前回、中上健次のロードサイドノベルと見なせるであろう『日輪の翼』を取り上げたが、それに先駆けて書かれた「赫髪」(『水の女』所収、作品社、集英社文庫)という短編がある。これは開発中の「路地」を背景にして、ダンプカーの運転手が山を切り開いてつくった峠のむこうのバス停で、赤い髪の女を拾い、自分の部屋に連れてきて同棲し、飽くなき性にふける光景を執拗に描いている。この「赫髪」を始めとする五つの短編集のタイトル『水の女』に示されているように、赤い髪の女も女陰の表象として性を体現しているけれども、「神女」に他ならない。それゆえに彼女も、折口信夫が「水の女」(『折口信夫全集』第二巻所収、中公文庫)でいうところの向こうの「水沼間(みぬま)」からやってきた存在として設定されている。
この中上の「赫髪」からほぼ十五年後に発表された赤坂真理の『ヴァイブレータ』はその逆ヴァージョンにして、しかも『日輪の翼』のロードサイドノベル的構成をも継承しているように思える。それは物語の始まりにあって、TOKYO、NIIGATA間の縦断幹線地図が付されていることにもうかがえよう。ただ中上と赤坂の作品が異なるのは時代背景で、前者が一九七〇年代後半から八〇年代にかけての開発とバブルの時代だったことに対し、後者は九〇年代以後のバブル崩壊の時代であることで、『ヴァイブレータ』はとりわけそれ以後の高度資本主義消費社会のもたらしたメンタルなクライシスをコアとして展開されている。その差異は「路地」に象徴される共同体が消滅し、孤独な消費社会のむき出しの現実への移行を浮かび上がらせ、物語や風景もまた一変してしまった時代の流れを告げているし、コンビニを舞台として始まっているのも偶然ではない。
『ヴァイブレータ』はそうした現実を刻みつけるかのように、「死ーねよ、おっさん。/あの女もだよ。」と書き出されている。これらの言葉に続いて、同様の独白と「コントロール下にない声」が交差し、それから地の分として読める「人がたくさんいるところでコントロール下にない声を聞いたのは初めてで、あたしは危うく悲鳴を上げそうになった」という一節に出会うことになる。
ここは深夜のコンビニエンス・ストア、「あたし」がよくくるファミリーマートなのだ。「あたし」はワインを買いにきたのだが、そこに「コントロール下にない声」が聞こえてきたのである。それは「誰の声かはわからない、懐かしい声のようであり、この世に存在するすべてを縒り合わせて細く圧縮したような声であり、薄く弱った自我のバリアの空気孔のような所から立ち昇る」「無機的な声」だった。
それにつれて「あたし」の仕事の略歴とクライシスが語られていく。「あたし」は当初単なるルポ・ライターだったのだが、独自の視点で売春する女子中高生、エイズ、ジャンキー、ホームレス、少年少女のドラッグ・ディーリングなどを追い始めたことで認知度が上がり、ジャーナリストと呼ばれるようになっていた。そうするうちに、取材で聞いた話や自分の中のものを考える声がないまぜになり、それがうるさくて眠れず、アルコールを飲み始めた。そしてアルコール依存症から「過食嘔吐いわゆる食べ吐き」へと至り、不眠とうるさい思考は消えてはいたけれど、心身の不調は明らかで、「コントロール下にない声」も聞こえてきて、「あたし」は不気味な混乱に追いやられていた。
そんな時にこのコンビニにきたのだ。「あたし」のような女性が訪れてしまう深夜のトポスとして、あたかも前提のようにコンビニは設定されている。ちなみに拙著『〈郊外〉の誕生と死』でも既述しておいたが、様々なロードサイドビジネスと同様に、コンビニ各社の第一号店の出店も一九七〇年代前半で、この『ヴァイブレータ』に出てくるファミリーマートは七二年、セブン⁻イレブンは七四年、ローソンは七五年であり、現在コンビニは五万店を超える、日常生活に不可欠なインフラとして、消費社会の必然的装置を形成するに至ったのだ。
一九八〇年代のセブン⁻イレブンのCMコピーに「あいててよかった」というフレーズがあったが、九〇年代を迎えると、コンビニのある風景は全国の至るところに増殖し、それは散文的な「あいててよかった」だけでなく、消費社会の隙間と陥穽を埋め、多様な機能を有するトポス、日常のオアシスのようなものへと変貌していった。『ヴァイブレータ』における「あたし」の次の述懐はそれを語っている。
このコンビニエンス・ストアはあまりによく来てどの時間帯にどの店員がいるか、シフトの切れ目はいつかまで、知り尽くしてしまった。いつもは家から来る。夜中、あたしの欲するものすべてがそろうのはここだけ。具体的には各種加工品と、ソフトドリンク、アルコール。(……)
どうしてそのようなハビトゥスへと追いやられてしまったのか。それは「あたし」がジャーナリストになったばかりでなく、戦略的に選択肢がほとんどない「エキセントリックで、(中略)ひとたび議論の場に出たらえらく頭の切れる女」として、「男社会」であるマスコミ業界を生きなければならなかったからだ。後に彼女が独身で年齢が三十一歳と明かされるが、どこにでもある「市場の原理」に満たされたコンビニが彼女のような存在にとっての、いわば不可欠の兵站地であることを示していよう。「夜中、あたしの欲するものすべてがそろうのはここだけ」なのだ。また「あたし」とは九〇年代において、社会的に変容せざるをえなかった女性のメタファーなのであろう。
そしてここでは男との出会いすらも用意されている。その男はこれも折口のいうところの「山の神人」のようで、出で立ちと体格はそれを想起させる。オーヴァーオールにゴム長靴で、背が高く、広い肩と胸は滑らかな丸みに包まれている。そのような姿で、男が現われ、「あたし」の「声たちもざわざわ」し始め、アイスをほしがるように「食べたい」という声と意思が細胞の隅々まで伝わっていった。「あたしは、男と、はっきりと目を合わせた。彼は(……)受けたよという合図をよこし、(……)密度の高い空気の紐が、彼からも来てあたしたちの絆はつながった(……)」。だがここはコンビニで、何事もないように煌々と照らされた店内では雑誌を読んでいる人々もいる。「あたし」は外に出た男を追う。東京は三月の雪で、午前二時だった。歩いていくとトラックがあり、あの男が運転席にいた。彼はトラッカーだったのだ。
トラックのドアが開かれ、「あたし」はトラックの座席に上がった。男はいった、「ようこそ」と。「あたし」にとって、「そこは男の胎内のような場所だと思った。飾りがなくて、でも居心地がよく、柔らかくて温い」。しかも男はコンビニで買った氷を入れたレモン酎ハイをつくってくれた。もはや「あたし」の中の声たちは静まっていた。
男がつけたテレビではパラリンピックの開会式が映り、中央に火の柱があり、小さな画面の中で車椅子の人々が立った人とペアでダンスを踊っていた。「火を見て、踊り、酒を飲む。太古の幸せがあたしにはわかった気がした」し、男のパラリンピックの歌に対する評価や二十五という年齢、警官との友好的関係、「好きじゃなかったから」中学もろくに出ていない学歴と七年に及ぶフリーのトラック歴から、「この人は健康だ」と思うのだった。男は彼女の対極にある存在なのだ。そのような二人は「男の胎内のような場所」であるトラック、またアイドリングを続け、「発電機」と化しているトラックの中で、おずおずと性行為へと向かおうとする。
ここでは便宜的に「性行為」と記したが、かなり長いそうした場面において、その言葉が使われているわけでもなく、「セックス」や「性交」といった用語も見えてはいない。触れ合う前に「あたし」は次のようにいって、モノローグ的に続けられていく。
(新装版)
「こわいの」
どこか、知らない場所から出てきた言葉のように自分を聞いた、自分で、そんなことを言い出すとは思わなかったのだ。よく感じると、水母のようにゼリーのように、ぷるぷる震えている部分があって、やめてくださいという弱々しい言葉を発したのと同じところだった。そこは基本的には非言葉の実体で、言語バイパスはひどく緊張が高まったときか全体が弛緩したときに、事故のようにしかつながらない。今声たちは振動でならされて、その震えている実体が直接、外の世界と触れあっている。あるいはあたしの震えと、アイドリングを続けるエンジンの震えが同調したのかもしれない。
ここに表出しているのは二人の「性行為」の「前戯」というよりも、ひとりの女性の個的身体と言語の位置、及び外部世界との接触と関係のメタファーであろう。タイトルにこめられた「振動」と考えていい「ヴァイブレータ」(vibrator)の意味が最も強く表出しているように思われる。「ヴァイブレータ」を女性用性具や男と誤読すべきではないし、それに続く「性行為」描写も外部世界とのひとつの和解の接触のかたちではないだろうか。それゆえにその過程において、男が岡部希(たかとし)、「あたし」の名前が初めて「早川玲」と明らかにされるのだ。命名することは新たな外部世界の創出でもあり、それにしたがって、当然のように二人はトラックでの旅に向かう。
新潟から新築マンションのドアを運んでいたトラックは東京でそれを降ろし、川口で帰りの荷物のタイヤを積み、新潟へと帰るのだ。その道行において、岡部は妻子があること、シャブ入り冷凍マグロを運んだこと、女にストーカーされたこと、暴力団の準構成員だったことなどを語っていく。それは貴種流離譚のようでもある。その間に国道十七号線をたどり、埼玉、群馬を縦に抜け、新潟へと到着する。そしてまた家具を積み、東京へと戻るのだ。
その過程で、「もの書く仕事」の習慣もあり、「あたし」は岡部の話をテープにとり始めるが、彼のトラックに乗っている自分と乗っていない自分が共存できないという言葉や、トラックの無線のやりとりを通じて、またしても声とノイズの混合を感じるようになる。そうしているうちに、ほとんど忘れていた記憶が蘇り、中学生時代の国語教師との言葉をめぐる暴力を含んだ争い、それにまつわる母親とのいさかいを思い出し、そこで言葉が壊れてしまったことが自分のトラウマだったことに気づく。それを自覚した時、戻ってきた東京に「強い感慨」を覚え、「生まれ育った街をあたしは見た」と思うのだ。まだ旅は続いているのだが、ノイズは消え、新たなる「あたし」の再生に立ち至ったことが暗示されている。
最初に『ヴァイブレータ』は中上健次の「赫髪」の逆ヴァージョンで、しかも『日輪の翼』の物語構造を引き継ぐものだと既述しておいた。それを物語るかのように、女がトラッカーを拾い、「性行為」を反復し、そのまま二人はトラックで旅へ出て、それが女の再生につながるビルドゥングス的ロードノベルへと展開されていく。だが『日輪の翼』と異なり、ロードサイドノベルと呼べないのは残念だけれど、『ヴァイブレータ』の始まりが深夜のコンビニであったことは、九〇年代における物語の風景の変容を象徴的に示しているように思われる。