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古本夜話482 中野実『東京無宿』

もう一人ユーモア作家を取り上げたい。それは彼も東方社『新編現代日本文学全集』に収録されているし、最近になって樋口進写真、川本三郎文の『小説家たちの休日』文藝春秋)の中で、思いがけずに彼の姿を見たからでもある。その名前は中野実という。東方社『中野実集』は持っていないが、東方社の単行本『東京無宿』なる一冊が手元にある。昭和三十一年の刊行で、奥付裏の広告を見ると、中野の著作ばかりが三十冊近く並び、この時代において中野が東方社の人気作家で、それなりに売れていたことを証明しているのだろう。
(『新編現代日本文学全集』第45巻『木々高太郎集』) 小説家たちの休日

『東京無宿』は四六軽装判三百七十余ページの「ユーモア長編小説」で、次のような文章から始まっている。

 源さんこと秋田源伍は円タクの運転手である。今年三十歳。まだ独身だ。源さんの勤めている会社は、西北自動車株式会社という。池袋に車庫がある。そこへ、源さんは埼玉県の熊谷から通つてくる。

熊谷から通うのは片道二時間半かかるし、また一昼夜勤務で車庫に引き上げるのも深夜になってしまうので、源さんは客を乗せた東京の先々の駐車場で「自動車をかりの宿」と定め、寝てしまうことが多い。それゆえに運転免許証に本籍や現住所は記載されているが、「東京の無宿者」ということになり、そこからタイトルがとられている。

時代背景は朝鮮戦争などの記述から昭和二十六、七年と考えられ、「農村の若い男女が、都会に憧れる気持は、源さんにも判らなくはない、東京の人口などは、年々三十万人以上も膨張しているそうだ」との記述がみられるように、高度成長期を控えて、東京の人口増加が本格的に始まろうとしていた。そのような東京を舞台とし、戦後の社会と世相を映す鏡として、円タク運転手の源さんは設定されている。彼は元少年航空兵で、戦争末期にグラマンに撃墜されたが、一人だけ助かって生還した過去を持っている。

その源さんにその相棒の竜さん、他社のタクシーの女運転手の波江が配置され、二人も様々な事情を抱え、源さんと同様の「東京無宿」である。「円タク」という言葉は昭和円本時代に合わせ、一円均一で市内の一定距離を走るタクシーのことだと思っていたが、これは戦後になっても「流しのタクシー」の意味で使われていたことを、『東京無宿』は伝えている。

この三人の「円タクの運転手」が遭遇する乗客たちと多くの事件をめぐって、オムニバス的に物語は展開され、敗戦後と高度成長期を迎える前の間の日本社会と風俗を描き、中野の達者な筆致とリズミカルな会話によって、この時代相が見事に浮かび上がる仕掛けで、中野が流行作家だったことを彷彿させる。面白いエピソードが次々と織りこまれているが、そのうちのひとつだけ紹介してみよう。

波江が乗せた女の客がタクシーの中で陣痛に見舞われ、波江は彼女を産婦人科へとかつぎこむ。妊婦は男の子を無事出産すると、波江に美谷という「文壇の売れっ児」が父親だから、生まれたことを伝えてくれと頼む。彼女は美谷が滞在していた温泉旅館の娘であった。だが波江が訪ねていくと、それは美谷ではなく、「ニセ文士」だと明らかになる。娘の父親は語る。

「わたくしははじまりつから、あの男を信用しなかつたんです。机の上に原稿紙を並べて、大衆文学は純文学の敵だとかなんとか、さかんにおだを上げおつて、娘をうまく騙しよつたんです。娘も娘ですが。わたしの家内が、昔文学少女とういやつで、トルストイとかニンニクとか、娘と一緒になつて、ニセの美谷と文学論を戦わしよつたのがいけないんです。(後略)

戦後の文学史はこのような事件が実際に起きたことを伝えているし、これもまた戦後の文学と社会をめぐる象徴的なエピソードを形成しているのだろう。「大衆文学は純文学の敵だ」との言は、中野のような流行作家に向けられていた言葉であったかもしれない。しかし中野はそのような言説に対して、「ニセ文士の方が美男子」で、娘があきらめられず、ニセ者でもいいから探し出すつもりだとの「微笑ましい結果」を記すことで、この事件に決着をつけている。「微笑ましい結果」はそれだけでなく、源さんと波江も、作中の言葉を借りれば「人生の大アクシデント」、つまり結婚という大団円に至り、『東京無宿』は巻が閉じられる。

東方社『新編現代日本文学全集』に収録されたユーモア作家は既述した佐々木邦、摂津茂和、林二九太の他に、鹿島孝二、北町一郎、玉川一郎などが名を連ねているが、佐々木を除いて、その他の人々は中野を含め、岡本綺堂門下を見なしていいように思われる。その劇作とユーモア小説の関係の成立事情についてはよくわからないが、それらのドラマツルギーは映画やテレビドラマなどにも継承されていったのではないだろうか。

昭和四十年代前半に、渥美清がいずれも主役を演じる『泣いてたまるか』という連続テレビドラマが放映されていた。これは全四十編がDVD化され、そのうちの「ビフテキ子守唄」と「吹けよ春風」の二作は渥美がタクシー運転手の役で、思わず『東京無宿』を連想してしまうのである。
泣いてたまるか

なお前述の『小説家たちの休日』によれば、中野は「今はその名がすっかり忘れられてしまったが、戦前から昭和三十年代にかけて大活躍した劇作家、小説家」で、昭和四十八年正月、新橋演舞場で自作の再演を観劇中に、客席で脳溢血をおこし急死したという。これも「微笑ましい結果」ではないにしても、中野にふさわしい大団円だったように思える。

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