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古本夜話496 堤糸風と『講談全集』

講談社の『少年倶楽部』の編集長だった加藤謙一の回想記『少年倶楽部時代』に、円本時代の『講談全集』をめぐる思いがけないエピソードが記されている。戦後における『講談全集』の焼直し出版が東都書房設立のきっかけとなったことは既述したし、私がインタビューした原田裕『戦後の講談社と東都書房』にも明らかだが、その『講談全集』を担当した作家については管見の限り、ここでしか言及されていないのではないだろうか。
少年倶楽部時代 戦後の講談社と東都書房 (『講談全集』第3巻)

すでに私も拙稿「講談本と近世出版流通システム」(『古本探究』所収)で、この昭和三年から刊行した『講談全集』全十二巻にふれ、この企画がそれまでに大川屋などの赤本屋が出版した講談本を全国の古本屋を渉猟して収集し、リライトされて成立したこと、トータルで三百万部売り、『講談倶楽部』と『講談全集』によって、文字通り講談社が講談本に関する勝利を収めたと書いている。そしてこれらがベースになって、時代小説の前身ともいえる「新講談」へと転換していったのである。その意味において、この『講談全集』は明治大正の講談の集大成であったと思われる。私も数冊持っているが、大日本雄弁会講談社刊の箱入り本は千二百ページに及び、円本としてもひときわ厚く、合計すれば一万五千ページ近くになるわけだから、そのように考えてしかるべきだろう。
古本探究

その『講談全集』を担当した小泉長三=堤糸風のことが、加藤の回想に「小泉長三」と一章を割かれ、思いがけなく出てくる。私も初めて目にする名前であるし、加藤自身も「小泉長三といっても堤糸風といっても思い出す人は少ないのではないだろうか」と述べている。

堤糸風は茨城県竜ヶ崎の出身で、『萬朝報』の記者だったが、病気のために退社し、仕事がなくなったので売文生活を考えるしかなく、誰かの紹介で『少年倶楽部』に「赤熱の鞭」という短編を持ちこんだことから、講談社との関係が始まった。これは大正十一年の十月号に掲載されたが、野間清治がこれをほめ、続けて書かせるように加藤にいった。

そこで加藤はこれからのこともあり、堤の浅草の住居を訪ねていくと、路地の奥の物置のような二階に夫婦二人きりの生活で、調度は一切見当らず、「赤貧洗うがごとし」の暮らしであり、原稿はりんご箱の上で書くような状態だった。しかも堤は足腰が立たぬ病気で、妻におぶさって近くの銭湯のしまい風呂に入れてもらっていると話であった。加藤はただ息をのむばかりで、受け答えもできず、見かねて失礼かとも躊躇したが、手土産代わりにとわずかの金を裸のまま差し出すと、夫人は何もとがめず受け取ってくれたことから、講談社との本格的な付き合いが始まり、『講談全集』にまでつながっていったようだ。

加藤はそれらの事情について、次のように書いている。

 それからというもの、大正十五年ごろまでに少年倶楽部に欠くことのできない短編作家として、つぎからつぎと読み切りの原稿をもらった。それが、キングにも講談倶楽部にも面白倶楽部にもと手がひろがり、短編だけでなく大人雑誌に連載小説も書くようになって、それをまとめた単行本がつづいて出版されたりした。
 昭和のはじめ講談社で修養全集と講談全集の二大全集を出すことになったとき、講談全集の主力としてその原稿を担当し、もちろん自分でも執筆するし、ほかの人の書いた原稿の吟味から添削まで頼まれたので勢い雑誌の原稿を執筆する余裕はなくなった。それが物足りないように洩らされたこともあるが、義理堅いこの人は、だからといってわがままをいわれるでもなく、忠実に全集の仕事に没頭された。

昭和四十一年に加藤謙一編によって、菊判三千ページ余に及ぶ『少年倶楽部名作選』全三巻が刊行された。そこに堤の作品は収録されていないが、第三巻に大正十三年創刊号から昭和三十七年終刊号までの「主要作品目録」が掲載され、堤の前記の短編の他に「花散らす放駒」「血戦」「法心と独眼竜」「甘辛屋の十三」「火焔不動」「夢の市郎兵衛」「電電為右衛門」といった短編が寄せられているとわかる。

しかし講談社から刊行されたと思われる堤の単行本は古書市場にもまったく見つからず、彼の作品集を読むことはできない。それもあってか、『日本近代文学大事典』にも彼は立項されておらず、近代文学史にも姿をとどめていない。それは近代出版史や新聞史も同様で、堤もまた大正から昭和にかけてかなり多くの作品を発表したにもかかわらず、忘れ去られてしまった作家のひとりに数えられるのだろう。そして出版史には記されていないが、そのような作家の多くが、円本の企画や編集に携わっていたことをあらためて知るのである。

それでも加藤は、堤が『講談全集』の仕事などによって、竜ヶ崎に家を新築したこと、『少年倶楽部』編集部全員が前例にない招待を受け、きのこ狩りをしたこと、幸福そうな妻に歓待されたことを語っている。「赤貧洗うがごとし」から「幸福」を得たことを寿ぐべき例のように思われ、ほのぼのとした気分にさせられる。しかし当時の出版状況において、堤のような円本関係者は少なかったのではないだろうか。

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