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混住社会論101 赤坂真理『ヴァイブレータ』(講談社、一九九九年)

ヴァイブレータ



前回、中上健次のロードサイドノベルと見なせるであろう『日輪の翼』を取り上げたが、それに先駆けて書かれた「赫髪」(『水の女』所収、作品社集英社文庫)という短編がある。これは開発中の「路地」を背景にして、ダンプカーの運転手が山を切り開いてつくった峠のむこうのバス停で、赤い髪の女を拾い、自分の部屋に連れてきて同棲し、飽くなき性にふける光景を執拗に描いている。この「赫髪」を始めとする五つの短編集のタイトル『水の女』に示されているように、赤い髪の女も女陰の表象として性を体現しているけれども、「神女」に他ならない。それゆえに彼女も、折口信夫が「水の女」(『折口信夫全集』第二巻所収、中公文庫)でいうところの向こうの「水沼間(みぬま)」からやってきた存在として設定されている。

水の女折口信夫全集

この中上の「赫髪」からほぼ十五年後に発表された赤坂真理『ヴァイブレータ』はその逆ヴァージョンにして、しかも『日輪の翼』のロードサイドノベル的構成をも継承しているように思える。それは物語の始まりにあって、TOKYO、NIIGATA間の縦断幹線地図が付されていることにもうかがえよう。ただ中上と赤坂の作品が異なるのは時代背景で、前者が一九七〇年代後半から八〇年代にかけての開発とバブルの時代だったことに対し、後者は九〇年代以後のバブル崩壊の時代であることで、『ヴァイブレータ』はとりわけそれ以後の高度資本主義消費社会のもたらしたメンタルなクライシスをコアとして展開されている。その差異は「路地」に象徴される共同体が消滅し、孤独な消費社会のむき出しの現実への移行を浮かび上がらせ、物語や風景もまた一変してしまった時代の流れを告げているし、コンビニを舞台として始まっているのも偶然ではない。

『ヴァイブレータ』はそうした現実を刻みつけるかのように、「死ーねよ、おっさん。/あの女もだよ。」と書き出されている。これらの言葉に続いて、同様の独白と「コントロール下にない声」が交差し、それから地の分として読める「人がたくさんいるところでコントロール下にない声を聞いたのは初めてで、あたしは危うく悲鳴を上げそうになった」という一節に出会うことになる。

ここは深夜のコンビニエンス・ストア、「あたし」がよくくるファミリーマートなのだ。「あたし」はワインを買いにきたのだが、そこに「コントロール下にない声」が聞こえてきたのである。それは「誰の声かはわからない、懐かしい声のようであり、この世に存在するすべてを縒り合わせて細く圧縮したような声であり、薄く弱った自我のバリアの空気孔のような所から立ち昇る」「無機的な声」だった。

それにつれて「あたし」の仕事の略歴とクライシスが語られていく。「あたし」は当初単なるルポ・ライターだったのだが、独自の視点で売春する女子中高生、エイズ、ジャンキー、ホームレス、少年少女のドラッグ・ディーリングなどを追い始めたことで認知度が上がり、ジャーナリストと呼ばれるようになっていた。そうするうちに、取材で聞いた話や自分の中のものを考える声がないまぜになり、それがうるさくて眠れず、アルコールを飲み始めた。そしてアルコール依存症から「過食嘔吐いわゆる食べ吐き」へと至り、不眠とうるさい思考は消えてはいたけれど、心身の不調は明らかで、「コントロール下にない声」も聞こえてきて、「あたし」は不気味な混乱に追いやられていた。

そんな時にこのコンビニにきたのだ。「あたし」のような女性が訪れてしまう深夜のトポスとして、あたかも前提のようにコンビニは設定されている。ちなみに拙著『〈郊外〉の誕生と死』でも既述しておいたが、様々なロードサイドビジネスと同様に、コンビニ各社の第一号店の出店も一九七〇年代前半で、この『ヴァイブレータ』に出てくるファミリーマートは七二年、セブン⁻イレブンは七四年、ローソンは七五年であり、現在コンビニは五万店を超える、日常生活に不可欠なインフラとして、消費社会の必然的装置を形成するに至ったのだ。
〈郊外〉の誕生と死

一九八〇年代のセブン⁻イレブンのCMコピーに「あいててよかった」というフレーズがあったが、九〇年代を迎えると、コンビニのある風景は全国の至るところに増殖し、それは散文的な「あいててよかった」だけでなく、消費社会の隙間と陥穽を埋め、多様な機能を有するトポス、日常のオアシスのようなものへと変貌していった。『ヴァイブレータ』における「あたし」の次の述懐はそれを語っている。

 このコンビニエンス・ストアはあまりによく来てどの時間帯にどの店員がいるか、シフトの切れ目はいつかまで、知り尽くしてしまった。いつもは家から来る。夜中、あたしの欲するものすべてがそろうのはここだけ。具体的には各種加工品と、ソフトドリンク、アルコール。(……)

どうしてそのようなハビトゥスへと追いやられてしまったのか。それは「あたし」がジャーナリストになったばかりでなく、戦略的に選択肢がほとんどない「エキセントリックで、(中略)ひとたび議論の場に出たらえらく頭の切れる女」として、「男社会」であるマスコミ業界を生きなければならなかったからだ。後に彼女が独身で年齢が三十一歳と明かされるが、どこにでもある「市場の原理」に満たされたコンビニが彼女のような存在にとっての、いわば不可欠の兵站地であることを示していよう。「夜中、あたしの欲するものすべてがそろうのはここだけ」なのだ。また「あたし」とは九〇年代において、社会的に変容せざるをえなかった女性のメタファーなのであろう。

そしてここでは男との出会いすらも用意されている。その男はこれも折口のいうところの「山の神人」のようで、出で立ちと体格はそれを想起させる。オーヴァーオールにゴム長靴で、背が高く、広い肩と胸は滑らかな丸みに包まれている。そのような姿で、男が現われ、「あたし」の「声たちもざわざわ」し始め、アイスをほしがるように「食べたい」という声と意思が細胞の隅々まで伝わっていった。「あたしは、男と、はっきりと目を合わせた。彼は(……)受けたよという合図をよこし、(……)密度の高い空気の紐が、彼からも来てあたしたちの絆はつながった(……)」。だがここはコンビニで、何事もないように煌々と照らされた店内では雑誌を読んでいる人々もいる。「あたし」は外に出た男を追う。東京は三月の雪で、午前二時だった。歩いていくとトラックがあり、あの男が運転席にいた。彼はトラッカーだったのだ。

トラックのドアが開かれ、「あたし」はトラックの座席に上がった。男はいった、「ようこそ」と。「あたし」にとって、「そこは男の胎内のような場所だと思った。飾りがなくて、でも居心地がよく、柔らかくて温い」。しかも男はコンビニで買った氷を入れたレモン酎ハイをつくってくれた。もはや「あたし」の中の声たちは静まっていた。

男がつけたテレビではパラリンピックの開会式が映り、中央に火の柱があり、小さな画面の中で車椅子の人々が立った人とペアでダンスを踊っていた。「火を見て、踊り、酒を飲む。太古の幸せがあたしにはわかった気がした」し、男のパラリンピックの歌に対する評価や二十五という年齢、警官との友好的関係、「好きじゃなかったから」中学もろくに出ていない学歴と七年に及ぶフリーのトラック歴から、「この人は健康だ」と思うのだった。男は彼女の対極にある存在なのだ。そのような二人は「男の胎内のような場所」であるトラック、またアイドリングを続け、「発電機」と化しているトラックの中で、おずおずと性行為へと向かおうとする。

ここでは便宜的に「性行為」と記したが、かなり長いそうした場面において、その言葉が使われているわけでもなく、「セックス」や「性交」といった用語も見えてはいない。触れ合う前に「あたし」は次のようにいって、モノローグ的に続けられていく。

ヴァイブレータ(新装版)
「こわいの」
 どこか、知らない場所から出てきた言葉のように自分を聞いた、自分で、そんなことを言い出すとは思わなかったのだ。よく感じると、水母のようにゼリーのように、ぷるぷる震えている部分があって、やめてくださいという弱々しい言葉を発したのと同じところだった。そこは基本的には非言葉の実体で、言語バイパスはひどく緊張が高まったときか全体が弛緩したときに、事故のようにしかつながらない。今声たちは振動でならされて、その震えている実体が直接、外の世界と触れあっている。あるいはあたしの震えと、アイドリングを続けるエンジンの震えが同調したのかもしれない。

ここに表出しているのは二人の「性行為」の「前戯」というよりも、ひとりの女性の個的身体と言語の位置、及び外部世界との接触と関係のメタファーであろう。タイトルにこめられた「振動」と考えていい「ヴァイブレータ」(vibrator)の意味が最も強く表出しているように思われる。「ヴァイブレータ」を女性用性具や男と誤読すべきではないし、それに続く「性行為」描写も外部世界とのひとつの和解の接触のかたちではないだろうか。それゆえにその過程において、男が岡部希(たかとし)、「あたし」の名前が初めて「早川玲」と明らかにされるのだ。命名することは新たな外部世界の創出でもあり、それにしたがって、当然のように二人はトラックでの旅に向かう。

新潟から新築マンションのドアを運んでいたトラックは東京でそれを降ろし、川口で帰りの荷物のタイヤを積み、新潟へと帰るのだ。その道行において、岡部は妻子があること、シャブ入り冷凍マグロを運んだこと、女にストーカーされたこと、暴力団の準構成員だったことなどを語っていく。それは貴種流離譚のようでもある。その間に国道十七号線をたどり、埼玉、群馬を縦に抜け、新潟へと到着する。そしてまた家具を積み、東京へと戻るのだ。

その過程で、「もの書く仕事」の習慣もあり、「あたし」は岡部の話をテープにとり始めるが、彼のトラックに乗っている自分と乗っていない自分が共存できないという言葉や、トラックの無線のやりとりを通じて、またしても声とノイズの混合を感じるようになる。そうしているうちに、ほとんど忘れていた記憶が蘇り、中学生時代の国語教師との言葉をめぐる暴力を含んだ争い、それにまつわる母親とのいさかいを思い出し、そこで言葉が壊れてしまったことが自分のトラウマだったことに気づく。それを自覚した時、戻ってきた東京に「強い感慨」を覚え、「生まれ育った街をあたしは見た」と思うのだ。まだ旅は続いているのだが、ノイズは消え、新たなる「あたし」の再生に立ち至ったことが暗示されている。

最初に『ヴァイブレータ』中上健次の「赫髪」の逆ヴァージョンで、しかも『日輪の翼』の物語構造を引き継ぐものだと既述しておいた。それを物語るかのように、女がトラッカーを拾い、「性行為」を反復し、そのまま二人はトラックで旅へ出て、それが女の再生につながるビルドゥングス的ロードノベルへと展開されていく。だが『日輪の翼』と異なり、ロードサイドノベルと呼べないのは残念だけれど、『ヴァイブレータ』の始まりが深夜のコンビニであったことは、九〇年代における物語の風景の変容を象徴的に示しているように思われる。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」100  中上健次『日輪の翼』(新潮社、一九八四三年)
「混住社会論」99  多和田葉子『犬婿入り』(講談社、一九九三年)
「混住社会論」98  本間洋平『家族ゲーム』(集英社、一九八二年)
「混住社会論」97  黒岩重吾『現代家族』(中央公論社、一九八三年)
「混住社会論」96  近藤ようこ『ルームメイツ』(小学館、一九九七年)
「混住社会論」95  鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1