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古本夜話490 小山勝清『それからの武蔵』

江馬修と柳田民俗学の関係は定かに見えてこないし、『一作家の歩み』柳田国男は出てこない。柳田の側から見ても、江馬は『柳田国男伝』に妻の三枝子と並んで言及されているが、『ひだびと』に関してだけである。しかしひょっとすると、『山の民』は柳田の『遠野物語』の序にある「これを語りて平地民を戦慄せしめよ」に照応する、もうひとつの『遠野物語』だったのではないかという仮説を禁じ得ない。『山の民』が柳田民俗学とはそぐわない蜂起をテーマにしているにしても。
(冬芽書房版)遠野物語

柳田民俗学と歴史文学、あるいは時代小説との関連でいえば、『山の民』と同時に小山勝清の『それからの武蔵』が思い出される。だがこの二作はそのような出自ゆえなのか、真鍋元之編の『増補大衆文学事典』には著者も作品も立項されておらず、一時期は『山の民』と同様に、『それからの武蔵』も絶版となっていた。
東都書房版) それからの武蔵集英社文庫版)

私が中学生だった頃、吉川英治原作内田吐夢監督、中村錦之助主演の東映の『宮本武蔵』五部作が上映され、確か一年に一作ずつの製作であったから、全作は見ていないが、第四部の『宮本武蔵・一乗寺の決斗』の殺陣のすさまじさは記憶に残るものだった。ちょうどその時代に、町の書店で小山勝清の『それからの武蔵』を目にした。それは東都書房の新書版で、佐々木小次郎との巌流島の決闘以後の武蔵を描くものだとカバーに記されていた。だが私は時代小説といえば、柴田錬三郎眠狂四郎シリーズや山田風太郎忍法帖を好んでいたので、この何巻にも及ぶ『それからの武蔵』を読む気になれず、そのままになってしまった。
宮本武蔵 宮本武蔵

その著者の小山勝清を再認識したのは、「それから」二十年近くも過ぎた昭和五十七年になってからであり、高田宏の、小山の生涯を描いた『われ山に帰る』(新潮社、岩波現代ライブラリー)が出され、それを読んだことがきっかけとなっている。そしてその直後に古本屋で、中学生の時に目にした東都書房『それからの武蔵』六巻本を入手したのである。
われ山に帰る

高田の著書には、時代小説家だとばかり思っていた小山の異なる姿があった。小山は明治三十九年に熊本の四浦村晴山の医師の次男として生まれた。山の村で背後に北獄の原生林を控え、その神社にはかつて狒々が住み、村の娘を人身御供に捧げていたが、一人の武士が訪れ、その狒々を退治したとの伝説があった。山を出て熊本の済々黌中学に入り、太田黒克彦と知り合う。太田黒に関してはすでに書いているので、ここではこれ以上ふれない。拙稿「川漁師アテネ書房の『「日本の釣」集成』」(『古本探究』所収)を参照されたい。
古本探究

そして小山は幸徳秋水『社会主義神髄』を愛読していたことから、大逆事件に衝撃を受け、中学を飛び出し、放校になってしまう。そのような中で、球磨の盆地の小学校教師の橋本憲三とその恋人高群逸枝と親しくなる。高群についてはいうまでもないが、橋本は後に平凡社に勤め、『現代大衆文学全集』を企画するに至る。こちらについても拙稿「平凡社と円本時代」(同前)に既述している。
社会主義神髄

理想主義とロマンチシズムに取りつかれた小山は山村の暮らしから脱出し、東京に向かい、大正七年に堺利彦の弟子となり、売文社に出入りし、翌年には釜石鉱山や足尾銅山労働組合支援に加わる。小山は革命によるユートピアを夢見る社会主義者で、『日本改造法案大綱』を書き上げたばかりの北一輝とも交わり、巡査の常尾行がつく「特別要視察人」となっていた。

しかしこのような東京での生活の中で、小山は郷里の山に囲まれた小さな村である晴山こそが理想社会にして、クロポトキンの夢見た相互扶助の社会ではないかと思い始め、村と東京で交互に暮らすようになり、大正十四年は晴山の歴史民俗誌とでもいうべき『或村の近世史』(聚英閣)を刊行する。それがきっかけとなり、堺の勧めで柳田国男を訪ね、柳田の最初の著作で、小山の郷里に近い宮崎県椎葉村の狩の民俗をテーマとする『後狩詞記』を読み、柳田への師事を決意し、それこそ江馬修よりもいち早く、社会主義から柳田民俗学へ移っていく。

その後の柳田からの破門などは省略するが、売文社時代の友人尾崎士郎の口ききもあり、講談社の『少年倶楽部』『少女倶楽部』などに少年少女小説を書き始め、昭和十年の村の少年を主人公とする『彦一頓智ばなし』が好評を博し、六年に及ぶ長期連載となった。これも柳さに師事していた頃に調べていた全国の「頓智ばなし」をベースにしたものだった。

これらの小山の軌跡は、高田の『われ山に帰る』と牛島盛光の『小山勝清の青春』(日本経済評論社、一九九九年)に依拠している。後者は幻の著作とされる『或村の近世史』復刻の掲載もある。前者の第九章は「山の民」と題され、小山が戦後の昭和二十七年に『それからの武蔵』を熊本日日新聞に連載を始めた頃から始まり、武蔵が北獄の原生林のなかで、「山の民」と出会い、武蔵自身が他ならぬ「山の民」であることを暗示する場面を紹介している。高田はこれが小山自身とも重なり合うものだと書いている。それらの場面は第二巻「山雨篇」に描かれているものだが、最終巻「天命篇」においても、武蔵は一人山にこもり、『五輪書』を書き、死期が近づいた時、再び山に戻り、死を迎えんとしていた。
小山勝清の青春

江馬修の『山の民』が柳田の『遠野物語』に対するひとつのこだまであるように、小山の『それからの武蔵』は同じ「山の民」のテーマとした柳田の『後狩詞記』へと照応しているのではないだろうか。ただ小山と江馬の二人が出会っていたかどうかはわからない。

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