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混住社会論113 安土敏『小説スーパーマーケット』(日本経済新聞社、一九八一年)とテーラー『科学的管理法』(産業能率短期大学出版部、一九六九年)

小説スーパーマーケット(講談社文庫 上) 小説スーパーマーケット(下) 科学的管理法



続けて言及してきたリッツアの『マクドナルド化する社会』の中で、「マクドナルド化」の先駆としてテーラーの科学的管理法やベルトコンベアによる大量生産のフォードシステムなどが挙げられていた。ここでは前者の科学的管理法を取り上げてみる。
マクドナルド化する社会

これは拙著『〈郊外〉の誕生と死』でもふれているが、テーラーの科学的管理法に関して新たに認識したのは、安土敏の『小説スーパーマーケット』講談社文庫)においてだった。著者の安土はサミットストアの現役の経営者荒井伸也で、商社からスーパーに転出した経験を十全に投影させ、『小説スーパーマーケット』へと昇華させている。この小説は一九八一年に『小説流通産業』日経新聞社]として刊行されたが、八四年の文庫化に際し、先のタイトルに改題されているので、それに従うことにする。
〈郊外〉の誕生と死

『小説スーパーマーケット』の主人公である香嶋は大銀行のエリート社員から地方都市のスーパーの石栄ストアへと転職する。銀行は自分がいてもいなくても変わらないだろうが、スーパーは未来に可能性があり、香嶋を求めている企業だったからだ。しかし当然のことながら、彼の妻はその転職に反対し、次のようにいう。「あなたは、流通革命だとかこれからの産業だとかおっしゃいますが、世間はそうは思っていません。所詮、肉屋・魚屋・八百屋のなれの果てではありませんか」。

この時代設定は一九六九年とされ、これは安土=荒井の住友商事からサミットストアの転出時期とも重なっているが、同年にはダイエーの中内㓛の『わが安売り哲学』日経新聞社)が出された年だということにも留意すべきだろう。なぜならば、この小説は中内の著作に対するアンチ・テーゼとして書かれてもいるからである。それは八七年刊行の『日本スーパーマーケット原論』(ぱるす出版)で確認されることになる。
わが安売り哲学 日本スーパーマーケット原論

これらのことはともかく、『小説スーパーマーケット』に戻ると、香嶋は転職してスーパーの現状と経営実態を理解するようになり、生鮮食品研究会を立ち上げ、日本一の生鮮食品売場を作り出してみたいと思うようになった。そのために「IE的なものの考え方」を導入すべきだと思いついた。いうなれば、小売業の近代化とも称すべきもので、次のように続いている。

 IEは、インダストリアル・エンジニアリングの略で、テーラー(アメリカの技術者。科学的管理法の創始者)の科学的管理法の流れを汲む経営管理思想ならびに技法の総称のことである。生産や作業の設計や改良に、工学的分析方法、数学、自然科学、実証的な社会科学などの専門知識を応用していこうというものだ。生産会社においては、IEは、ごく当り前の考え方として定着し、実効を挙げている。だが、小売業では、まだその段階に至っていない。

香嶋は範とするスーパー万来が肉や魚に関して、職人依存の技術によっていることを目にし、店舗数が増えていけば、それが管理不能になることを予測する。職人の技術がいかに優れていても、それは管理の対象とはならないし、職人の御機嫌をうかがいつつ展開するスーパーチェーンは存在しない。
カリスマ

同じような問題が、佐野眞一ダイエーと中内㓛を描いた『カリスマ』新潮文庫)にも書かれていて、それはダイエーの目玉ともいえる牛肉をめぐるものだった。昔気質の職人集団と食肉部門に配属された社員は対立し、マニュアルに基づき、職人でなくとも肉がさばける近代的オペレーションシステムが導入されたのは、やはり六〇年代後半になってからだったという。それは香嶋の語る次のようなプロセスをたどったと思われる。

チェーン化のためには、職人を追放する必要がある。職人を追放して、なお、職人の持っている技術を残すこと、それはIE的なものの考え方を適用することによって、はじめて可能になるはずだ。
スーパー万来は、おそらく日本で最もすぐれた売り場を有するスーパーマーケットであろう。だがそれは、腕のいい職人の技術の上に成立している優越性である。この優越性は店舗の数が六店舗という現段階では、一応問題はないが、店舗数の増加にともなって、やがては消滅し去るであろう。だから、もしIE的な考え方を用いて、スーパー万来の高い技術水準を、客観的に標準化された技術体系としてとり入れることができれば、石栄ストアは、高い技術水準と多店舗運営(チェーンオペレーション)を両立させることのできる唯一のスーパーマーケットになる。つまり、日本一のスーパーマーケットチェーンになる。

すなわち『小説スーパーマーケット』は他に類を見ない、「日本一のスーパーマーケットになる」ことをめざそうとする物語として提出されているといっていい。そして先述した『日本スーパーマーケット原論』がこの物語の理論とて解説編に当たるのである。

それゆえにここでは主として『小説スーパーマーケット』の記述に沿いながら、『日本スーパーマーケット原論』も援用し、「IE的なものの考え方」の構図を見てみる。科学的管理法は二〇世紀初頭のアメリカで大量生産による近代産業を成立させたマネジメント思想であり、それが小売業の大量販売のチェーンに結びつく。つまりフォードの大量生産のベルトコンベアシステムがスーパーの大量販売のチェーンに相当することになる。そのコアは標準化、専門化、単純化、集中化にすえられ、中枢に本部を置き、標準化した店を多く生産することによってチェーン展開していくスーパーの原理へと反映される。そのチェーン化のためにまず実行されなければならないのが、「職人を追放する」ことなのだが、それでいて「職人の持っている技術を残すこと」も必要とされる。「職人」に代わるものが「IE的なものの考え方」であり、一九八〇年代の郊外消費社会におけるロードサイドビジネスの隆盛と増殖の背景には、それが作動していたことも理解される。

そのような動向は具体的にはマニュアル化、コンピュータ化、POSシステム化などとして表出していたが、科学的管理法から始まり、フォードシステムに受け継がれ、インダストリアル・エンジニアリングへと発展していったマネジメント思想の系譜であり、それがメーカーから小売業へとも応用されていった歴史が浮かび上がってくる。リッツアのいう「マクドナルド化」もこの歴史の延長線上に成立したことは言を俟たないし、グローバリゼーショ化もその色彩に覆われていると判断するしかない。

それならば、その始まりに他ならないテーラーの科学的管理法とは何なのか。拙著刊行時には『科学的管理法』を入手していなかったために誤解していて、その翻訳出版が一九六九年だと思いこんでいた。ところがその後ようやく読む機会を得て、すでにテーラーの著作は一九一三年(大正二年)に日本で出版され、次に三一年(昭和六年)に上野陽一によって日本版『テーラー全集』として刊行されていることを知った。それが戦後の五六年に『科学的管理法』と改題出版され、六九年に新たに同タイトルで刊行され、テーラーは「第二の産業革命」ともいわれる工場のマネジメント思想として、日本でも長きにわたって参照されてきたことをあらためて教えられた。
科学的管理法


それに加えて、朝日新聞社『現代日本朝日人物事典』によれば、訳者の上野陽一は産業界の「能率の父」とされ、東大心理科卒業後、一九二四年に日本産業能率研究所を総説し、アメリカからマネジメント思想と技術を導入し、産業界に紹介し、日本最初のマネジメント・コンサルタントになっている。戦後の五〇年に産業能率短大を設立し、それを長男の上野一郎が産能大へと発展させ、実業主義をモットーに科学的管理法から派生した様々な経済技法を産業界に広めたとされる。

ここに戦後の東大日共細胞のマルキストたちと異なり、戦前のアメリカ工業社会を凝視していた人物を知ることになる。そして戦後を迎え、この心理学者と第三次産業において流通革命をめざしていた元マルキストたちが合流する。前回田島義博の『日本の流通革命』日本能率協会の出版物であることを記しておいたが、それは「テーラーの『科学的管理法』導入を起点とするわが国マネジメント史の五〇年目」に創刊された「マネジメント新書」の一冊で、戦前の四二年の同協会設立にも、「能率の父」上野洋一が関係していたにちがいない。そのような系譜を引き継ぎ、六九年に産業短大出版部から発行者を上野一郎として、上野洋一訳・編、テーラー著『科学的管理法』の新版の刊行に至ったのであろう。

これは「工場管理法」や「科学的管理法の原理」も収録したA5版六百ページ近くに及ぶ大冊であり、要約は難しい。そこでテーラーの経歴とその「科学的管理法」のアウトラインを紹介し、同書の中にある「科学的管理法の本質」の一節を引用することで、両者の簡略なプロフィルを提出してみたい。

テーラーは一八五六年にアメリカのフィラデルフィアに生まれ、十八歳の時にポンプ工場の労働者となり、それから製鋼所に移り、職長を経て、技師長に至った。その間に独学で工科大学卒業資格を得て、旋盤作業についての時間も含めた研究を行ない、独自の賃金制度を案出し、それが彼の管理法の始まりだった。その後彼は工場管理の研究を進め、顧問技師を職業とし、様々な会社の行程や労務管理の指導に携わるようになり、一九一〇年頃からその管理方式は科学的管理法、もしくはテーラーシステムとして広く知られるようになった。

この管理システムの特徴は工場での労働者の作業を分析し、動作と時間研究を行ない、そこから標準時間を算出し、それをもとにして一日の作業量を課業として与えること、そしてこの課業を遂行できるように作業条件を標準化し、それに応じて賃金制度を改革し、職長の系統組織を組み替えることにあるとされる。その「科学的管理法の本質」を『科学的管理法』から引いてみる。

 すなわち古い知識を集め分析し、組わけし、分類して、法則規則として、もって科学を作りあげることである。それに行員および管理者側が相互に対し、また各自の義務と責任とに対し根本から精神的態度をかえることである。両者の間に新たに義務の分担をなし、旧式管理の考えかたのもとにおいてはできない程度に、両者は親密な友誼的協力をすることである。こういうことさえも多くの場合、だんだんに発達して科学的管理法の助けをかりなくては、実現することができなかったのである。
 科学的管理法なるものはけっして単一の要素ではなく、この全体の結合をいうのである。これを要約していえば、
 一、科学をめざし、目分量をやめる
 二、協調を主とし、不和をやめる
 三、協力を主とし、個人主義をやめる
 四、最大の生産を目的とし、生産の制限をやめる
 五、各人を発達せしめて最大の能率と繁栄を来たす
著者は繰り返して述べたい。「ある一人が周囲の人々の力をかりずに、個人的大事業をなす時代は速に過ぎ去りつつある。各自がみなその個性を保ち、かつその特殊の任務については最高権力者であり、同時に個人の工夫と独創とを失うことなくしてしかも多くの他人の統制をうけ、その人々と強調して働くような協力が行なわれるのでなければ大事業はできないという時代が来つつある。」

そしてそれから半世紀を経て、この「科学的管理法」が「IE的ものの考え方」へと継承され、必然的にチェーン化を伴うスーパーへとも導入されていくプロセスを『小説スーパーマーケット』の中に見てきた。

確かにそれは企業への繁栄にはつながっていったにちがいないが、社会や家庭においてはどうなのであろうか。その功罪はここで問わないできたけれど、テーラーのいう「各人を発達せしめて最大の能率と繁栄を来たす」社会はまだ実現していないように思われる。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」112  藤田 田『ユダヤの商法』(KKベストセラーズ、一九七二年)と『日本マクドナルド20年のあゆみ』(同社、一九九一年)
「混住社会論」111  ジョージ・リッツア 『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部、一九九九年)
「混住社会論」110  藤原伊織『名残り火』(文藝春秋、二〇〇七年)
「混住社会論」109  ピエール・ブルデュー『住宅市場の社会経済学』(藤原書店、二〇〇六年)と矢崎葉子『それでも家を買いました』(大田出版、一九九〇年)
「混住社会論」108  庄野潤三『夕べの雲』(講談社、一九六五年)
「混住社会論」107  宮部みゆき『理由』(朝日新聞社、一九九八年)
「混住社会論」106  黄 春明『さよなら・再見』(めこん、一九七九年)
「混住社会論」105  日影丈吉『内部の真実』(講談社、一九五九年)
「混住社会論」104  ウェイ・ダーション『セデック・バレ』(マクザム+太秦、二〇一一年)
「混住社会論」103  松本健一『エンジェル・ヘアー』(文藝春秋、一九八九年)
「混住社会論」102  村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」101  赤坂真理『ヴァイブレータ』(講談社、一九九九年)
「混住社会論」100  中上健次『日輪の翼』(新潮社、一九八四三年)
「混住社会論」99  多和田葉子『犬婿入り』(講談社、一九九三年)
「混住社会論」98  本間洋平『家族ゲーム』(集英社、一九八二年)
「混住社会論」97  黒岩重吾『現代家族』(中央公論社、一九八三年)
「混住社会論」96  近藤ようこ『ルームメイツ』(小学館、一九九七年)
「混住社会論」95  鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1