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古本夜話499 池田宜政と『修養全集』

昭和円本時代の講談社の『講談全集』については本連載486で既述したが、それと同時期にもひとつの円本『修養全集』も刊行されていた。こちらも昭和三年から翌年にかけて、全十二巻が刊行され、総発行部数は三百万部に達したとされている。これらの『講談全集』と『修養全集』は講談社の円本ということもあってか、またタイトルが示す内容も加わり、ほとんど言及されていないと思われる。ただ出版史においては、流通における送料の高さ問題を原因とする失敗した円本として語られ、さらにそれらの膨大な返品は講談社の野間清治が買収した新聞社の購読者のための拡材に使われたと伝えられている。

この『修養全集』の企画編集の実際が『講談社の歩んだ五十年』のなかで、担当編集者の黒川義道によって語られている。

 「修養全集」は一体何冊くらい出すか、やはり全集だからとにかく十二冊にしようときめて、一巻から十二巻をどういう順序で、どういう名称で出そうかというので、あれこれと研究し、ようやく第一巻が「聖賢偉傑物語」、第二巻が「東西感動美談集」、三巻が「人生画訓」、四巻が「寓話道話お伽噺」、五巻が「修養文芸名作選」、六巻が「滑稽諧謔教訓集」、七巻が「経典名著感話集」、八巻が「古今逸話特選集」、九巻が「訓話説教演説集」、十巻が「立志奮闘物語」、十一巻が「処世常識宝典」、十二巻が「日本の誇」と、これらの題名がきまるまでがまず大変でした。
 このように大方針がきまったわけですが、初めのうちは、今申し上げたような陣容で原稿を蒐集したわけですが、社長を総元締にして、音羽邸にいる少年諸君が手助けをしてくれました。全部の原稿をはじめから集めるというのではなく、いろいろの単行本といわず、雑誌といわず、ありとあらゆるものから原稿の切抜きを始めたわけです。
 ところが、これは編集だけじゃ読めないというので、社長以下少年部諸君まで全部廻して切抜きの整理を始め、さらに少年諸君が、原稿のいい、悪いまでやってくれたわけです。いうなれば、あの全集は社内を挙げてやったといえるでしょう。

大日本雄弁会講談社における円本時代の企画の内実と実態があますところなく示され、また語られているので、省略を施さず、あえて長い引用をしてみた。他社のベストセラーになった円本に比べて、『修養全集』の企画と編集は、出版社としての大日本雄弁会講談社の当時の位相を如実に物語っている。しかも『講談全集』もパラレルに刊行されたのだ。そしてこれらの円本の失敗は、大日本雄弁会講談社が単行本や文芸書の出版社ではなく、あくまで雑誌社であったことを告げているように思われる。引用からわかるように、『修養全集』は雑誌のように編集制作されている。

しかし加藤謙一の『少年倶楽部時代』によれば、池田宜政の第三作「愛の艦長」は野間清治が読み、激賞したことによって、他ならぬこの『修養全集』に収録されることになったという。ちなみに私は『修養全集』を五冊持っている。ずっと前に均一台で拾ったものだ。池田の作品を探してみると、それはたまたま手元にある第二巻の「東西感動美談集」に、軍艦に不良少年を引き取り、感化させようとするチビタ夫人とネリという子供を描いた「愛の女艦長」として収録されていた。加藤の表題は「女」が抜けていたことになる。しかもそれだけでなく、池田だけが「若き日本」や「形見の万年筆」の二編も掲載され、池田が「感動美談」の新しいホープとして、ひときわ期待されていたことを示しているのだろう。ドイツで失った愛用の万年筆が三年後に日本にいる池田のもとに送られてきたこととそれに添えられた少年の話を伝えた「形見の万年筆」は、当初『少年倶楽部』で驚くほどの反響を呼び、後にいくつもの教科書に採用されたという。池田の昭和六年の最初の短編集『輝く凱旋像』はこれらの三部作も含んだ短編集であるようだ。
少年倶楽部時代 (『輝く凱旋像』)

ここで『東西感動美談集』に収録された池田以外の作品を見てみると、五十人以上に及び、そこには間宮茂輔、澤田謙、大倉桃郎、岡本潤、渡辺黙禅、尾崎士郎、木村小舟、清澤冽、遅塚麗水、野村愛正、菊池寛などの名前も並んでいる。さらにもう一人だけ気になる無名の作家を挙げておくと、堀内文次郎「血染の報告」がある、これは本連載53「戦前戦後の二見書房」で言及した堀内印刷と二見書房を興すことになる堀内文次郎本人ではないだろうか。
少年倶楽部時代(『東西感動美談集』、復刻版)

この一巻だけの作者のメンバーだけを見ても、「いろいろの単行本といわず、雑誌といわず、ありとあらゆるものから原稿の切抜き」を行なったとわかる。そしてさらに全巻の執筆者たちを総覧すれば、「あの全集は社内を挙げてやった」ものであることが了解されるだろう。その執筆者のメンバーの総覧こそは、大日本雄弁会講談社の雑誌出版社としての間口の広さを証明していることになる。しかも自社の雑誌の「切抜き」を中心とする編集によって成立していたゆえに、原稿料はほとんど発生せず、それもあって三百万部という総発行部数が可能になったのではないだろうか。まただからこそ『修養全集』が大失敗に終わったにもかかわらず、講談社は円本時代にそれほどのダメージをこうむることなく、さらにマス雑誌をめざし、九大雑誌出版社となるべく、突き進んでいったように思われる。

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