出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話465 青山虎之助、『新生』、『茉莉花』

続けて戦後の『スタイル』の復刊とその倒産に関して書いてきたこともあり、ここで『新生』を取り上げてみよう。それはこのところ出版界の長老というべき塩澤実信や原田裕へのインタビューで、あらためて戦後における『新生』創刊のインパクトを教示されたからでもある。

もちろん二人の証言によらずしても、戦後の出版史と文学史の始まりにあって、『新生』と青山虎之助の存在を抜きにして語ることはできないだろう。敗戦後の二十年九月に青山は三十一歳の若さで、二百万円の金を用意し、内幸町のビルに新生社の看板を掲げ、本連載118の室伏高信たちを編集顧問とし、戦後初の総合雑誌『新生』を創刊した。高額な原稿料で一流の執筆者たちを揃え、正宗白鳥や永井荷風や谷崎潤一郎などの大家も動員し、話題を呼び、直接仕入れにきた書店が列をなし、創刊三十六万部は即日完売だった。

それゆえに『新生』の出現は出版業界に大きな衝撃をもたらした。新興の出版社による、タイトルからして希望に充ちた新しい雑誌の創刊の成功はたちまち評判となり、多くの雑誌の創刊につながる刺激を与え、それが戦後の出版ブームに火をつけたともいえる。つまり出版は一発当てれば、素人でも儲かるという機運と幻想を与えたことにもなる。ちなみに『新生』という誌名は室伏がダンテの作品からつけたものだった。

したがって青山の成功が多くの出版社の簇生をよんだと見て間違いないだろう。戦後出版史における新生社のアウトラインはこのような始まりから、二十四年の出版不況による倒産で締めくくられるのだが、昭和四十八年の『回想の新生』(同復刻委員会)の刊行、福島保夫の『書肆「新生社」私史』(武蔵野書房)やその後の研究によって、様々な事実が明らかにされたので、それらのことに言及してみる。

『新生』に至る前史は戦前の月刊同人雑誌『茉莉花』にすべての源がある。この雑誌は文学辞典などには掲載されていないが、詩人の北村千秋によって昭和十三年に創刊され、十六年に雑誌の統廃合で終刊を余儀なくされている。北村は大阪市役所に勤め、同じ福島も『茉莉花』に加わることになり、同誌は難波の十二段屋書店を発行所として流通販売されていたので、少しずつ売れるようになり、辻潤や高橋新吉などのエッセイや詩も掲載に及んでいた。この『茉莉花』に加入したいと申し出てきたのが、丸善石油に勤め、永井荷風に心酔している青山虎之助だった。それから一年も経たない十六年春頃に彼の東京転勤が決まり、青山の上京とともに『茉莉花』の東京連絡所ができ、日本浪曼派を主とする人々の寄稿も誌面を飾るようになっていた。しかし前述のように廃刊へと追いこまれたのである。

このような前史において、青山は『新生』創刊のための人脈を構築したと思われるし、実際に北村と福島はそれぞれ編集長、編集者として創刊後の『新生』に加わっている。この事実は青山が当時噂された、横流しの紙を買い占め、土建業から出版社に転向した人物などではなく、紛れもない文学青年が新生社を創業したことを物語っている。『新生』の他にも、『女性』『花』『東京』といった雑誌も発行し、また多くの書籍を出版しているのも、そのような青山の来歴によっているのだろう。私は谷崎潤一郎の『卍』しか入手していないが、『回想の新生』や福島鑄郎の『雑誌で見る戦後史』(大月書店)の「『新生』と青山虎之助」の項を見ると、室伏の三冊の著作、中野重治『日本文学の諸問題』、蔵原惟人『新しい文化のため』、正宗白鳥『我が生涯と文学』、宇野浩二『福澤諭吉』などの書影も掲載され、その他にもかなり単行本を刊行しているようなのだ。
   
これらのことに加えて、二人の福島から教えられたのは、青山が出版業に携わる一方で、新生社内に馬場恒吾や沖野岩三郎たちの民間憲法研究会を設立し、野坂参三の帰国歓迎、平野力三の新党結成、鳩山一郎のパージ解禁などを支援し、多額の資金を流用したことで、それらが新生社の経営に大きな打撃を与えたということだった。敗戦直後の熱い時代に、青山は出版と文学と政治に身を捧げ、必然的に新生社も道連れにしてしまったことになる。後述の『美食と共に』の中で、「終戦の日から、振り返ってみて、波乱の生涯が、私には始まったのである」と述懐しているが、その言葉はこれらの事実を伝えているのだろう。それでいて、青山は『茉莉花』の全バックナンバーを手離すことがなかったという。

福島保夫は『書肆「新生社」私史』の中で、次のように証言している。

『新生』を創刊し、僅か二、三日で数十万部を売り盡し、巨富を手にし、出版界に君臨し、連日のように築地の待合や料亭に小説家や文化人を誘い繰りこんでいた時代、それが三、四年後には、当時の金額で約千五百万円の負債を背負いどん底に喘ぐことになる。そのような身辺の激しい起伏のなかでも、氏があの片々なる個人誌『茉莉花』を散逸することなく、今日まで筐底に蔵い込んでいたということに、私は息を呑むほどな、ある驚きを覚え、他目には伺い知れない青山氏の胸底の一端に触れたような思いさえするのである。

昭和四十七年に青山は『美食と共に』と題する、食と女についての限定私家版エッセイ集を刊行している。その発行社は新生社で、巻末に「新生社の主たる既刊書」として、前述の書籍などの一覧が掲げられている。それは『茉莉花』がそうであったように、二十年以上経っても、彼の中で新生社とその書籍はずっと生き続けていたことを告げていよう。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら