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古本夜話500 保篠龍緒と星野辰男

前々回、松村喜雄の世代が保篠龍緒訳のルパンで、探偵小説の面白さにめざめたことを記しておいた。それは昭和円本時代に刊行された平凡社の『ルパン全集』全十四巻で、私も第三巻『虎の牙』を持っている。これも改造社の『世界大衆文学全集』と同じ四六半截判で、この全集の第四巻にもやはり保篠訳の『ルパン』、その作品内容は『813』である。

松村は平凡社版『ルパン全集』の当時の流通事情について、『怪盗対名探偵』(双葉社)で次のように書いている。
怪盗対名探偵

 筆者が少年の頃、この頃はこの平凡社版の小型全集がどの古本屋の棚にもゴロゴロしていたので、これを読んでいたが、この平凡社版がよく売れたため、以後再三にわたって、保篠訳が形を変えて刊行された。

そして松村は、講談調の保篠訳の功績による探偵作家の誰もが受けたルパンの洗礼、英米に比べて、現在に至るまで日本でルパンが読み継がれていることと翻訳の影響を強調している。なおつけ加えれば、『ルパン全集』が「どの古本屋の棚にもゴロゴロしていた」のは、平凡社がその返品をゾッキ本として古本市場に流出させていたからだろう。

さてここで訳者の保篠に話を転じてみよう。それは『朝日新聞出版局50年史』を読んでいたら、彼に関する記述にぶつかり、気になっていた一冊の手がかりも得たからである。

朝日新聞社の『アサヒグラフ』は日本で初めて日刊写真新聞として、大正十二年一月に創刊された。国産写真機も発売となり、写真ブームが起こりつつある中で、ビジュアルなメディアを狙ってのことだった。しかし創刊七ヵ月後に関東大震災に見舞われ、社屋も焼失し、日刊は二百二十号で廃刊となった。だが復興はめざましく、『アサヒグラフ』は週刊画報雑誌として復刊されることになる。その日刊時代のことが『朝日新聞出版局50年史』で、次のように述べられていた。 

小説欄には、当時勃興期にあった探偵小説が採用された。アルセーヌ・ルパンものが保篠龍緒訳で掲載された。
 保篠は(中略)「アルセーヌ・ルパン叢書」や「探偵傑作叢書」によって著名になっていた。東京高等学校に奉職しており、成川玲川とは昵懇であった。「アサヒグラフ」の編集について玲川から協力を頼まれ、客員として夜間は出社して写真ページのレイアウトを手伝った。この保篠龍緒が、のちに玲川をついでグラフ部長になった星野辰男である。

まず書誌的な事実を述べておこう。大正時代に「アルセーヌ・ルパン叢書」は金剛社(東京堂発売)、「探偵傑作叢書」は博文館から刊行され、昭和に入って平凡社の『ルパン全集』に集大成されていく。ルパン翻訳の系譜ゆえに、それこそミステリー史家の長谷部史親が指摘しているように、「ルパンのホシノか、ホシノのルパンか」(『欧米推理小説翻訳史』、本の雑誌社)と言われるほどに、保篠龍緒の名前はルパンと切り離せないもので、それは戦後まで続き、昭和二十六年の日本出版協同の『アルセーヌ・ルパン全集』も保篠の訳によるものだった。

欧米推理小説翻訳史(双葉文庫版)(『アルセーヌ・ルパン全集』別巻)

保篠は中島河太郎の 『日本推理小説辞典』(東京堂)でも立項され、確かに本名星野辰男を記されていたが、東京外国語学校卒業後、文部省に入るとあり、朝日新聞社の社員だったことは書かれていなかったので、『朝日新聞出版局50年史』によって、意外な事実を知らされたことになる。念のため今世紀に入って出された『日本ミステリー事典』(新潮社)を引いてみると、こちらには朝日新聞社入社が述べられていた。
日本推理小説辞典 日本ミステリー事典

『朝日新聞出版局50年史』の巻末に付された「『アサヒグラフ』編集長系譜」によれば、星野は昭和二年から十三年にかけて、三代目の編集長を長きにわたって務めている。

実はこの社史にも言及はないが、『JAPAN A PICTORIAL INTERPRETATION』という一冊を所持していて、これは昭和七年に朝日新聞社から刊行され、奥付には編輯者として星野辰男の名前がある。同書は四六倍判の二百七十ページほどの写真集で、大半が一ページ一枚の写真で占められ、各写真には英語とフランス語の説明が施されている。同じく英語とフランス語の序文をG.Caiger なる人物が寄せ、神社と桜、美しい風景と古寺の日本ではなく、改良と模倣、大いなる成功といささかな失敗、東洋と西洋、現代物質文明と古代文化のせめぎ合っている日本の社会を描き出す写真集を得たことを歓迎したいという旨を述べている。

それぞれの写真にふれられないので、全体的な印象を記せば、主として日本の日常生活を浮かび上がらせながら、そこに表出している西洋的モダンを切り取るという手法で、この一冊の写真集が構成されている。おそらく朝日新聞社内に膨大にストックされた写真の中から注意深く選択され、編まれたのであろう。それゆえなのか、古い写真が放つノスタルジアが感じられず、ここにある日本はまさにJAPANのようで、ひとつの異国のようにも思われてくる。確実に昭和七年という時代を見すえ、朝日新聞社が日本を表象する意志を持って編集し、刊行した一冊といえよう。そしてフランス語に通じた星野の編集ゆえに、英語との二重表記が取り入れられたのではないだろうか。

この写真集の出版に至る流れは、朝日新聞社が大正十四年から昭和十五年にかけて刊行した『英文日本号』(プレゼントディ・ジャパン)、これは日本の国勢、産業、文化を数百枚の写真を使って英文で記述し、海外に頒布し、日本を紹介する大冊に加え、昭和七年十二月に創刊された月刊の『アサヒグラフ海外版』が合流しているように思える。両者とも未見であるが、海外に日本を紹介する目的で刊行されているのは自明である。これらの企画を推進したのは当時の唯一のグラフ誌で、グラフ・ジャーナリズムとモダニズムの尖端をゆくアサヒグラフ』に集った編集者たちではないだろうか。

とりわけ星野は十年以上編集長を務め、社史の記述によれば、彼は「当時三十代から四十代にかけての男盛りで、この部長の下にグラフ部全体が若々しく活動的」で「成功も失敗もあったが、とにかく新しいものを創ろうという意気が部内に燃えていた。そういう空気を作ったのは、星野部長」だったとの編集者の言が引かれている。

ルパンの翻訳者として著名な保篠龍緒の背後には、このようなもう一人のジャーナリスト兼雑誌編集者としての星野辰男が存在していたことになる。それはいかにもルパンの翻訳者にふさわしいもうひとつの顔、意図された二面性のように思われる。

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