前回の村上春樹の『羊をめぐる冒険』において、三部作の主要な背景となる「ジェイズ・バー」の由来、それを営む中国人ジェイの命名の事実が語られている。ジェイは戦後米軍基地で働いていた時、本名の中国名が長く発音しにくかったので、アメリカ兵たちが勝手につけた名前であり、そのうちに本名が忘れ去られてしまったこと、また彼は一九五四年に基地の仕事をやめ、その近くに空軍の将校クラスを客とする小さなバーを開きベトナム戦争が激しくなってきた六三年にそれを売り、遠く離れた「街」にやってきて、二代目の「ジェイズ・バー」を開いたとされる。これらのことはジェイとその店名もアメリカによって命名されたフィクションだったことを告げているし、またジェイが働いていた米軍基地とはどこだったのであろうか。
先頃亡くなった評論家で、北一輝の研究者松本健一の唯一の小説集として『エンジェル・ヘアー』があり、これは戦後の占領下における進駐軍基地をテーマとする六つの短編を収録している。その時代設定と場所、小説としてはこなれていないノンフィクション的構成、中上健次ならぬ「ケンジ」という主人公名からして、これらの連作は松本の少年時代の体験に基づく私小説と見なしてかまわないだろう。おそらく「ケンジ」とは自らの名前をもじった「健二」であり、「占領コンプレックス」のキャラクターとされている。松本も中上と同様に、一九四六年生まれであり、四九年生まれの村上がそうであるように、オキュパイド・ジャパン・ベイビーズの一人に他ならないし、後に座談会『占領下日本』(ちくま文庫)も刊行するに至っている。そのGHQによる占領とは進駐軍との混住を意味していた。
一九四五年夏の敗戦後から五三年のサンフランシスコ講和条約に至る七年間の日本はGHQによる占領下に置かれ、それをとりわけ地方におい表象するのは進駐軍であり、『エンジェル・ヘアー』では関東平野の赤城山のふもとの中島飛行場近くの基地ということになる。松本によれば、東京オリンピックの頃になると、「巷からは進駐軍という言葉も消え、在日米軍という呼び方になっていた」というが、この連作において両者が使われているが、やはり進駐軍であろう。その町外れの進駐軍基地は歩いて一時間、自転車で二十分ほどの道のりで、そこには司令部や将校宿舎などがあり、MPがいて、ジェラルミンの銀翼を持った戦闘機、頑丈な造りのヘリコプター、紺色のフォードのトラックが行き交っていた。
そのような基地を背景とする表題作「エンジェル・ヘアー」の主たる登場人物は「わたし」=ケンジの他に、大工の孫、フィリピン、多幸と呼ばれる小学生たちで、「大工の孫」=ノリオの姉は進駐軍のオンリー、「多幸」=タカオは母親が多幸という地名と異なる貧しい地域の出身なので、そう呼ばれるようになり、「フィリピン」=ロバートは父親が軍人で、戦時中にフィリピン人と結婚して生まれたことにより、母は進駐軍将校宿舎のメイドをしていた。これらの人々が六編の連作において、進駐軍基地と同様に物語のベースを形成しているいわば占領下日本の小学生版「ジャパニーズ・グラフィティ」として読むこともできよう。
この短編のテーマとされているエンジェル・ヘアーは、少年時代における占領期の記憶のアルケオロジーの表象ともいうべきものである。先の四人組は「エンジェル・ヘアー」の冒頭で、次のような風花に似た光景を目撃する。
空の奥がかすかに光った。きらっ。
明かるさと青さをとりもどしはじめた冬の終わりの空の奥が、きらっ、と光ったとみるまに、空一面がきらきら、きらきら、ゆっくり銀色に耀やきだした。
これがエンジェル・ヘアーなのだ。タケオがオンリーの姉の「彼氏の進駐軍将校」に教えてもらったところによれば、エンジェル・ヘアーとは天使の髪の毛と訳され、黄金(きん)色っぽく光って空中に浮いて飛ぶもので、何か悪いことが起こりそうな時にそれを防ぐために飛ぶとされる。だがその悪いことが起こるとは何を意味しているのかわからなかったけれど、それが風花ではなく、アメリカ人の金髪を想起させるエンジェル・ヘアーだと納得してしまった。
「わたし」が最初に美しいエンジェル・ヘアーをみたのはその小学校の帰りのことで、それから二、三回目撃したかもしれないが、今となってはあやふやである。だがエンジェル・ヘアーの異様な美しさは忘れられなかった。しかしその後「わたし」はその基地の町を離れ、エンジェル・ヘアーのことを誰も話題にしないし、どの本にも記述されていないことから、それが少年時代の夢か幻想ではないかとも思うようにもなっていた。
ところが一九七〇年代になって、本土復帰を控えた沖縄出身の詩人と、いずれも「天上の華」とされる北国の風花、及び沖縄の珊瑚礁の島の海境(うなさか)で白く裏返った波である波花の話をした。そこで「わたし」がエンジェル・ヘアーのことを語ると、沖縄の詩人も戦後に故郷で見たことがあるといった。彼の故郷は米軍の嘉手納基地のあるコザ市の北隣りに位置していた。
それからさらに十五年が流れ、北九州の遠賀川下流の水巻町で昭和二十年代後半に少年時代を過ごした同年輩の新聞記者が、空中にきらきら光るものを見ているが、それはエンジェル・ヘアーではなく、「銀紙」と呼んでいたといったのである。その水巻町の近くにも米軍基地があり、朝鮮戦争時には多くの飛行機が飛来していたが、今は自衛隊の航空部隊のある芦屋基地となっていた。
「わたし」はエンジェル・ヘアーが目撃された場所が、いずれも米軍基地の近くだったという事実から、両者の関係を連想するに至った。そうして最近になって、そのことを五十年配の軍事評論家に話したところ、エンジェル・ヘアーとは軍事用語の「チャフ『CHAFF』、つまり電子煙幕のことじゃないか」と指摘されたのである。それは軽微なプラスチックを繊維状にして、アルミ箔を塗布し、砲の中につめ、上空で花火のように破裂させると、空中に無数のアルミ箔が浮き漂い、敵のレーダーを乱反射してしまうか、またはそこに巨大な金属物があるように誤誘導する役割を果たすのだ。つまりエンジェル・ヘアーの発生場所が米軍基地周辺だったという事実は、チャフの目的がその軍事基地や装備を敵のレーダー波から防衛することにあったことを物語っているし、その発生時期が主として朝鮮戦争の頃だったことも、それを裏づけているように思われた。「おそらく、わたしたち戦後の少年が朝鮮戦争のころにみたエンジェル・ヘアーは、この軍事目的をもった電子煙幕だったのだろう。(……)それを、わたしたちは一瞬、風花と見まちがえ、そうして次に、耀やくような金髪の、天使の髪の毛と理解して納得したのである」。それにしてもこの電子戦兵器をエンジェル・ヘアーと命名したのは誰なのであろうか。
「わたし」にとってエンジェル・ヘアーとは「戦後という根のない明かるい時代に咲いた、幻想の花」で、「貧しく暗い戦後の日本に較べて、豊かで明かるいアメリカに憧れ、その憧れの気分を黄金色で柔らかい天使の髪の毛に仮託していたかもしれない」のだ。ここに占領下におけるダブルイメージ、いってみれば、アメリカが発した擬装のイメージと日本が受け止めた幻想のイメージのギャップの表出を見ることができよう。この逆立するダブルイメージは「エンジェル・ヘアー」以外の他の作品にも共通するテーマとなっていて、「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」においては、ノリオの姉のオンリーの姿に仮託されている。彼女は「囲われの身の憂い顔と、近代化(アメリカナイズ)して耀やいている顔」の双方を備え、その体現はまさに「日本の占領」の「両面性」を象徴するものであった。
それは「アメリカ好き」で「占領コンプレックス」の強い「わたし」も同様なのだ。「真鍮磨き」において、妻から、真鍮磨きに拘泥(こだわ)る理由はその「しんちゅう」という言葉が進駐軍の「しんちゅう」と同じだと指摘され、「息がとまるような一瞬」で「茫然」となるのだが、「気の遠くなるような陶酔」をもたらすものでもあった。
それらの体験に基づき、「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」の中で、「わたし」は明治の近代化がヨーロッパの模倣であることに対し、戦後の近代化はとどのつまりアメリカナイズだと見なし、次のような私説を述べるのだ。
(アメリカナイズ、というのは、進駐軍の鉄条網の内側から外側の日本にじわじわと滲みだして吸収されたものなんだな。その意味では、アメリカ化は日本自身による占領体制の内在化ともいえるわけだ。オキュパイド・ジャパン、つまり占領体制下の日本というのは、在来の黒灰色の瓦のうえに緑や青の色のペンキを塗り、板壁を白く塗って、アメリカと同じように仮に装ったようなものなんだな。
そういう仮の装いを、オキュパイド・ジャパンの基本性格とするなら、そう装っているうちにそれがいつの間にか第二の皮膚化して、あたかも自分本来の性格であるかのように自然に振舞ってしまうのを、アメリカナイズド・ジャパンというのだ。占領が終わって三十数年後のいまの日本は、このアメリカナイズド・ジャパンといえるかもしれないな。)
この述懐が一九八〇年代のものであることに留意しなければならない。これは拙著『〈郊外〉の誕生と死』でも言及したし、その他でも繰り返し述べてきたが、経済学者の佐貫利雄の『成長する都市 衰退する都市』(時事通信社)(時事通信社)に収録された図表「日・米就業構造の長期的変動を見ていて、日本の八〇年代の産業構造がアメリカの五〇年代とまったく重なることを発見し、驚きを禁じ得なかった。
アメリカによる日本の占領とは、消費社会による農耕社会の征服だったことに、「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」の「わたし」と同様に、「茫然」とする思いに襲われた。日本の一九七〇年代前半の消費社会化もアメリカを「内在化」したものであり、ロードサイドビジネスの発生もすべてがアメリカを起源とし、それに続く郊外社会も同様なのだ。そしてまた東京ディズニーランドの開園も八三年だったのである。
それをふまえて、先に引用した「占領が終わって三十数年後のいまの日本は、このアメリカナイズド・ジャパンといえるかもしれないな」という述懐を読むと、この言葉がさらにリアルなるものとして迫ってくる。そして九〇年代を迎え、バブル経済が崩壊し、失われた十数年の中で、グローバリゼーションと新自由主義の時代を迎え、第二の敗戦と占領下にあるような状況を招来してしまった。そしてその果てに東日本大震災と原発事故が起きたことになる。
そうした過程で、かつて少年時代に体験した占領下におけるダブルイメージの亀裂はさらに深く広がり、松本にしても「このアメリカナイズド・ジャパン」の再考が強く促されたにちがいない。松本が政権の座についた民主党の内閣参与に就任し、『占領下社会』の座談会に参加したのも、その表れのように思える。だがそれらの表白、及びさらなる「エンジェル・ヘアー」問題を十全に述べることなく、松本は亡くなってしまったのである。