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混住社会論97 黒岩重吾『現代家族』(中央公論社、一九八三年)



前回ふれたように、吉本隆明『共同幻想論』(角川文庫)の「対幻想論」において、典型的な家族小説として、夏目漱石『道草』を挙げているが、それに加えて森鴎外の「半日」も論じられている。そしてどちらの場合も、そこに表出している家族が「当事者の一個人にとらえられた悲劇」であることに変わりはないと記し、次のように述べている。これは近代家族と知識を積み重ねた個人の織りなす関係の問題についての重要な部分なので、そのまま引用してみる。
共同幻想論 道草 半日(「半日」所収)

 漱石『道草』をかき、鴎外が「半日」をかいたとき、かれらが当面した問題は、大学教師や作家や軍人としての自分と〈家族〉のなかの自分とが、それぞれちがった貌の面をさらしているという意識であった。かれらは大学教師や作家や軍人という社会的な貌として、ひとりの個人である。だが〈家族〉の一員としては、ひとりの個人ではありえない。その中心にはじぶんと細君の関係があり、親があり、子供があり、親族がとりまいている。そして細君はひとりの個人であるという場面をもたないから、ときとして〈家族〉の一員でありながらひとりの個人だといった矛盾をやってのける。そしてそのとき、じぶんもまた細君に対応して、ひとりの個人という矛盾を夫婦の関係のなかで強行する。もしそういうことが悲劇ならば、悲劇は〈家族〉と〈社会〉との関係の本質のなかにあったのである。

『道草』は一九一四年、「半日」は一九〇九年に書かれ、それからすでに一世紀余を経ているし、社会も大きく変容し、妻や主婦の立場の法的位置づけの変化とパートタイム就業、また女性の高学歴化と仕事における男女雇用均等法や総合職などの導入も進み、表面的には「細君はひとりの個人であるという場面をもたない」ことがもはや前提ではなくなっている。その実例を本連載でも、小島信夫『抱擁家族』から近藤ようこ『ルームメイツ』に至るまで見てきたばかりだが、まだ家族の悲劇は終っておらず、それは依然として「〈家族〉と〈社会〉との関係の本質のなかにあった」ままのように思える。それゆえに家族は永遠に問われていく問題としてあり続けている。そして社会もまた。

抱擁家族 ルームメイツ

中央公論』に連載され、一九八三年に刊行された黒岩重吾『現代家族』はその象徴的タイトルと相俟って、現代の「半日」のような家族問題、それに社会問題がダイレクトに反映され、家族が社会との危ういバランスシートの上に成立していることを、黒岩は練達のストーリーテーラーとして巧みに描いている。またこれは蛇足かもしれないが、「半日」は嫁、姑問題に対する妻の執拗な言動とそれに悩まされる大学教授のまさに半日を描いたもので、鴎外夫人の意向によって、戦前は単行本にも全集にも収録されなかった作品である。

その鴎外の「半日」が都心の官吏や学者の多い高級住宅地の本郷区駒込西片町の屋敷だったことに対し、黒岩の昭和の「半日」というべき『現代家族』は東京都下の「新興都市」M市である。このM市は武蔵野市をモデルとしているのだろう。M市は駅の近くに戦後すぐに建てられたが、今にも壊れそうな市営住宅、その傍には古い文化住宅があり、やはり古い時期に建設された公団住宅も多い。現在でもキャベツ畑が消え、そこが建売住宅に変わり、また土地を売った農家の昔の御殿のような家が並んでいたりする。典型的な郊外の混住社会の風景に他ならず、まだ開発は続いているのである。『現代家族』の主人公の松田木勇作、洋子夫婦の家も建売住宅を購入したものであった。

 勇作の家は十年前に買った建売住宅だった。M市の駅からバスで十五分ほどの距離にある。勇作と洋子が学校の共済組合から資金を借り、当時千三百万だった家を手に入れたのだった。土地が三十五坪あるから、現在では四千万はする。借りた資金は毎月給料から差し引かれるが、勇作、洋子とも二万ずつ、計四万ほど返済している。返済は今年で終わる。二人で共同で買ったので、土地の名義は勇作、家の名義は洋子になっていた。
 その頃は、勇作、洋子とも、土地がこんなに騰るとは思わなかった。洋子は今頃になって、土地の名義を自分の方にすれば良かった、と悔しがっている。

このような記述は一九七〇年代から八〇年代にかけての家と土地の入手事情とその価格を示していて興味深い。黒岩のことだから、これらの数字は取材に裏づけられているはずだ。そうした数字だけでなく、「買った建売住宅」という一節はすでに「家」が建てるものではなく、買うことが一般的になっていた事実をも伝えている。「建売住宅」という用語は一九六〇年代半ばから普及してきたとされるが、七〇年代を迎え、それを購入することがマイホーム入手とほぼ同義語となっていたと考えられる。そのような状況は郊外の地価の高騰ともパラレルで、その時代特有のインフレによる上昇があったにしても、松田木家のマイホームは十年間で何と三倍となっているのだ。こうしたマイホームのインフレが、七〇年代以後に90%以上を占めるようになった中流意識の増加を下支えしたものだったにちがいない。

この家に住む勇作は三十九歳で、都心の公立高校の日本史の教師だが、組合問題に巻きこまれ、ノイローゼ状態になったことから、高校教師の足を洗い、大学の助教授となることをめざしていた。そのために論文も書き、政治力のある国立大学文学部長のところへも出入りしていた。妻の洋子も三十八歳の英語の教師で、彼女は都下の高校だったが、英語の実力もあり、受験生相手の家庭教師も務め、その収入を合わせると、勇作の二十七万円の手取りに比べ、五十万円近く稼いでいた。そのアルバイトは、勇作の母親の美智枝と顔を合わせる時間を少なくするために始められたのではあるけれど、今では金銭に対する欲もからんでいた。中学二年生で十四歳の一人娘の真理子とのショッピング、及び夫の本や資料代や車の維持費などにも金がかかるようになってきたからだ。

母親の美智枝は六十八歳で、五年前に父親が亡くなり、三年前に長男の勇作が仕方なく引き取ったのだが、夫の遺産に加え、勝気で自己主張も強く、引き取られたという気持は持っていなかったので、洋子ともよく衝突した。それに週二回、近くのコミュニティセンターで茶華道を教えていたし、様々な老人のための会にも出席し、食事代として毎月一万五千円を勇作に渡していた。美智枝が同居するようになったのは真理子が小学六年生の頃だった。しかし真理子は祖母の性格や言動に反発し、洋子と真理子が二階で、勇作と母親が一階で寝るようになった。「だが、寝る場所を変えたくらいで、家の中が旨く治まる筈はなかった。美智枝と、洋子、真理子の関係は今でも険悪である。勇作は、母親と、女房、娘の間に立ち、遣り切れない思いをすることがしばしばだった」。

ただ誰に訊いても、嫁と姑がうまくいっているケースはなく、子供たちにしても感覚的に早熟で自我意識が強く、母親と同調して感覚がずれている祖母を軽蔑することが多くなっているようだった。そうした家庭状況や妻の収入のことで圧迫感を覚えていたこともあり、勇作は東京の教育専門の大学院を出ていたし、高校教師とはやはり格がちがう大学の助教授になって、「一家の主人としての権威を取り戻すこと」を願っていた。

これらの『現代家族』の物語設定と家族構成は鴎外の「半日」を彷彿とさせる。しかし時代と住む場所が変わっているように、「半日」の主人公は大学教授だったけれど、勇作は大学教授になりたい高校教師、妻は彼よりも稼ぎのいい有能な英語教師、その娘は成長した中学生であり、母親は夫の遺産を確保し、地域のコミュニティセンターで茶華道を教えていた。つまり勇作を除いて、『現代家族』の登場人物たちは「半日」の女性たちよりこ、それぞれがはるかに自立し、成長していることになる。その意味において、嫁と姑と娘も「ひとりの個人であるという場面」をもつ存在として描かれているし、夫もまた絶えず「ひとりの個人」と「「〈家族〉の一員」であることのバランスシートを考える人物として設定されている。つまり社会にあっては「ひとりの個人」=高校教師、家庭においては「〈家族〉の一員」=夫、息子、父の立場を使い分け、それに照応するように、『現代家族』の物語は展開されていく。そこに家族小説であるにしても、黒岩重吾ならではのビルドゥングスロマン性をうかがうことができるし、それは同時に豊かな消費社会を迎え、多くが中流意識を共有するに至った戦後の日本人の成熟を浮かび上がらせているかのようだ。

実際に母の美智枝に対し、エリートサラリーマンでマンション住まいの弟の勇二郎と美人で虚栄心の強い妻は、勇作一家の代わりを務めることができない。それは弟一家がいってみれば、勇作の体現する「抱擁家族」を演出することが不可能だからだ。勇作は絶えず母親のことばかりでなく、妻や娘に関しても、「やり切れない思い」を抱いている。それは母も妻も娘もいきなり理解できない人種へと変身してしたような思いであり、「参ったなあ、弱ったなあ、一体どうすれば良いのか」と胸の中で呟き、それでも「計算」や「演技」も行使し、そのような繰り返される散文的な日常を乗り越えていくのである。

そうした家族問題が繰り返される中にあっても、否応なく社会問題も生じていく。それは事件とし「ひとりの個人」=高校教師にも押し寄せ、勇作が生活指導部員を引き受けたことから、非行生徒問題に巻きこまれ、家族の間にも波紋を及ぼしていくのだが、妻と母と娘が「ひとりの個人」=「〈家族〉の一員」として対応することによって、事件は収拾へと向かっていくのである。そうした意味において、黒岩の『現代家族』は鴎外の「半日」の家族の悲劇的色彩は薄れ、それよりも成熟した地平まで進んできたように思える。『現代家族』の「著者のことば」が帯裏に書かれているので、それを引いて、本稿を閉じることにしよう。

 (……)私や妻には教師の経験はないが、私の家庭も、この小説の家族と同じく、母・妻・娘の三世代によって成り立っている。そういう意味で、この小説の主人公は私自身で、登場する家族の一人一人は、母や妻、そして数年前の娘の分身といえるかもしれない。
 もちろん「現代家族」は小説であり、ノンフィクションではない。(中略)私の家庭がモデルだ、と誤解されては困るのだが、連載中、私は、私自身を、そして母、妻、娘を切り刻んだ。「現代家族」は、私が血を流して描いた数少ない作品の一つである。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」96  近藤ようこ『ルームメイツ』(小学館、一九九七年)
「混住社会論」95  鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1