一九六〇年代半ばに書かれた庄野潤三の『夕べの雲』には明らかに「一戸建て」の思想が見てとれた。だが八〇年代から九〇年代を背景とする宮部みゆきの『理由』になると、家を建てるという一戸建ての時代は後退し、マンションを買うというハビトゥスが時代のトレンドと化したことを表出させていた。しかもそれは住むだけでなく、投資目的までも含めるものへと移行し、バブルの時代を象徴させていた。
しかし家を建てるにしても、マンションを買うにしても、個人の判断と経済的動向に基づくものではあるけれど、その時代の社会の在り方と切り離すわけにはいかない。戦前が借家の時代で、持ち家の時代でなかったことは、西川祐子の『借家と持ち家の文化史』(三省堂)などでも明らかであるが、戦後はそれが逆転し、持ち家の社会を形成するに至った。八八年の住宅統計調査データを引けば、持ち家61.4%、借家37.2%(公営借家5.3%、公団・公社借家2.2%、民営借家25.7%、社宅4.1%、不詳1.4%)となっている。
このような戦後の日本社会の持ち家比率の高さ、及び家を建てることから家を買うということへの移行は、七〇年代以降の消費社会の到来と日本特有のマイホーム幻想によって支えられてきたと考えられる。それらはピエール・ブルデューがいうところのハビトゥス、すなわち集団的、かつ個人的な歴史の産物として、ある階級や集団に特有な近くや行動をもたらす規範システムと見なすこともできよう。
そのブルデューは一戸建て住宅の生産と商品化の問題を論じた『住宅市場の社会経済学』(山田鋭夫、渡辺純子訳、藤原書店)の中で、次のように述べている。
住居に関する経済的選択―購入か賃貸か、購入するとしたら中古か新築か、新築の場合、伝統的タイプの家か工業生産された家かなど―は、一方では行為者の嗜好など(社会的に構築された)経済的性向と行為者が投入できる財力に依存し、他方では住宅の供給状態に依存する。(中略)この二項といえば、「住宅政策」によって作り出された経済的、社会的諸条件の総体に多少なりとも直接的に依存しているのである。実際、住居に関する嗜好を具体化させるあれこれの方法を助長しようとするあらゆる形態の規則や財政的支援、たとえばローン・控除・優遇金利融資といった住宅メーカーや個人に対する援助を通じて、国家―および国家を介して自らの考えを押しつけることのできる者たち―は、さまざまな社会階層の住宅面での財政的―および情緒的―な投資を直接・間接に方向づけることによって、きわめて強力に住居の市場状態を生み出すことに貢献している。
ブルデュー社会学の特有のタームで、先のハビトゥスを補完する「行為者」や「性向」が使われ、住宅の「供給状態」や「市場状態」への言及がなされている。これをシンプルに要約してみれば、フランスにおいて個々人の住宅購入はその経済的状況と「供給状態」によるとされるが、国家の「住宅政策」がもたらす法律や規制、銀行のローン、建築会社や住宅メーカーへの財政的支援に大きく依存するもので、一戸建て住宅市場は国家が決定的役割を果たしているということになる。これは新古典派理論に基づき、新自由主義を支える現在の経済学に対する批判を形成し、それゆえに原タイトルは邦訳と異なり、Les Structures sociales de l’économie=『経済学の社会的構造』となっているのである。
それはともかく、ブルデューの指摘で興味深いのは一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、銀行の住宅建築ローンが促進され、一戸建て住宅の資金提供がなされ、住宅メーカーの成長につながっていったという事実である。それらを反映してか、同書に収録された八四年の国立統計経済研究所調査の「一戸建て住民所有者の取得方法」は、ローンが64.4%、同じく「一戸建ての建て方」は住宅メーカーのカタログとデベロッパーによるものが、それぞれ37.1%と13.2%と、建売住宅が50%を超えている。八〇年代にあって、フランスでも家はもはや建てるものではなく、ローンを組んで買うものとなったことを教えてくれる。またパリ地域圏においては住宅取得に伴い、郊外へと移動した事実も指摘されている。
それらに加え、フランスそのものが一九七二年頃に消費社会化していたことを記しておかなければならない。ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(今村仁司、塚原史訳、紀伊國屋書店)のフランスでの刊行は七〇年であるから、まさにその転換期を表象していたことになる。先述したように、ちょうど同時代に日本の消費社会化も起きていて、それは七三年のオイルショックによる工業社会や高度成長期の終焉とパラレルに姿を現わし始めていた。
拙著『〈郊外〉の誕生と死』でも既述しておいたが、高度成長という「大きな物語」が終った後に出現した消費社会は、個人の「小さな物語」を結集することで、「大きな物語」を育成しようとした。その最たるものがマイホーム幻想であった。それえを支えたのはブルデューがいうように、フランスと同じく国家の「住宅政策」に寄り添った住宅市場と供給状態であり、その状況を具体的に挙げるならば、まずは戦後の都市化と人口増加を背景とする住宅産業の成熟を挙げることができよう。
それは一九六〇年代後半に住宅生産の工業化が本格化し、銀行、商社、不動産、製造業などがグループを形成し、土地の供給から建設施工、住宅部品や設備の製造に至るまで、住宅に関連する領域において、大量供給システムを可能とする産業として成長していたことを意味している。さらに同時に進行していたのがインフレに伴う地価の上昇、田中角栄の唱える「日本列島改造論」、住宅ローン専門の住宅金融会社の相次ぐ設立、新たな都市計画法によって制定された市街化区域と市街化調整区域の仕分けなどだった。そうして土地神話も成立する。これらの状況を背景として、マイホームは建てるものではなく、買うものとなり、その場所は年代を追うように郊外化していったのである。フランスと日本の消費社会化がほぼ同時であったばかでなく、「住宅市場の社会経済学」としてのマイホームの軌跡も同様だったように思える。
先の拙著に示した一九七〇年代前半のマイホーム関連の出来事を抽出してみる。日本住宅公団の供給住宅五十万戸突破、住宅金融公庫のマンション購入者への融資の開始、東京・三田綱町に日本初の超高層十九階建てマンション上棟、東京・晴海で初の住宅産業展「東京国際リビングショウ」開催、各ハウスメーカーがプレハブ住宅発売、多摩ニュータウン第一次入居開始、サラリーマンの住宅ローン返済中が七五年は14.2%だったが、八六年には31.1%、これらは住むことの郊外化、ローン化、高層化、建売住宅に象徴される家を買うことの日常化を告げている。こうした住むことの変容のかたわらで、ファストフードやコンビニだけでなく、多くのロードサイドビジネスが誕生していたことはいうまでもないだろう。
そうして八〇年代を迎え、ファストフードやコンビニやロードサイドビジネスが成長したように、地下の上昇は続き、郊外はさらに都市の外側へとスプロール化していった。その一九八六年から八九年にかけての「マイホーム獲得作戦」を「ロールプレイング・ノンフィクション」として描いた、矢崎葉子の『それでも家を買いました』が九〇年代に刊行されている。これは「首都圏に端を発した昭和61年(1986年)から64年(1989年)にかけての、あの空前の地価高騰」、つまりバブルの時代に「家を買う」ことをめざした社宅住まいの二十代の若い夫婦の物語=「ロールプレイング・ノンフィクション」である。またそれにふさわしく、見学物件所在地図と神奈川県近郊路線図が冒頭に置かれている。しかも物件ごとに住所と間取りと価格が掲載され、バブルの時代におけるマイホームと土地の神話を物語っているように思われる。それらの地区、価格、間取り、販売戸数をリストアップしてみる。
1 サン・ステージ緑園都市(西の街)第1期第1次/2900万円台、3LDK、90戸 2 モア・ステージ海老名第3期/3200万円台、3LDK+サンテラス、53戸 3 南えびな杉久保サンパルク650B街区第2次/1900万円台、3LDK、108戸 4 横浜小机パークスクエア第1期/3860万円、3LDK、121戸 5 座間入谷ハイツ第3期/3240万円、3LDK、149戸 6 新横浜コーポラス/3200万円、3LDK 西谷Rコーポラス/3200万円、3LDK 天王町マンション/3190万円、3LDK 7 コスモ西谷/3100万円台、3LDK、77戸 8 セザール希望ヶ丘/3200万円台、3LDK、68戸 9 ロビーシティ相模大野5番街第4次/3490万円、3LDK、100戸 10 セザールさがみ野/2170万円、3DK、39戸 11 リバテイタウン伊勢原第2期/3120万円、3LDK、132戸 12 ヴェラハイツ小机/3600万円台、3LDK、17戸 13 南えびな杉久保サンパルク650C街区第2次/3250万円、4LDK、68戸 14 横浜・中山フォレストヒルズ三保第1期/3700万円台、3LDK、102戸 15 クレオ小机壱番館/3770万円、3LDK、35戸 16 エンゼルハイム鶴ヶ峰第3/3360万円、3LDK、49戸 17 秦野南が丘第3期第2次/3750万円、プレハブ造2階建て 18 クレオかしわ台壱番館/3800万円台、3LDK、40戸 19 かしわ台駅徒歩5分・築4年・一戸建て/3100万円、3LDK 20 さがみ野さくら第3次/3130万円、3LDK、67戸 21 海老名周辺新築一戸建て/3300万円、3DK 同中古一戸建て/3200万円、3280万円、3680万円、いずれも木造2階建て 22 リジェンヌ京町川崎/3660万円、3LDK、232戸 23 クラルテかしわ台第1期/3880万円、3LDK、135戸 24 津久井湖近辺新築一戸建て/3300万円、4LDK 25 フォレストヒルズ三保第2期/3500万円、3LDK、247戸 26 コスモ横浜小机/4470万円、3LDK、24戸 27 厚木ニューシティ、森の里セントラルビューハイツ/3620万円、3LDK、119戸 28 城山町4LDK建築フリープラン付き宅地/敷地面積35坪、3780万円 1のサン・ステージ緑園都市はこの他に三ヵ所も見学しているのだが、地区の重複もあるので、それらは省略した。なお6の三件はいずれも中古住宅。だからこれらを含めて実際に山村夫婦が見学したのは三八ヵ所に及び、しかもそれらのほとんどがマンションであることを考えると、八〇年代後半から都市のマイホームの主流が高層の大型マンションに移っていることに気づかされる。しかもそれらは「記録的な地価高騰」と「3ケタの倍率」ゆえに、申し込んでも抽選で外れてしまうのだ。『それでも家を買いました』には八七年の首都圏分譲マンション平均価格3579万円が、八八年には4753万円になったと記されている。
最終的に山村夫婦は28の一戸建てフリープランを選択することになるけれど、新築見積書は最初の提示価格を上回る4000万円近い数字となり、25年ローンと往復四時間以上かかる通勤の重圧によって、もはや「一戸建ての思想」は確立できない。それは「家を買うこと」だけに集中してきたからでもある。だがこの『それでも家を買いました』は九〇年に刊行されたこともあって、家族の一員とでもいえる「地価高騰の亡霊」を直撃する土地バブルの崩壊までは描かれていない。矢崎は「おわりに」で、「大きな事件は何も起こらない。非行に走る娘も家を顧みない夫も思秋期に入った妻もここには登場しない」と述べているが、この物語の続編として、宮部みゆきの『理由』が書かれたように思われてならない。