出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

混住社会論95 鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)


前回の山田太一『岸辺のアルバム』の系譜を引き継ぐホームドラマとして、一九八三年に鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』が放映された。これは『岸辺のアルバム』と異なり、続編も制作され、『大衆文化事典』(弘文堂、一九九一年)に立項されている。それらは『金曜日の妻たちへ』のテレビ放映の人気、及びその反響と波紋が『岸辺のアルバム』以上だったことをしめしていよう。とはいっても、やはり三十年前の作品であるから、まずはその立項を引いてみる。

岸辺のアルバム 金曜日の妻たちへ (DVD)

 『金曜日の妻たちへ
 1983年にいわゆる「金ドラ」枠で放送(TBS系)された連続ドラマ。その後好評に応えるかたちでパート2、副題『男たちよ、元気かい?』(89年)、続いてパート3『恋におちて』と相ついで放映された。従来の連続ドラマステージは下町の老舗とか山手でも戦前からの有名な住宅地域だった。しかしテレビ視聴層の主流は大きく変わり、彼らの大半は郊外かそれに近い集合住宅住いであり、テレビドラマが描く生活環境や現実とはずれていた。『金妻』の舞台は、多摩丘陵から湘南にかけての新興のニュー・タウンである。エステート型とメゾネット型(三層住宅)を散在させ小公園も点在する環境のなかでの若い夫婦たちのライフ・スタイル、それをバックに不倫とよばれる関係を中軸に据えて彼ら数家族の心の揺れを追ったドラマ。登場人物たちは大学時代のクラブ活動などの先輩後輩の関係である。彼らの交流は旧世代の親戚付き合いや近所付き合い以上の濃密さがある。ベビーブーム世代、現代ッ子世代、全共闘世代とよばれ、今では団塊の世代だ。その彼らにとっては祖父母・父母のタテ型家族より、友人などヨコの絆のほうを優先させる。週末の夜は順ぐりで家族ぐるみの食事をし語らう。そのやりとりと、そこから芽生える愛の切実さと不毛さを追う内容(脚本・鎌田敏夫)。新しい中流生活の様式を描くことで時代とも接点をもったドラマ。キンツマ症候群という造語も生まれた。
男たちよ、元気かい? (『男たちよ、元気かい?』) 恋におちて(『恋におちて)

その俳優たちも挙げておこう。物語のコアとなる三組の夫婦を演じたのは、古谷一行いしだあゆみ竜雷太小川知子泉谷しげると佐藤友美である。『岸辺のアルバム』と同様に、残念ながら『金曜日の妻たちへ』も見ていないので、省略せずに引用してみた。ちなみに『岸辺のアルバム』の「浮気」は、『金曜日の妻たちへ』の出現によって「不倫」へと転換され、流行語になったと伝えられている。

この『金曜日の妻たちへ』『岸辺のアルバム』とは逆のかたちで、鎌田敏夫自身によってシナリオが後にノベライゼーションされている。ここではそのノベライゼーションによって、その「新しい中流生活の様式を描くことで時代とも接点をもったドラマ」をたどってみよう。その前に留意すべきは「テレビ視聴層」の変化にしても、「新しい中流生活」の出現にしても、一九七五年に戦後世代が過半数に達し、日本が戦後世代社会へとシフトし始めていたことで、『金曜日の妻たちへ』の物語の時代はそれから八年後なのである。

その冒頭において、その主たる舞台となる中原夫婦の生活環境が提出されているので、まずはそれを見てみる。

 ダイニングキッチンの大きな窓から、西地区のテラスハウスが見えている。
 キッチンの見える風景が、久子は大好きだった。緑の多いゆるやかな丘陵に、オレンジ色の屋根の集合住宅が、ゆったりとしたスペースで建ち並んでいる。
 久子の家も、窓から見えているのと同じテラスハウスなのだ。
 幹線道路をはさんで、ニュー・タウンの広い敷地が、東地区と西地区に分かれていて、久子たちは東地区の方だった。

このテラスハウスは4LDKで、三千五百万円だった。四軒のテラスハウスから一棟がなり、二階が玄関で、白い専用階段があり、そこには花の鉢が置かれていた。それは本当に「安い買物」ではなく、貯金と会社からの借金で頭金を払い、残りはローンを組んで購入したものであり、ボーナスはほとんどローンの支払で消えてしまっていた。都内の商社に勤める夫の宏にとって、このニュー・タウンは都心から一時間以上かかるので大変だが、妻や子供たちにとってはまだ秋と冬の半年しか暮らしていないけれど、「ここは天国」だった。一日の時間の流れや季節の移りかわりがはっきり感じられるし、サッカーや野球もできるグランドまであったからだ。

最寄りの駅が田園都市線たまプラーザ駅であることからすれば、この地域は多摩ニュータウンであり、その中でも一九七〇年代後半から八〇年代前半にかけて新たに開発されたエリアだと見なせよう。多摩ニュータウンの第一次入居開始は七一年で、それに先がけ、六九年に二子玉川高島屋ショッピングセンターが開店している。『金曜日の妻たちへ』に出てくる駅前のショッピングセンターはそれであろうし、本連載57でも既述している。

ただこの『金曜日の妻たちへ』ニュータウンの開発が日本住宅公団なのか、それとも民間資本によるものなのかは言及されていないが、中原家のメゾネット型の集合住宅は『日本住宅公団20年史』(一九七五年)の「標準設計平面図」にも見当たらないので、民間による建設物の可能性が高い。それに周辺には高層マンションや分譲住宅があるとの記述もそのことを裏付けているように思われる。またそれが八〇年代の土地開発と住宅建設の特質でもあったのだ。

中原宏は三十八歳の商社マンで、大学時代はラグビー部員、妻の久子は短大を出て、地味な会社に勤めて結婚し、小学四年と一年の男の子が二人いる。拙著『〈郊外〉の誕生と死』において、郊外生活者のたどる典型的回路が「木賃アパート→団地→マイホーム」であると指摘しておいたが、中原夫婦もまたそのようにして現在の住居に至っている。
〈郊外〉の誕生と死

それらの様々な設定を考えると、『金曜日の妻たちへ』は、十年後の『岸辺のアルバム』であり、こちらには写真のアルバムこそ出てこないけれど、物語のベースには七〇年代の記憶のアルバムが埋めこまれている。その物語のトポスは多摩川の内側ならぬ向こう側のニュータウン、主たる登場人物は戦前生まれではなく、戦後生まれに他ならず、所謂「団塊の世代」が郊外と結婚の物語を演じることになる。八〇年代とはそのような時代に他ならなかった。

中原家を取り巻く二組の夫婦もやはり同世代である。村越隆正は四十歳の外車販売会社の社長、妻の英子は元スチュワーデスで、久子の短大の同級生で十歳の娘がいて、近くの土地つき一戸建てを購入して住んでいる。田村東彦は三十四歳の区役所勤めの公務員、年上の妻の真弓は三十八歳のイラストレーターで、中原夫婦とは同じ団地住まいの友人だったことから、このニュータウンへも一緒に越してきていた。

そのような関係を通じて、これらの夫婦と家族は休日にはいつも集まって食事をしたり飲んだりして、それがもう十年も続いていた。その中心となる中原家のダイニングテーブルは十人も座れる「コミュニティテーブル」で、そこが「中原家の社交場」でもあった。それは『岸辺のアルバム』にはまったく見られなかった光景だし、もはや郊外の主婦の孤独は追放され、戦後生まれの世代による新しい郊外のコミュニティのかたちがまずは提出されていることになる。当たり前のようにジーンズ姿でワインが飲まれ、ビートルズ全共闘のことが語られる。したがって「中原家の社交場」とは、従来の親兄弟、親類、会社の人間といったメンバーで構成されておらず、世代とライフスタイルを共有する友人たちによって担われ、それが十年間も続いてきたのである。「すごい事なのよ、十年間こうやってワイワイやってこれたの」。

かつてはどの家にも子供はおらず、中原の団地の狭い部屋で日本酒の二級とサントリーの白を飲み、安いステレオでビートルズの「イエスタディ」や「ミシェル」などの切ない曲を聞いたものだった。だが今の「食卓の上も窓の外の風景も、あの頃から比べると、はるかにぜいたくになっている」。この述懐は七〇年代後半から八〇年代前半にかけての消費社会の成熟がもたらした豊かさでもあり、それによって家族の第三次産業化とエンターテインメント化も促されたようにも思える。そのようなファクターをベースとする家族がニューファミリーと命名されたといっていい。あるいはその後に立ち上がってくるシェアハウスなるコンセプトも、このような疑似家族のイメージに起源を持っているのかもしれない。

しかし久子のもらす「もともとは他人だもの、夫婦だって。(中略)この世には、大勢の男と女がいるわけでしょ。その中で一人だけを選んで、小さな屋根の下で死ぬまで一緒に暮らして……切ないと言えば、そっちの方が切ないわよ」という言葉をきっかけのようにして、「中原家の社交場」にも波紋と亀裂がもたらされ、顕在化していく。

それはニューファミリーと疑似家族にとって、世代や環境を異にする他者というべき二人の女性の侵入と攪乱を介して進行する。若いモデルの玲子は「泥棒猫」のように隆正の愛人になり、英子を離婚へと至らせる。もう一人のOLの佳代は『金曜日の妻たちへ』にあって、明らかにファム・ファタルとして、宏を誘惑し、籠絡に掛かる一方で、宏のラグビー部の後輩の神谷も翻弄する。それは「いつもゾロゾロくっついて……お友達ごっこでもしているつもりなんですか、いい年をして……」という彼女の言葉に表象される、「中原家の社交場」を崩壊させたいという意志に基づくものだ。玲子と異なり、「普通の女じゃない」佳代のプロフィルは明確にされず、物語の中で絶えず異物、もしくはストレンジャーのように存在している。彼女は新しい共同体としての郊外の「コミュニティテーブル」につくことを、あらかじめ拒まれた存在のように描かれている。

だが玲子にしても、佳代にしても、彼女たちもまた久子や英子や真弓の分身であるかもしれないのだ。隆正は玲子と再婚し、彼女は新しい妻や母として、英子の代わりを務める。離婚した英子は佳代の代わりのように、宏と関係を持つ。それらは「中原家の社交場」の鏡像なのであろうし、それを直視できない英子はフランスへと旅立っていく。そして『金曜日の妻たちへ』のクロージングは「ダイニングに宏と久子の二人きりになった」という一文で閉められている。それは郊外の「コミュニティテーブル」の困難さを暗示しているようにも思える。

一九三四年生まれの山田太一『岸辺のアルバム』で、自らと同年の主人公と近代家族の悲劇的終末とその再生の行方を描いたことに対し、三七年生まれの鎌田は同世代ではなく、戦後生まれで消費社会を生きることになった主人公たちと現代家族をテーマとしたことになる。それゆえにテラスハウスを舞台とする『金曜日の妻たちへ』は、必然的に現代家族のクリティックも含めたパロディの色彩を帯びて提出されたと見なすこともできよう。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1