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古本夜話488 江馬修『山の民』と出版事情

貴司山治と同じように、日本プロレタリア作家同盟の委員となったが、実録文学研究会にも『文学建設』にも属することなく、昭和十年代に自らの郷里の明治初年の事件を題材として、マルクス主義に立脚した新しい歴史小説に着手しつつある作家がいた。それは江馬修で、その作品は『山の民』という。この四部作からなる長編小説について、江馬自身が『一作家の歩み』理論社、昭和三十二年)で記している言葉によって語らせよう。

 明治元年、維新の動乱で物情騒然とした飛騨高山へ、若い浪人志士梅村速水が明治新政府から知事に任命されて赴任してきた。そして旧弊一洗の新理想のもとにつぎつぎと思いきった革新政策を遂行するが、彼が熱意をもって精力的にそれをやればやるほど、人民の間に大きな不満と怒りをよび起し、ついに全飛州人民を総蹶起させるような大一揆になった。郷里では俗にこれを梅村騒動と呼んでいる(後略)。

『山の民』を初めて知ったのは昭和四十三年に学芸書林から出された『全集・現代文学の発見』第十二巻『歴史への視点』においてだった。巻頭に『山の民』のクライマックスといえる第四部「蜂起」が収録され、この一巻の「解説」にあたる大岡昇平の「歴史小説論」で、「マルクシズム史観による現実の分析と・小説的形象化の稀らしい結実」との評が書かれていた。
歴史への視点

しかし『山の民』全巻を読んだのはしばらく後で、昭和四十八年刊行の北溟社の『江馬修作品集』1、2に上下巻として収録され、それを古本屋で入手してからだった。そしてあらためて全巻を通読し、飛騨の近世の歴史と生活、天領と周辺の藩との確執、江戸から明治への転換における政治的メカニズム、一揆へと至るアモルフでいて、ポリフォニックな「山の民」の生々しい動きにふれたように思った。また第三部「ホヤを食うひとびと」は当時の飛騨の山中での暮らしを伝え、リアルな描写によって、平地と山の異なる人物像を鮮烈に浮かび上がらせていた。
江馬修作品集(北溟社版)

さらに大岡が指摘していた『山の民』の物語構造が示す巨視的に捉えられた新政府の権力の非情な動き、それが梅村の毒殺を暗示する獄死、及び一揆の首謀者たちの牢死を語るクロージングの「牢死がおおかたの共通した宿命であった」に、ひとつの維新の縮図が象徴されていると思われた。そのようなインパクトは『山の民』だけがもたらしたもので、他の所謂歴史小説からは覚えたことのない感慨だった。この小説を読んで、私は必然的に白土三平『カムイ伝』を想起した。『山の民』一揆のエキスは『カムイ伝』に流れこんでいるのではないかと思ったのだ。
カムイ伝

そこで『山の民』の出版史をたどってみた。『一作家の歩み』によれば、江馬の父が梅村の側近だったことから、「梅村騒動」を子供の頃から聞かされていて、これを小説に書きたいと考え、昭和七年に中央公論社の島中雄作から出版の約束を得て、仕事に取りかかった。しかし資料と文献の研究に加えて、現地調査の必要性を痛感し、東京を引き上げ、飛騨高山へ移り、郷土研究誌『ひだびと』を創刊し、そこに「飛騨の維新」と「梅村速水」を連載した。そして友人からの資金援助によって、昭和十三年に前者を『山の民』第一部、同十四年に後者を第二部として、『ひだびと』の発行所である飛騨考古土俗学会から刊行する。ただ第三部は戦時下において充分に蜂起を書きこむことはできず、未定稿のままではあるが、同十五年に出版され、一応の完成を見た。第一部は初版八百部に重版五百部、第二部は千二百部、第三部は不明だが、おそらくほぼ第二部と同数だったと考えられる。しかし自家版にもかかわらず、二年間で完売に至り、また自家版ゆえに発禁も逃れることができた。

そして江馬は戦後を迎え、『山の民』の改作に打ちこみ、最初の稿に着手してから完成までに正味十一年かかったことになる。その戦後の出版史を天児直美の『炎の燃えつきる時―江馬修の生涯』(春秋社)も参照してたどってみる。
炎の燃えつきる時―江馬修の生涯

昭和 二十二年  改作『山の民』第一部『雪崩する国』 隆文堂
  二十四年 〃『なだれする国』  冬芽書房
     〃 第二部『梅村速水』冬芽書房
  二十五年 〃 第三部『蜂起』 冬芽書房
  二十六年 冬芽書房版角川文庫
  三十三年 全面改作『山の民』 第一部『ひだの国』、第二部『梅村速水』、第三部『ホヤを食う人々』、第四部『蜂起』理論社
  四十四年 『山の民』第四部『蜂起』、『全集・現代文学の発見』第十二巻所収、学芸書林
  四十八年 再改訂『山の民』『江馬修作品集』1、2所収、北溟社
  六十年 冬芽書房版『山の民』上下復刻、春秋社

(冬芽書房版)山の民理論社版)  山の民(春秋社版)山の民(春秋社新版)

戦前の飛騨考古土俗会版は千枚、戦後の冬芽書房版は千五百枚、理論社版は二千五百枚、北溟社版はおそらく二千五百枚以上に及んでいるはずである。
江馬修自身が様々な女性遍歴をたどったように、『山の民』も時代と出版社の間を漂流しつつあったことを示していよう。そしてまた北濱社版を刊行したのは、江馬の若き愛人天児直美と彼が入院していた病院の院長であり、没後十年に江馬の生涯を著わし、もう一度『山の民』を刊行するに至ったのも、天児自身なのである。彼女がいなければ、『山の民』も新たに送り出されなかった可能性も高い。その意味において、彼女の仕事は愛人というよりも、父の著作を遺そうとする娘の立場に近いように思われる。

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