松沢太平が製作費も含め、出版を引き受けることになった。この出版を機にして、田中は文化公論社を立ち上げるきっかけをつかみ、『犯罪公論』や『文学界』をも創刊するに至ったのではないだろうか。

拙稿「坪田譲治と馬込文士村」(『古本探究2』所収)において、この村から坪田の『子供の四季』や尾崎士郎の『人生劇場』が実質的に生まれてきたことを記しておいたが、『モダン・千一夜』もまた馬込文士村で起きた出版ドラマのひとつであり、そうした出版をめぐるドラマはまだいくつもあったにちがいない。

古本探究2  子供の四季 人生劇場

その実例として、本連載168でもそれこそチップ・トップ書店の松沢太平の姉の愛人の「広津和郎、芸術社、『武者小路実篤全集』、大森書房」を書いているので、こちらも読んで頂ければ幸いである。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら