前々回取り上げた中上健次の「路地」とその消滅後の作品群の中にあって、その消滅の一因と考えていい郊外消費社会とロードサイドビジネスはダイレクトに描かれてはいなかった。
それは中上の作品群とほぼ同時代に書き進められていた村上春樹の『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』も同様だが、こちらの三部作もひとつの「街」の変容、もしくはその消滅を、物語のバックヤードにすえていると考えて差しつかえなかろう。
まずその「街」の原型を一九七〇年の話とされる『風の歌を聴け』の中に見てみる。東京の大学生で、生物学を専攻している「僕」は夏休みに「街」に帰省し、友人の「鼠」と中国人のジェイの営む「ジェイズ・バー」でビールを飲み、色んな会話を交わし、ジューク・ボックスから流れる音楽を聴き、本を読んだりする。「僕」と「鼠」が出会ったのは六七年の春で、二人が大学に入った年だった。「僕」は「鼠」の黒塗りのフィアット600に乗り合わせ、泥酔運転で公園に突っこんだが、幸いにして怪我ひとつ負わず、海まで歩いてビールを飲み直し、二人で「チーム」を組むことになったのである。そうした彼らの出会いとその始まりはいうまでもなく、レトリックも含めて、本連載 9 のレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』におけるフィリップ・マーロウとテリー・レノックスの関係をただちに想起させるし、それは『風の歌を聴け』三部作が『長いお別れ』の大いなる影響下に書かれたことを示している。実際に、後に村上は『ロング・グッドバイ』を新訳することになる。また友人の「鼠」という呼び名はジョン・シュレシンジャー監督の『真夜中のカーボーイ』で、ダスティン・ホフマンが演じた「ネズ公」に由来しているのではないだろうか。
それに加えて、「僕」は故郷に帰っているはずなのに、叔父や叔母の死、自分がひどく無口な少年だったこと、あるいは理由もいわずにアメリカにいってしまったという兄については語られても、両親や家庭のことにはほとんどふれていない。その代わりに「鼠」と「ジェイズ・バー」、そこで知り合った小指のない女の子に関してはかなり饒舌に語られ、また「僕」と寝た「三人の女の子」についても、断片的ながらもプロフィルは伝わってくる。最初の女の子は高校のクラス・メートで、お互いに相手を愛していると信じこんでいたが、高校を卒業してから突然別れ、それから一度も会っていない。二人目は新宿駅で出会った帰る場所もないヒッピーの女の子で、一週間ばかり「僕」のアパートに滞在した後、姿を消してしまった。三人目は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、その翌年の春休みに雑木林の中で首を吊って死んでいた。
それらの時代、及び女の子たちとの別離に対する詳細な注解はなされていないけれど、いずれも六〇年後半のことで、仏文科の女子学生がいみじくもいった「自分のレーゾン・デートゥル」=「ペニス」を見失い、ひとりぼっちになったと自覚している。またそれにピーター・ポール&マリーの唄う「もう考えるな。終ったことじゃないか。」という古いレコードを繰り返し聴いている。このような先験的ともいえる喪失感が『風の歌を聴け』を覆う色彩と主旋律に他ならないだろう。
その一方で、「僕が生まれ、育ち、そして初めて女の子と寝た街」のことが、こちらはかなり具体的に語られている。
前は海、後ろは山、隣りは巨大な港街がある。ほんの小さな街だ。港からの帰り、国道を車で飛ばす時には煙草を吸わないことにしている。マッチをすり終るころには車はもう街を通りすぎているからだ。
人口は7万と少し。この数字は5年後にも殆んど変わることはあるまい。その大抵は庭のついた二階建ての家に住み、自動車を所有し、少なからざる家は自動車を2台所有している。
街にはいろんな人間が住んでいる。僕は18年間、そこで実に多くを学んだ。街は僕の心にしっかりと根を下ろし、想い出の殆んどはそこに結びついている。しかし大学に入った春にこの町を離れた時、僕は心の底からホッとした。
これらの記述からすれば、この小さな「街」は海と山にはさまれた郊外に位置していると考えられるし、またここには故郷としての「街」に対するアンビバレンツな思いの表白の思いもなされている。この「街」に「鼠」の家と「ジェイズ・バー」があり、「僕」は夏休みと春休みに帰り、ビールを飲んで過ごす。それが『風の歌を聴け』という物語のフレームなのだ。
それは次作の『1973年のピンボール』へと引き継がれていくが、こちらの時代は「1969―1973」にかけてで、次のように始まっている。「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった」。そして周りの土星生まれと金星生まれも含んだ人間からそれらの話を聞いたエピソードが述べられ、「とにかく遠く離れた街の話を聞くのが好きだ」とリフレインされ、一九六九年春に直子が「僕」に語った「街」の話が書きこまれている。続いてそれから四年後の七三年に「僕」は彼女がいうところの「おそろしく退屈な街」を訪れる。それは彼女が語ったプラットフォームで散歩している犬を見るためだったが、犬の姿は見えず、うんざりした気分に捉われた。そこは「郊外電車」の駅で、風景は「何もかもが同じことの繰り返しにすぎない」し、「限りのないデジャ・ヴュ」と「違和感」をもたらすものだったからだ。
直子は十二歳の時にこの土地にやってきた。何軒かの農家と畑があるだけで、農家の庭には柿の木が植えられ、崩れそうな納屋が見られた。まだ犬はいなかった。それは一九六一年のことで、移り住んだ家は朝鮮戦争の頃に建てられた洋館づくりの二階家だった。洋画家が設計して建てたものであり、この土地は彼のような文化人が集ったコロニーが形成され、山の中腹にはそれぞれの「思い思いの家」が建てられていた。農家と洋館が混住する土地ということになる。その老画家は六〇年に亡くなり、彼と仏文学者だったらしい直子の父親が親しい友人であったことから、一家はこの洋館に引越してきたのだ。しかしこの土地にも開発による郊外化は訪れてくる。
さて、時が移り、都心から急激に伸びた住宅化の波は僅かながらもこの地に及んだ。東京オリンピック前後だ。山から見下ろすとまるで豊かな海のようにも見えた一面の桑畑はブルドーサーに黒く押し潰され、駅を中心とした平板な街並が少しずつ形づくられていった。
新住民の殆んどは中堅どころのサラリーマンで、朝五時過ぎに飛び起きると顔を洗うのももどかしく電車に乗り込み、夜遅くに死んだようになって戻ってきた。
そうして「おそろしく退屈な街」ができ上がり、「新しい住民」の多くが申し合わせたように犬を飼い、それが次々に交配し、仔犬が野犬となり、プラットフォームで犬が散歩している光景を目にすることになったのである。だがそれらの犬ももはやプラットフォームに現れず、「僕」はようやく駅の脇の池で、釣人の連れてきたらしい犬を見つけるのだ。この土地の由来と犬のエピソードは「僕」の街に対する「違和感」の表象と見なせるだろう。続けて「僕」は帰りの電車の中で何度も自分に言い聞かせる。「全ては終っちまったんだ、もう忘れろ、と」。そして愛していた直子が死んでしまったこと、彼女が『風の歌を聴け』で言及されていた、雑木林で首を吊って死んだ仏文科の女子学生だと気づかされるのである。
「一九七三年の秋には、何かしら悪いものが秘められているようでもあった」と記されているように、「僕」だけでなく、「鼠」や「ジェイズ・バー」にもこれまでと異なる「季節」が訪れている。それは「街」の変容とパラレルのように思われるし、『1973年のピンボール』のクロージングにおいて、「鼠」は「街」を出ていくのである。ちょうど双子の姉妹が「僕」のアパートから去っていくように。
『羊をめぐる冒険』にあって、「僕」は三十歳になろうとしている。『風の歌を聴け』の時代背景は一九七〇年で二十一歳、十二月の誕生日を迎えると、二十二歳とされていたので、あれから八年が経ったのだ。『1973年のピンボール』と同様に、またしても女の子の死から始まっている。名前は忘れてしまい、「誰とでも寝る女の子」と記され、「僕」が『風の歌を聴け』の「街」からもどってきた七〇年の秋に彼女と再会したことになっている。
彼女は「僕」の三鷹のアパートを訪れるようになり、セックスをしたり、ピクニックのようにICUのキャンパスを散歩したり、そのラウンジでコーヒーを飲んだりした。十一月二十五日のラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が繰り返し映し出されていたが、ヴォリュームが故障していたので、音声はほとんど聞きとれなかった。「一九七〇年の秋には、目に映る何もかもが物哀しく、そして何もかもが急速に色褪せていくようだった」。
その秋に続いて「我々にとってはどうでもいいことだった」とされているけれど、冬には三島事件が起きていたのである。そして七二年には連合赤軍事件が続く。そうした時代をくぐり抜け、彼女は二十五まで生き、そして死ぬといっていたが、二十六になった七八年七月に交通事故で死んだ。それと同じ頃、「僕」は妻と離婚していた。どうも離婚した妻は『1973年のピンボール』における翻訳事務所の経理などの担当者だと思われる。
その一方で、七七年になって、七三年にあの「街」を黙って出て行方不明だった「鼠」の手紙と二百枚ばかりの小説が届けられ、その翌年には手紙に加えて、小切手と羊の写真が添えられ、「街」に帰ることがあったら、ジェイと一人の女の子にさよならを伝えてほしいと記されていた。それに妻が家を出ていたので、「僕」は休暇をとり、「街」に戻ることにした。四年前に結婚の事務的な手続きのために帰郷していたが、「それ以来、僕にはもう『街』はない」「帰るべき場所はどこにもない」と思い定めていたのだった。「僕」も「鼠」と同様に、街から離反したのだ。「僕」は思う。「結局のところ全ては失われてしまった。失われるべくして失われたのだ」と。その「失われてしまったもの」とは何だろうか。それは時代とともに消滅してしまったすべてを意味しているのではないだろうか。だがここではそれを「街」の風景に見てみる。
「ジェイズ・バー」も「鼠」が「街」を出てしまった後、道路拡張のために移転し、古ぼけたビルの地下から新しいビルの三階に入り、エレベーターに乗らなければならなかった。そこから「街」の夜景が見渡せた。山が切り崩され、「海は何年か前にすっかり埋めたてられ、そのあとには墓石のような高層ビルがぎっしりと建ち並んでいた」。
それぞれの棟のあいだをぬうようにしてアスファルトの道路がはりめぐらされ、ところどころに巨大な駐車場があり、バス・ターミナルがあった。スーパー・マーケットがあり、ガソリン・スタンドがあり、広い公園があり、立派な集会場があった。何もかもが新しく、そして不自然だった。山から運ばれた土は埋立地特有の寒々しい色をして、まだ区画整理されていない部分は風に運ばれた雑草にぎっしりと覆われていた。驚くばかりの素速さで雑草は新大地に根づいていた。それはアスファルトの道路に沿って人為的に移植された樹々や芝生を小馬鹿にするように、いたるところにしのびこもうとしていた。
物哀しい風景だった。
しかし僕にいったい何を言うことができるだろう。ここでは既に新しいルールの新しいゲームが始まっているのだ。誰にもそれを止めることなんてできない。
これが七〇年代後半に起きたひとつの風景の変容であり、中上健次の「路地」のみならず、村上春樹の「街」にも押し寄せていた現実なのだ。しかもこの「街」の変容した風景は九五年に至って、阪神淡路大震災に見舞われたはずで、再び変容を迫られたようにも思える。
それゆえに中上の「路地」解体後の物語がそうであったように、村上春樹の物語もまたそうした「物哀しい風景」を踏まえて展開される宿命を帯びるようになったのではないだろうか。
なおこれは蛇足とも思われないので、付け加えておくことにする。拙著『〈郊外〉の誕生と死』で詳述しているように、一九七〇年代前半こそは郊外社会が表面的にかたちを整え、それに伴って様々なロードサイドビジネスが出現していく時代でもあった。村上春樹自身も七四年に郊外の国分寺にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店している。だがそれはストリートビジネスと云うべきもので、ロードサイドビジネスではなかったことを明記しておこう。