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古本夜話474 石井鶴三『「宮本武蔵」挿絵集』と『大菩薩峠』

前回小村雪岱邦枝完二の小説の挿絵のことを書いたこともあり、別の挿絵本も取り上げておきたい。それは石井鶴三の『「宮本武蔵」挿絵集』で、これも浜松の時代舎で購入したものである。吉川英治『宮本武蔵』は全巻を読んだことがないのだが、挿絵に添えられた数行の文章の組み合わせが新鮮だったし、長編紙芝居の趣きを感じさせる一冊となっている。
宮本武蔵

朝日新聞社からの刊行、横長本三百五十余ページの本で、昭和十八年四月初版、九月再版一万部との奥付の記載からすれば、それほどめずらしい本ではないと思われる。だがこれまで見たことがなかった。この挿絵集は昭和十三年一月から翌十四年七月まで『朝日新聞』に連載された『宮本武蔵』の「空の巻」「二天の巻」「円明の巻」の挿絵の中から三百十八枚を選んで構成されている。

吉川英治は冒頭に「鶴三氏の挿絵」という一文を寄せ、「鶴三氏の挿絵のみは、小説からきりはなしても、画の生命を見失ふやうな怖れはない。箇々観賞にのぼせても立派に独立しての画格と創意とをそなへている」と述べている。言葉は抑えているが、「鶴三氏の挿絵のみは」との書き出しは、吉川の絶賛の意を表していると解釈してかまわないだろう。確かにそれらの物語と登場人物の躍動感がみなぎる挿絵は見飽きることなく、最後の佐々木小次郎との決闘の場面にまで至ってしまう。

そして石井の「あとがき」にあたる「巻末に」という文章に出会う。彼はその一文を次のような言葉で締めている。

 一言付記致したいのは、小生は前に一度挿絵集を出版したことがあるが、其時は不幸にして、本文作者との間に挿絵に対する見解上相合はざるものありて、勢ひ其の出版が挿絵の著作権を強調する如き性質を帯ぶるに至ったのであるが、此度の出版に於ては、かかる事もなく、和気の中に実現するを得たのは、まことに喜ばしく思ふものであります。

これは昭和九年に本連載338でふれた光大社から刊行された『石井鶴三挿絵集』をさしている。中里介山の『大菩薩峠』の挿絵集で、石井はその「無明の巻」を担当し、それぞれの登場人物の風貌や場面の雰囲気に至るまで、原作の意図するところを形象化し、世評を高めたとされる。だが石井が書いているように、介山が挿絵の著作権について異議を申し立てた。それは絵が作品に基づいて描かれているのだから、その著作権は著作者に帰属するべきであるにもかかわらず、石井が自らの名義で出版したことに納得できないというものだった。
[f:id:OdaMitsuo:20150108165211j:image:h110] 大菩薩峠1

この介山の主張に対して、石井も承服しなかったので、裁判に持ちこまれたが、介山が提訴を取り下げるに及び、ようやく解決した。しかし作品と挿絵の関係、及び挿絵の著作権をめぐる一件として注目を浴びた。この一件について、これ以上言及しないが、さらなる詳細は尾崎秀樹の『中里介山』(勁草書房)の「挿絵問題の紛争」などに述べられている。
[f:id:OdaMitsuo:20150109155658j:image:h125]
光大社の『石井鶴三挿絵集』はずっと探しているのだが、古本屋で出会えず、その代わりに『「宮本武蔵」挿絵集』を買った感もある。それでも平凡社の『名作挿絵全集』第二巻の『大正・時代小説篇』に石井の『大菩薩峠』の挿絵が十ページにわたって収録されているので、机龍之助を始めとする登場人物たちの面影はうかがえる。石井の筆致は『宮本武蔵』の挿絵とも異なり、静謐でありながらもより多彩で、『大菩薩峠』の奥深い物語のドラマトゥルギーを表出させている。
名作挿絵全集

私が初めて『大菩薩峠』を読んだのは中学生時代で、角川文庫の全二十七巻を通じてだった。当時の文庫に挿絵入りはほとんどなかったように記憶しているが、それらには各巻に異なる画家の挿絵が入っていた。しかし今回あらためて石井のことも含め、この介山の時代小説の挿絵を調べるに及んで、『大菩薩峠』ほど多くの挿絵や口絵画家が寄り添った物語はないように思われてきた。

『大正・時代小説篇』の真鍋元之の『大菩薩峠』解題によれば、大正二年に『都新聞』の連載から始まり、掲載紙が変わるに従い、挿絵画家も同様で、石井の他に井川洗突、金森観葉、中村岳陵、硲伊之助、矢野橋村と転じている。同書にはそれぞれ一ページずつだが、井川、金森、中村、矢野の挿絵も収録されている。また私が読んだ角川文庫版の画家たちも十四名に及ぶとされ、それらの名前も列挙されている。」

初出は定かでないが、この際だから、彼らの名前も挙げておこう。野村繡明、田中佐一郎、正宗得三郎、光安浩行、向井潤吉、清水錬徳、藤岡一、藪野正雄、森英、榎倉省吾、堀之内一誠、笹野彪、三芳悌吉、代田収一であり、さらに口絵画家も加えれば、石井柏亭、小川芋銭、河野通勢、池田輝方、岸田劉生、伊東深水などもいて、『大菩薩峠』をめぐる画家たちも登場人物と変わらぬ多彩なメンバーだとわかる。

それほどまでに『大菩薩峠』は画家たちを引き寄せ、想像力を駆り立てる物語装置であったのだろう。その最右翼に石井鶴三が位置し、挿絵集の刊行に至ったと推測される。この石井のプロフィルついては、陰里鉄郎の「石井鶴三=想像と気魄の線描」(『大正・時代小説篇』所収)が、挿絵画家だけでなく、彫刻家、版画家、油彩・水彩画家の側面も提示し、その十全なる肖像を紹介している。

なお最近になって論創社から『都新聞』初出の完全版『大菩薩峠』が井川洗突の挿絵入りで刊行されるに至っている。

大菩薩峠1 大菩薩峠2 大菩薩峠3 大菩薩峠4 大菩薩峠5 大菩薩峠6
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