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古本夜話463 井上友一郎のモデル小説『絶壁』

宇野千代のスタイル社について、もう一編書いておく。それは北原武夫をモデルとした小説が書かれているからである。

その小説は井上友一郎の正続『絶壁』で、もちろん現在は絶版になっているにしても、かつては新潮文庫『絶壁』に収録されていた。この小説に関してはまず若干の予備知識が必要なので、前回と重複してしまう部分もあるけれど、それから始めることにする。

北原武夫と井上友一郎は『桜』という同人誌に参加していた仲間で、先に勤めていた北原の推挙によって、井上は都新聞社に入った。昭和十二年に北原は最初の妻を失い、宇野千代と急速に親しくなる。北原は三十一歳、宇野は四十一歳だった。その前年に宇野はスタイル社を創立し、ファッション雑誌『スタイル』を発行していた。北原は宇野の熱心な勧めにより、作家生活に入る決意を固め、都新聞社を退職し、『スタイル』の編集に携わることになった。そして十三年にはスタイル社から、二人と三好達治を中心とする文芸誌『文体』を創刊し、十四年に二人は結婚に至る。

戦後の昭和二十一年三月に『スタイル』は復刊され、その四万部は完売となった。戦前と異なり、社長が北原、副社長が宇野で、スタイル社は思いがけない大金をつかみ、銀座のみゆき通りに二階建の社屋を建築し、また二人は銀座近くの木挽町に土地を買い、新居を構えた。そして前回既述したように、二十二年暮れにスタイル社の利益を注ぎこみ、『文体』を復刊させ、小林秀雄の「ゴッホの手紙」や大岡昇平の「野火」などを連載し、高踏的な文芸誌の復活を目論んだ。戦後だけを要約すれば、歳が十歳ちがう作家同士の夫婦が戦後を迎え、かつて手がけていたファッション雑誌を復刊し、その好調な売れ行きに乗じ、社屋を建築し、文芸誌の刊行も始めたことになる。

このような背景を前提にして、『改造』の昭和二十四年五月号に井上友一郎の「絶壁」が発表された。先にストーリーを紹介するべきだろう。主人公は音楽評論家にして作曲家の欣也、出版社を経営している弥千代の夫婦で、その出版社について、「弥千代が欣也と共同で経営している東京音楽出版社は、彼等の豊かな生活を支へるために欠くべからざる財源になつているが、同時に、欣也が一種の音楽評論家として世を渡つていくためには、絶対に必要な足場」と説明されている。そして弥千代の夢は美男の欣也の芸術家としての名声である。

 すでに金もたつぷり出来たし、(中略)弥千代は、欣也が立派な芸術家として伸びるための、あらゆる出費や心尽くしを傾けて悔いぬ一方、もし、彼が、そんな弥千代を裏切つて、名もなき市井の泥臭い女給風情に、ウツツをぬかしはしないかと只管怖れているのであつた。

弥千代の「怖れ」を表象するように、井上は露悪的といっていいほど、その派手な「金魚のやうな服装」と「厚化粧」、老境に近づきつつある肉体に言及し、また描写にも及んでいる。弥千代の「怖れ」はまさに現実となり、漁色家の欣也には二人の「女給風情」の愛人があり、その一人の十八歳の愛人は妊娠し、堕胎までしていることが判明する。しかもその若い愛人は妻の座を狙っているのだ。弥千代が欣也の新作品のために大きな宣伝をうって用意した発表会に、彼は姿を現わさなかった。彼女は純白のイヴニングドレスに身を包み、宝石や貴金属を光らせ、待っていたが、椅子の間に崩れるように倒れてしまった。「絶壁」はここで終わっていて、「続絶壁」では欣也が若い愛人と失踪したことが明かされる。
主人公夫婦の設定やストーリーから、この小説が北原と宇野夫婦をモデルにしているのは明らかであった。弥千代という名前、夫婦の年齢差はいうまでもなく、出版社はスタイル社で、北原の評論集や作品集も刊行していたからだ。どちらかといえば、「絶壁」では宇野に批判が注がれていたが、「続絶壁」においては北原にも辛辣な目が向けられ、欣也はフランスのモラリスト解釈を誤り、「彼は深刻な物思ひに耽る形で、いかにして世の中を巧みに渡つていけるかを考へめぐらす一個の才子だ」と断罪されている。

大村彦次郎『文壇栄華物語』筑摩書房)によれば、「井上がこのモデル小説を意識的に書いた直接の動機は、北原の女性問題をめぐって仲介をした井上が宇野の逆鱗に触れ、北原から絶交状を貰ったことに端を発した」という。北原と宇野夫婦にとっては衝撃的な作品で、マスコミもセンセーショナルに扱い、『改造文芸』八月号は河盛好蔵の司会により、北原と井上を対決させたが、話は平行線をたどり、井上は矛先を収めず、その九月号に「続々絶壁」を書くに及んだ。
文壇栄華物語

だがその後、スタイル社は倒産し、北原と宇野も離婚する。そして井上と北原はずっと絶交の間柄であるにもかかわらず、やはり『桜』の同人だった田村泰次郎を加え、昭和四十三年には『北原武夫・井上友一郎・田村泰次郎集』(『日本現代文学全集』94講談社)が出ている。しかしそれには「絶壁」は収録されておらず、正続揃って収録されているのは筑摩書房『新選現代日本文学全集』第23巻などだけであると思われる。
(『新選現代日本文学全集』第23巻)

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