まず藤田 田に関するささやかなポートレートを提出してみる。
彼は一九二六年に大阪に生れ、旧制松江高校を経て、戦後の四八年に東大法学部に入学する。在学中は授業料と生活費を得るためにGHQの通訳として働き、その一方で藤田商店を設立し、クリスチャン・ディオールのハンドバッグなどを輸入する貿易商の道を踏み出す。
そして一九七一年にアメリカのマクドナルド・コーポレーションと藤田商店のそれぞれ50%出資による外資との合弁会社日本マクドナルドを創業し、第一号店を銀座三越1Fにオープンする。十年後の八一年には総店舗数303、年商600億円に達し、翌年の八二年には700億円に至り、外食産業売上ベスト1に躍進する。そのポジションは八〇年代を通じて保たれ、九〇年には店舗数778、売上高1754億円に及び、九一年にはついに2000億円を突破している。ちなみに九〇年の来店客数は2億3千万人、ハンバーガー売上個数は4億個を超え、日本においてハンバーガーという「小さな物語」がファストフード産業という「大きな物語」へと一大成長した事実を示している。
そうした日本マクドナルドにおける藤田の辣腕と業績を讃えるかのように、八六年に原書が出されたジョン・F・ラブの『マクドナルド』(徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社)は、その一章を「藤田 田の商法」に割き、藤田の成功に焦点を当てている。また九一年には社史として『日本マクドナルド20年のあゆみ』も上梓されている。この一冊はその誕生と20年の歴史、比類なき成長、店舗業態とQSC(品質・サービス・清潔)理念、社員とアルバイト(クルー)からなる従業員構成、会社組織と社員ライセンス制度、商品開発とマーケティング活動、ハンバーガー大学とトレーニングシステムなどについての日本マクドナルドの啓蒙的なレポートともなっている。
またこの社史には「藤田 田物語」も収録され、藤田の日本マクドナルドへと至る「物語」も読むことができるし、彼が外資と対等の50%出資による合弁会社を設立したことも、ネゴシエーターとしての深謀遠慮を伝えるものである。さらにそうした具体的な例としては、アメリカ側が郊外に第一号店の立地を求めたことに対し、藤田は話題性をもって迎えられる場所である東京の銀座を主張し、それを実現したこと、それからフランチャイズシステムを導入せず、「日本独自のマクドナルド」を志向したことが挙げられる。前者に関してはまだ郊外は消費市場として成熟しておらず、もし日本マクドナルドが第一号店を郊外からスタートさせていたら、その成長は異なり、紆余曲折を孕む展開となっていたであろう。
確かに『日本マクドナルド20年のあゆみ』に見られるマニュアル化などは、ジョージ・リッツアのいうところの「マクドナルド化」にちがいないのだが、日本の場合は少し異なっているのではないかという印象を与える。前回のリッツアの『マクドナルド化する社会』における「マクドナルド化」の五つのプロセスのうちの「制御」と「合理性の非合理性」に照らし合わせても、ロボットのように働かされる「制御」のニュアンスはあまり感じられないし、「合理性の非合理性」についても、「合理性」のコンセプトは伝わってくるけれど、その「非合理性」は見えるかたちで表出していない。同書の公的社史という立ち位置を割り引いて考えても、そのような印象はさほど変わらないと思う。
ただこれは私だけの印象ではなく、今世紀に入っての丸山哲央の「マクドナルド化と日本社会の『文化システム』」(G・リッツア、丸山哲央編著『マクドナルド化と日本』所収、ミネルヴァ書房、二〇〇三年)も同様に指摘している。そこで丸山は藤田が「合理性」も実践したが、カリスマ的指導力によって組織運営を行ない、独自の社員教育、管理システムを開発し、社員の会社への帰属意識を高めたと述べている。それは『日本マクドナルド20年のあゆみ』にも示されている社員だけでなく、その配偶者への福利厚生を始めとする様々な配慮、「フランチャイズシステム」というより「暖簾わけ」に相当する社員ライセンス制度による独立などを通じての会社共同体のような色彩で、これらがアメリカと異なる「日本独自のマクドナルド」の骨格といえる。
そのような日本マクドナルドの操業に携わるかたわらで、七二年に藤田は日本マクドナルドのプロパガンダ本と見なしていい『ユダヤの商法』を出版し、ハンバーガーと同様にベストセラーならしめている。手元にあるのは八九年の263版だから、まさに三十年近くに及ぶロングセラーといっていい。同書は藤田の言によれば、「銀座のユダヤ人」と呼ばれる自分が、「あえて『ユダヤ商法』という名のもとに、金儲けのコツの公開に踏み切った」もので、「この本には、金儲けのノウハウが、ギッシリつまっている」のだ。
かつて私は「現代の立身出世本」(『文庫・新書の海を泳ぐ』所収、編書房)という一文を書き、明治初期における最大のベストセラーであるサミュエル・スマイルズの中村正直訳『西国立志編』(講談社学術文庫)や福沢諭吉の『学問のすすめ』(岩波文庫)が、当時の青年たちに立身出世主義の方向づけを与えたと述べておいた。その文脈で考えれば、『ユダヤの商法』は消費社会を迎えつつあった時代のとば口に出されたことで、第三次産業における「金儲けのノウハウ」の修得のみならず、ファストフードも含めた外食産業をめざす人々、さらに事業家たらんとする若者たちにも、バイブルのようにして読まれたのかもしれない。
これは藤田も『勝てば官軍』(同前)などでふれているが、実際にその愛読者の一人だった少年が九州から上京し、藤田を訪ねて面会を熱望した。少年はこれからアメリカにいくけれど、何を勉強したらいいのかと助言を求めてきたのだ。そこで藤田はこれからはコンピュータを勉強すべきだとアドバイスし、少年は七五年にアメリカに向かった。その少年こそは後のソフトバンクの孫正義であった。
このエピソードこそは藤田が時代を明確キャッチしていたこと、つまり消費社会の進化は必然的にコンピュータの発達を伴うことを予測していたことを物語るもので、それを踏まえているからこそ「ユダヤ商法」の公理としての「女と口」に関連するビジネスにまったくふれず、ダイレクトにコンピュータと助言したのだ。この藤田の発言は『ユダヤの商法』にあって、ステレオタイプ化しているユダヤ人の金儲け商法や藤田の露悪的言説の表皮をめくってみるべきことを示唆している。ただ問題なのは後者に関しては半ば当たってしまうという現象も生じているのだが。私も拙著『〈郊外〉の誕生と死』に引用しておいたが、『ユダヤの商法』の中に日本マクドナルドを始めた理由として、「日本人が肉とパンとポテトのハンバーガーを、これから先、千年ほど食べ続けるならば、日本人も、色白の金髪人間になるはずだ。私は、ハンバーガーで日本人を金髪に改造するのだ」という藤田の一節が見える。
これは七〇年代初期にあって、同書ならではのユダヤ商法を彩る脚色的言説にすぎなかったはずだが、それから三十年経ったばかりの九〇年代を迎えると、それが半ば達成されてしまったかのようなモードが出現するに至ってしまう。だが考えてみれば、その「金髪人間」化ばかりでなく、八〇年代におけるアメリカを出自とするファストフード、ファミレス、コンビニなどを始めとするロードサイドビジネスによる日本の郊外消費社会の隆盛、及びそれらによってもたらされた風景の占領、また東京ディズニーランドの開園もパラレルに起きていたことになる。そうしたアメリカ化を藤田はメタファーとしての「金髪人間」化にこめて語っていたのかもしれない。
この藤田の言説と眼差しは、どこに起源を持つのかが問われなければならない。私見によれば、戦後の消費社会の造型を推進したのは元マルキストたちで、彼らが流通革命を担ったと考えられる。藤田もその一人と見なせるし、同時代の東大日共細胞メンバー、もしくはシンパは後のセゾンの堤清二、読売新聞の渡辺恒雄、日本テレビの氏家齊一郎、流通革命のイデオローグとしてのペガサスクラブの渥美俊一、西友の高岡季昭だったはずだ。それは六〇年代を迎え、『流通革命』(中公新書)を著わすことになる林周二、同じく『日本の流通革命』(日本能率協会)を刊行する田島義博も同様だったかもしれないし、その流通革命の系譜のダイエーは中内㓛の『わが安売り哲学』(日経新聞社)にも及んでいったように思える。
そうした戦後の社会のGHQの占領下状況と左翼の時代の中にあって、藤田は占領軍の通訳としてアメリカの実態にふれることで、左翼から転向するに至ったのではないだろうか。それは藤田商店を設立したことに象徴され、ソ連や中国から欧米、いうなれば共産主義国家に見切りをつけ、すでに消費社会を誕生させていたアメリカ、それをめざそうとする英仏へと重心を移行させたのである。それは必然的に日本もまたそのような消費社会へと変容していかざるを得ない敗戦と占領の宿命を幻視していたようにも思われる。
それらに加えて、藤田の田という名前は口に十字架を意味し、敬虔なクリスチャンの母によって命名されている。また藤田の人脈はかなり錯綜していて、太宰治との交流もあり、最後に彼と飲んでいたのは藤田だったという。三島由紀夫の『青の時代』や高木彬光の『白昼の死角』のモデルにもなった金融会社「光クラブ」の山崎晃嗣とも友人で、しかもそのスポンサーだったとも伝えられている。まさに混沌とした人脈と時代状況をくぐり抜け、藤田は官僚にもならず、大手企業にも入らず、徒手空拳のようなかたちで藤田商店をスタートさせる。
そしてハンバーガーをファストフード産業へと成長させる一方で、「日本独自のマクドナルド化」をめざし、これは過褒になってしまうかもしれないが、その経営者としての姿はロバート・オウエンなどを彷彿とさせる。そのことや藤田のクリスチャンという出自、太宰との関係から考えると、藤田は転向したわけではなく、政治ではなくビジネスを選択することによって、よりよき消費社会の造型に向かったといえるのかもしれない。しかもそれが日本のユダヤならぬ「ユダ」を意味することも承知の上で。キリストがそうだったように、左翼も裏切ることによって聖化されるのだ。
それゆえに太宰の「駆け込み訴え」(『富嶽百景・走れメロス他八篇』所収、岩波文庫)の最後の一節をかみしめる時があったにちがいない。それを引用して、本稿を終えることにしよう。
金。世の中は金だけだ。銀三十、なんとすばらしい。いただきましょう。私は、けちな商人です、ほしくてならぬ。はい、ありがとう存じます。はい、はい、申しおくれました。私の名は商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。