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古本夜話461 坂口安吾『日本文化私観』と文体社

本連載458で、昭和十一年に明治書房から刊行されたブルーノ・タウトの『日本文化私観』を挙げ、それが『ニッポン』や岩波新書の『日本美の再発見』と並んでロングセラーとなっていた事実を述べておいた。それは昭和十年代において、タウトによって発見された「ニッポン」と「日本美」の伝播を意味するものであった。

[f:id:OdaMitsuo:20141121153151j:image:h120] ニッポン 日本美の再発見

だが当然ながら、それに反発する文学者もいて、十七年にタウトと同じタイトルで「日本文化私観」を書き、翌年に同名の評論集を上梓している。それは坂口安吾で、彼の「日本文化私観」は「僕は日本の古代文化に就て殆んど知識を持つてゐない。ブルーノ・タウトが絶賛する桂離宮も見たことがなく」と書き出されている。そしてタウトのいう日本の伝統美は、京都の寺や庭の風景とその成立、家や美の観念の検証を通じて空虚なものへと転倒され、すべては実質の問題へと還元される。法隆寺を壊し、停車場にしても、我々の生活と文化と伝統が健康であれば、「必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ」。これは戦後になって書かれた「堕落論」(昭和二十一年)の先駆けといえるであろう。

しかしここでの目的は坂口への言及ではなくて、坂口の『日本文化私観』を刊行した文体社を取り上げることにある。幸いなことに同書は近代文学館によって復刻され、私もそれによって文体社からの刊行を知った。文体社の本はもう一冊持っていて、こちらもやはり同年刊行の三好達治のエッセイ集『屋上の鶏』で、坂口本が四六判であることに対し、青山二郎装丁のA5判、奥付には初版一万部と明記され、その発行者名は宇野千代となっている。
日本文化私観(岩波文庫版)

宇野は『生きて行く私』(毎日新聞社)を始めとするいくつもの自伝的著作を出しているけれど、戦後の華やかな成功と急転直下の破産に見舞われたスタイル社に比較して、戦前の文体社についてはあまり語っていないし、その出版物明細も判明していないと思われる。そこでこの文体社の軌跡をたどってみる。
生きて行く私

昭和十一年に宇野はスタイル社を設立し、娯楽雑誌『スタイル』を創刊し、恋愛関係にあった北原武夫がその編集に参加する。十三年には文芸誌『文体』を三好達治の編集で刊行する。両誌の創刊号書影は『宇野千代』(『新潮日本文学アルバム』、新潮社)に見ることができる。そして十四年に宇野は北原と結婚し、十六年に文体社を設立している。これらの軌跡は三種類の文学全集の宇野千代の「年譜」などを参照し、それに北原や三好の「年譜」を照らし合わせ、抽出したものだが、それに宇野の後の証言も加えると、スタイル社と文体社は同じで、戦時下の統制によってスタイル社は文体社となり、雑誌『スタイル』も『若い生活』と改題させられたという。したがって『文体』とは直接関係なく、十六年に文体社と社名変更がなされたと考えられる。
[f:id:OdaMitsuo:20141129172956j:image]日本近代文学大事典

それを証明するために『日本近代文学大事典』に立項されている『文体』を引いてみる。

 「文体」ぶんたい 文芸雑誌。昭和一三・一一〜一四・五。全七冊。編集人三好達治、発行人宇野千代。スタイル社発行。創刊計画では堀辰雄、神西清、井伏鱒二、三好達治の四人の共同編集(中略)予定であったが、(中略)三好の単独編集による文芸雑誌となった。全冊を通じて北原武夫が評論、小説を執筆していることが目だち、また堀辰雄は五回にわたって『ユウジエニ・ド・ゲランの日記』を訳出連載。特筆すべきは井伏鱒二の『多甚古村』(四、五号)、太宰治の『富岳百景』(四、五号)、坂口安吾の『閑山』、『紫大納言』(四号)、『勉強記』(七号)などの小説を掲載したことであろう。(中略)戦争前夜の時代と思潮の中で純粋な文学世界を保っている。(後略)

このような編集、執筆人脈から、坂口の『日本文化私観』や三好の『屋上の鶏』が刊行されたとわかる。宇野は自著の『人形師天狗屋久吉』と北原の父の『日露の戦聞書』、それに戦地にいる北原に宛てた思慕の情を綴った、慰問袋用の豆本『恋の手紙』を刊行し、北原もまたジャワ従軍記『雨期来る』を文体社から刊行している。

おそらく宇野が『文体』を引き受けたのは、北原の売り出しに役立てるためであり、そのことを考えると、スタイル社や文体社から北原の小説や評論が出されてしかるべきだと思われるが、それらは確認できていない。なお三好のほうは『詩集捷報いたる』がスタイル社からの刊行である。

そして宇野や北原の「年譜」に、昭和十九年にスタイル社廃業とあるが、これは文体社をさしていることになる。しかしこれでスタイル社や『文体』が終わってしまったわけではなく、昭和二十一年にスタイル社は再建され、『スタイル』は復刊となり、銀座の焼跡に社屋を建て、翌年には季刊誌として『文体』も復刊の運びとなる。小林秀雄人脈の色彩が強く、装丁も青山二郎によっている。それは四冊しか出されず、同誌では未完となってしまったが、宇野の『おはん』、大岡昇平の『野火』、小林秀雄の『ゴッホの手紙』も連載され、また本連載200の庄野誠一「智慧の輪」も掲載されている。

さて宇野とスタイル社だが、昭和三十三年に宇野は『おはん』(中央公論社)を刊行し、いくつかの賞を得たけれど、同年にスタイル社の経営は行きづまり、会社更生法を申請する事態となっていくのである。

おはん

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