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古本夜話501 世界文庫刊行会と『世界国民読本』

前回、円本時代の『ルパン全集』平凡社)の訳者保篠龍緒が、朝日新聞社の『アサヒグラフ』編集長星野辰男と同一人物であることを記しておいた。私にしても、この事実を知り、保篠=星野が世界文庫刊行会の翻訳者人脈の一員だったことを教えられた。

本連載の目的のひとつは明治後半から大正時代にかけて、及び関東大震災と昭和円本時代以前の出版社と出版物の重要性の探求である。そうした出版社として、草村松雄の隆文館、田口掬丁の中央美術社、吉澤孔三郎の近代社、仲摩照久の新光社、松宮春一郎の世界文庫刊行会などにふれてきた。そのうちの世界文庫刊行会に関しては、本連載104や拙稿「折口信夫と世界聖典全集」(「古本屋散策」36、『日本古書通信』平成17年3月号)で、『世界聖典全集』の版元として取り上げている。
世界聖典全集 『世界聖典全集』

さらに近年発行人の「松宮春一郎年譜」(「神保町系オタオタ日記」所収)も作成されるに至り、松宮が明治八年生まれで、三十五年に学習院大学を卒業し、三十九年頃に電報新聞記者だったこと、柳田国男の友人大野若三郎が始めた雑誌『同人』のメンバーで、大野没後、その発行兼編集人だったこと、昭和に入って中央大学事務部長となり、同八年に五十九歳で亡くなっていることなどが判明している。だが松宮が発行人だった世界文庫刊行会の詳細は、吉川英治が筆耕仕事に携わっていたという事実以外はほとんどつかめていない。大正時代の最大の出版データベース『東京書籍商組合員図書総目録』(大正七年)にもその痕跡は残されておらず、おそらく近代出版史において、まとまった記述は見出すことができないだろう。54それは世界文庫刊行会の出版活動が関東大震災をはさんでの大正後年という短い期間であったこと、それに加え、出版物は三つのシリーズだけで、流通販売は書店ルートよりも、読者への直接販売をベースとする予約出版システムによっていたことに理由が求められるように思われる。

世界文庫刊行会は先述したように、『世界聖典全集』の他に、『興亡史論』全二十四巻、『世界国民読本』全十二巻という三つのシリーズを出している。それらは昭和円本時代を迎え、経緯と事情は不明だが、『世界聖典全集』は改造社から新版(昭和四年)、『興亡史論』と『世界国民読本』はいずれも平凡社から『世界興亡史論』(同五年)、『欧米小学読本』(同四年)として引き継がれ、再刊されている。

ここでは『世界国民読本』を取り上げてみたい。ただ全巻を見ているわけではなく、たまたま第七、八巻に当たる、大正十、十一年刊の『佛国小学読本』上下を入手しているからだ。四六判上製、三一〇ページ余、訳者は水野葉舟と星野辰男である。水野は柳田国男に佐々木喜善を引き合わせ、『遠野物語』誕生の触媒の役割を務め、また拙稿「水野葉舟と『心霊問題叢書』」(『古本探究3』所収)や、本連載100「新光社『心霊問題叢書』と『レイモンド』」で述べておいたように、メーテルリンクなどの訳者でもあった。その水野とルパンの保篠龍緒が『佛国小学読本』を共訳したことになる。
古本探究3

その巻頭の「例言」によれば、フランスの代表的小学校教科書であるギョオの読本をメインとし、それに諸家の作品からの抽出リライトしたものを加えたとされている。後者については具体的に挙げると、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の中のコゼットが出てくるシーンが収録されたりしている。その「例言」には「責任の念の厚い本叢書の代表者松宮春一郎氏」の言も見える。『世界聖典全集』巻末広告に、『米国小学読本』は加藤文学士、松宮学士訳とあるので、この叢書は松宮自身も翻訳に加わるという「責任の念の厚い」ものになったのだろう。
レ・ミゼラブル

また水野葉舟はその名前のままで、『読本』と共通する「小品文」の文学者としての立ち位置を示しているが、星野には「文部嘱託」が付されている。これは彼が東京外語学校を出て、朝日新聞社に入社する前に、文部省に身を寄せていたことを示している。これは星野だけでなく、『英国小学読本』『独逸小学読本』の訳者たちにも「文部嘱託」の肩書が付されている事実からすれば、この「麗しき文章中に国民性を織込める各国教科書がいかに道義の光の輝けるかを見よ」と謳われた「叢書」自体が、「文部嘱託」のような企画だったのかもしれない。『世界聖典全集』や『興亡史論』とコンセプトと内容がまったく異なる『世界国民読本』は、大学行政に関係していた松宮自身が文部省とジョイントする出版物として受注し、自らも編集と翻訳に取り組んだとも考えられるのである。

それならば、水野葉舟はどのようにして翻訳に加わったのであろうか。それは「心霊問題叢書」の版元である仲摩照久の新光社との関係に由来すると思われる。当時新光社は関東大震災で紙型が焼失し、実現しなかったが、高楠順次郎による『大正新修大蔵経』の企画を進めていた。『世界聖典全集』も高楠が力を注いだもので、同時期に新光社と世界文庫刊行会は「空前の大出版」に挑んでいたのである。当然のことながら、双方の編集者や翻訳者は同じ出版人脈に属していたので、水野は松宮によって『世界国民読本』の翻訳者として召喚されたように思われる。

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