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混住社会論103 松本健一『エンジェル・ヘアー』(文藝春秋、一九八九年)

エンジェル・ヘアー


前回の村上春樹『羊をめぐる冒険』において、三部作の主要な背景となる「ジェイズ・バー」の由来、それを営む中国人ジェイの命名の事実が語られている。ジェイは戦後米軍基地で働いていた時、本名の中国名が長く発音しにくかったので、アメリカ兵たちが勝手につけた名前であり、そのうちに本名が忘れ去られてしまったこと、また彼は一九五四年に基地の仕事をやめ、その近くに空軍の将校クラスを客とする小さなバーを開きベトナム戦争が激しくなってきた六三年にそれを売り、遠く離れた「街」にやってきて、二代目の「ジェイズ・バー」を開いたとされる。これらのことはジェイとその店名もアメリカによって命名されたフィクションだったことを告げているし、またジェイが働いていた米軍基地とはどこだったのであろうか。

羊をめぐる冒険

先頃亡くなった評論家で、北一輝の研究者松本健一の唯一の小説集として『エンジェル・ヘアー』があり、これは戦後の占領下における進駐軍基地をテーマとする六つの短編を収録している。その時代設定と場所、小説としてはこなれていないノンフィクション的構成、中上健次ならぬ「ケンジ」という主人公名からして、これらの連作は松本の少年時代の体験に基づく私小説と見なしてかまわないだろう。おそらく「ケンジ」とは自らの名前をもじった「健二」であり、「占領コンプレックス」のキャラクターとされている。松本も中上と同様に、一九四六年生まれであり、四九年生まれの村上がそうであるように、オキュパイド・ジャパン・ベイビーズの一人に他ならないし、後に座談会『占領下日本』ちくま文庫)も刊行するに至っている。そのGHQによる占領とは進駐軍との混住を意味していた。
占領下日本

一九四五年夏の敗戦後から五三年のサンフランシスコ講和条約に至る七年間の日本はGHQによる占領下に置かれ、それをとりわけ地方におい表象するのは進駐軍であり、『エンジェル・ヘアー』では関東平野赤城山のふもとの中島飛行場近くの基地ということになる。松本によれば、東京オリンピックの頃になると、「巷からは進駐軍という言葉も消え、在日米軍という呼び方になっていた」というが、この連作において両者が使われているが、やはり進駐軍であろう。その町外れの進駐軍基地は歩いて一時間、自転車で二十分ほどの道のりで、そこには司令部や将校宿舎などがあり、MPがいて、ジェラルミンの銀翼を持った戦闘機、頑丈な造りのヘリコプター、紺色のフォードのトラックが行き交っていた。

そのような基地を背景とする表題作「エンジェル・ヘアー」の主たる登場人物は「わたし」=ケンジの他に、大工の孫、フィリピン、多幸と呼ばれる小学生たちで、「大工の孫」=ノリオの姉は進駐軍のオンリー、「多幸」=タカオは母親が多幸という地名と異なる貧しい地域の出身なので、そう呼ばれるようになり、「フィリピン」=ロバートは父親が軍人で、戦時中にフィリピン人と結婚して生まれたことにより、母は進駐軍将校宿舎のメイドをしていた。これらの人々が六編の連作において、進駐軍基地と同様に物語のベースを形成しているいわば占領下日本の小学生版「ジャパニーズ・グラフィティ」として読むこともできよう。

この短編のテーマとされているエンジェル・ヘアーは、少年時代における占領期の記憶のアルケオロジーの表象ともいうべきものである。先の四人組は「エンジェル・ヘアー」の冒頭で、次のような風花に似た光景を目撃する。

 空の奥がかすかに光った。きらっ。
 明かるさと青さをとりもどしはじめた冬の終わりの空の奥が、きらっ、と光ったとみるまに、空一面がきらきら、きらきら、ゆっくり銀色に耀やきだした。

これがエンジェル・ヘアーなのだ。タケオがオンリーの姉の「彼氏の進駐軍将校」に教えてもらったところによれば、エンジェル・ヘアーとは天使の髪の毛と訳され、黄金(きん)色っぽく光って空中に浮いて飛ぶもので、何か悪いことが起こりそうな時にそれを防ぐために飛ぶとされる。だがその悪いことが起こるとは何を意味しているのかわからなかったけれど、それが風花ではなく、アメリカ人の金髪を想起させるエンジェル・ヘアーだと納得してしまった。

「わたし」が最初に美しいエンジェル・ヘアーをみたのはその小学校の帰りのことで、それから二、三回目撃したかもしれないが、今となってはあやふやである。だがエンジェル・ヘアーの異様な美しさは忘れられなかった。しかしその後「わたし」はその基地の町を離れ、エンジェル・ヘアーのことを誰も話題にしないし、どの本にも記述されていないことから、それが少年時代の夢か幻想ではないかとも思うようにもなっていた。

ところが一九七〇年代になって、本土復帰を控えた沖縄出身の詩人と、いずれも「天上の華」とされる北国の風花、及び沖縄の珊瑚礁の島の海境(うなさか)で白く裏返った波である波花の話をした。そこで「わたし」がエンジェル・ヘアーのことを語ると、沖縄の詩人も戦後に故郷で見たことがあるといった。彼の故郷は米軍の嘉手納基地のあるコザ市の北隣りに位置していた。

それからさらに十五年が流れ、北九州の遠賀川下流水巻町で昭和二十年代後半に少年時代を過ごした同年輩の新聞記者が、空中にきらきら光るものを見ているが、それはエンジェル・ヘアーではなく、「銀紙」と呼んでいたといったのである。その水巻町の近くにも米軍基地があり、朝鮮戦争時には多くの飛行機が飛来していたが、今は自衛隊の航空部隊のある芦屋基地となっていた。

「わたし」はエンジェル・ヘアーが目撃された場所が、いずれも米軍基地の近くだったという事実から、両者の関係を連想するに至った。そうして最近になって、そのことを五十年配の軍事評論家に話したところ、エンジェル・ヘアーとは軍事用語の「チャフ『CHAFF』、つまり電子煙幕のことじゃないか」と指摘されたのである。それは軽微なプラスチックを繊維状にして、アルミ箔を塗布し、砲の中につめ、上空で花火のように破裂させると、空中に無数のアルミ箔が浮き漂い、敵のレーダーを乱反射してしまうか、またはそこに巨大な金属物があるように誤誘導する役割を果たすのだ。つまりエンジェル・ヘアーの発生場所が米軍基地周辺だったという事実は、チャフの目的がその軍事基地や装備を敵のレーダー波から防衛することにあったことを物語っているし、その発生時期が主として朝鮮戦争の頃だったことも、それを裏づけているように思われた。「おそらく、わたしたち戦後の少年が朝鮮戦争のころにみたエンジェル・ヘアーは、この軍事目的をもった電子煙幕だったのだろう。(……)それを、わたしたちは一瞬、風花と見まちがえ、そうして次に、耀やくような金髪の、天使の髪の毛と理解して納得したのである」。それにしてもこの電子戦兵器をエンジェル・ヘアーと命名したのは誰なのであろうか。

「わたし」にとってエンジェル・ヘアーとは「戦後という根のない明かるい時代に咲いた、幻想の花」で、「貧しく暗い戦後の日本に較べて、豊かで明かるいアメリカに憧れ、その憧れの気分を黄金色で柔らかい天使の髪の毛に仮託していたかもしれない」のだ。ここに占領下におけるダブルイメージ、いってみれば、アメリカが発した擬装のイメージと日本が受け止めた幻想のイメージのギャップの表出を見ることができよう。この逆立するダブルイメージは「エンジェル・ヘアー」以外の他の作品にも共通するテーマとなっていて、「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」においては、ノリオの姉のオンリーの姿に仮託されている。彼女は「囲われの身の憂い顔と、近代化(アメリカナイズ)して耀やいている顔」の双方を備え、その体現はまさに「日本の占領」の「両面性」を象徴するものであった。

それは「アメリカ好き」で「占領コンプレックス」の強い「わたし」も同様なのだ。「真鍮磨き」において、妻から、真鍮磨きに拘泥(こだわ)る理由はその「しんちゅう」という言葉が進駐軍の「しんちゅう」と同じだと指摘され、「息がとまるような一瞬」で「茫然」となるのだが、「気の遠くなるような陶酔」をもたらすものでもあった。

それらの体験に基づき、「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」の中で、「わたし」は明治の近代化がヨーロッパの模倣であることに対し、戦後の近代化はとどのつまりアメリカナイズだと見なし、次のような私説を述べるのだ。

 (アメリカナイズ、というのは、進駐軍の鉄条網の内側から外側の日本にじわじわと滲みだして吸収されたものなんだな。その意味では、アメリカ化は日本自身による占領体制の内在化ともいえるわけだ。オキュパイド・ジャパン、つまり占領体制下の日本というのは、在来の黒灰色の瓦のうえに緑や青の色のペンキを塗り、板壁を白く塗って、アメリカと同じように仮に装ったようなものなんだな。
   そういう仮の装いを、オキュパイド・ジャパンの基本性格とするなら、そう装っているうちにそれがいつの間にか第二の皮膚化して、あたかも自分本来の性格であるかのように自然に振舞ってしまうのを、アメリカナイズド・ジャパンというのだ。占領が終わって三十数年後のいまの日本は、このアメリカナイズド・ジャパンといえるかもしれないな。)

この述懐が一九八〇年代のものであることに留意しなければならない。これは拙著『〈郊外〉の誕生と死』でも言及したし、その他でも繰り返し述べてきたが、経済学者の佐貫利雄の『成長する都市 衰退する都市』時事通信社)(時事通信社)に収録された図表「日・米就業構造の長期的変動を見ていて、日本の八〇年代の産業構造がアメリカの五〇年代とまったく重なることを発見し、驚きを禁じ得なかった。
〈郊外〉の誕生と死 成長する都市 衰退する都市

アメリカによる日本の占領とは、消費社会による農耕社会の征服だったことに、「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」の「わたし」と同様に、「茫然」とする思いに襲われた。日本の一九七〇年代前半の消費社会化もアメリカを「内在化」したものであり、ロードサイドビジネスの発生もすべてがアメリカを起源とし、それに続く郊外社会も同様なのだ。そしてまた東京ディズニーランドの開園も八三年だったのである。

それをふまえて、先に引用した「占領が終わって三十数年後のいまの日本は、このアメリカナイズド・ジャパンといえるかもしれないな」という述懐を読むと、この言葉がさらにリアルなるものとして迫ってくる。そして九〇年代を迎え、バブル経済が崩壊し、失われた十数年の中で、グローバリゼーションと新自由主義の時代を迎え、第二の敗戦と占領下にあるような状況を招来してしまった。そしてその果てに東日本大震災原発事故が起きたことになる。

そうした過程で、かつて少年時代に体験した占領下におけるダブルイメージの亀裂はさらに深く広がり、松本にしても「このアメリカナイズド・ジャパン」の再考が強く促されたにちがいない。松本が政権の座についた民主党の内閣参与に就任し、『占領下社会』の座談会に参加したのも、その表れのように思える。だがそれらの表白、及びさらなる「エンジェル・ヘアー」問題を十全に述べることなく、松本は亡くなってしまったのである。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」102  村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」101  赤坂真理『ヴァイブレータ』(講談社、一九九九年)
「混住社会論」100  中上健次『日輪の翼』(新潮社、一九八四三年)
「混住社会論」99  多和田葉子『犬婿入り』(講談社、一九九三年)
「混住社会論」98  本間洋平『家族ゲーム』(集英社、一九八二年)
「混住社会論」97  黒岩重吾『現代家族』(中央公論社、一九八三年)
「混住社会論」96  近藤ようこ『ルームメイツ』(小学館、一九九七年)
「混住社会論」95  鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1