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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話503 大正一切経刊行会『大正新修大蔵経総目録』

前々回、仲摩照久の新光社は高楠順次郎の『大正新修大蔵経』の出版を進めていたが、関東大震災で会社が全焼し、その企画自体が烏有に帰してしまったことを既述しておいた。

仲摩は大本教関係者とも伝えられ、大正五年に新光社を設立し、雑誌『科学画報』を創刊し、単行本も三百点余に及び、この中にはすでにふれている水野葉舟の「心霊問題叢書」や仲小路彰の『砂漠の光』も含まれていた。その後の大正十五年に新光社は円本『万有科学大系』の失敗で破綻整理となり、そこに誠文堂の小川菊松がスポンサーとして介入し、それがきっかけで合併され、昭和十三年に誠文堂新光社となるのである。小川の『出版興亡五十年』(誠文堂新光社)の中で、「企画と編輯に異色の才を有する」とされる仲摩の新光社の全出版目録がないことが悔まれる。それは誠文堂も同様であるのだが。
出版興亡五十年

そうした関東大震災以後の新光社の出版動向の一方で、高楠順次郎は自らの手で『大正新修大蔵経』の出版を決意するに至った。このことに関してはかつて「高楠順次郎の出版事業」(「古本屋散策」47、『日本古書通信』平成18年2月号)を書いているが、この時はまだ『大正新修大蔵経総目録』(非売品、昭和五年)を入手していなかったので、さらに言及してみたい。それから『大蔵経』についてだが、これも本連載105「国民文庫刊行会『国訳大蔵経』」のところで簡略に書いておいたように、『大蔵経』とは単一の経典名ではなく、仏教の経典群の総称を意味している。ここでいう『大正新修大蔵経』とは従来の『大蔵経』と比べて最大のもので、その分類も聖典成立史的順序、部派、学派別に基づき、サンスクリットやパーリ語文献なども参照して、重要な原語に注記を施した全百巻に及ぶ学術的出版とされる。
大正新修大蔵経総目録(『大正新修大蔵経総目録』、大蔵出版)

『大正新修大蔵経総目録』は大正十二年四月の高楠と渡辺海旭名で出された「刊行趣旨」から始まっている。ちなみに渡辺は武田泰淳の叔父に当たる。そこで『大正新修大蔵経』は「即ち八千余巻、一億余万語の一大叢書」とあり、昭和五年四月時までの第六十八巻までの既刊分一覧、さらに二百余ページに及ぶ「総目録」が続いている。これらは専門的知識を要するので、言及できないにしても、それから六七ページにわたって掲載されている二千七百余名を数える「会員名簿」は壮観で、『大正新修大蔵経』をめぐって昭和初期の仏教界、宗教アカデミズム、図書館界、出版社・取次・書店を含んだ出版業界の支援と協賛の配置が浮かび上がってくるようだ。それは流通販売が直販システムだけでなく、取次や書店を含む近代出版流通システムも採用していることをも伝えている。

ちなみに本連載などに関連する個人名も挙げてみれば、岩崎小彌太、大谷光瑞、姉崎正治、徳富猪一郎、野依秀市、柳宗悦、岡本一平、津田左右吉、暁烏敏、泉芳蓂、鈴木貞太郎、花井卓蔵、中里介山などが「会員」となっている。世界文庫刊行会の松宮春一郎、柳田国男や折口信夫の名前が見えないのは残念だが、彼らは大学や書店を通じての「会員」だったとも考えられる。

それらに加えて、フランスのギメ博物館に代表される海外のアジア関係機関や各国の大学も散見できるし、個人でも日仏会館のマスペルとは、フランスの中国学者マスペロであるのかもしれない。このように『大正新修大蔵経』の出版は海外まで波紋を広げていった一大プロジェクトでもあったのだ。巻末に収録された小野玄妙によると思われる「刊行経過要略」はこのプロジェクトを「昭和に於ける最高の文化事業」と述べているが、それを参照し、そこに至る経緯と事情をトレースしてみる。
大正十一年初夏、東京帝大の梵文学教室における高楠の話が発端で、九月に初めて『大正新修大蔵経』出版の相談会が開かれ、ほどなくして新光社が出版を引き受けることになった。そして十二年正月から編集作業も進んでいった。ところがである。

 同年九月一日、関東一帯に大震災あり、帝都内の秩序は全く乱れてしまつた。上野、芝両所の校合所、並びに麹町九段の印刷所孰れも災を免れたので、原稿等は一切無事なるを得たが、発行の事務を担当していた書肆新光社が全焼に遭つたために事業の進行に大打撃をを受け、その結果は新光社が本事業から全然手を引く事になり、経営其の他一切万般の事凡て高楠先生が全責任を負はるゝことになつた。
 十月十日、高楠先生の邸内の一室に仮事務所を設け、世態の騒然たるに関せず、一途に此の聖業を大成せん意地を似つて、一方には事務の整理と進行を計ると同時に、芝並に上野に於ける校勘の事業を継続することになつた。彼の震災直後に蹶前起つてまだ海のものとも山のものともつかぬ此の大業に対して竭された高楠先生の奮闘は今更想ひ起すだに悲壮の極みがあつた。

こうして高楠は大正一切経刊行会を設立し、大正十三年に第一巻が出され、昭和七年に第八十五巻を刊行して一応の完結を見た。その後、大正一切経刊行会は大蔵出版株式会社に改組されるが、さらに図録と十二巻と総目録が追加され、同九年十一月に全百巻となり、最終的な完結に及んだのである。完成までに結集したスタッフは「関係者一覧」として、これも先の「刊行経過要略」の中に記されているが、僧俗合わせて三百名を超え、その中には本連載287や拙著『書店の近代』(平凡社)で取り上げた南天堂の松岡虎王麿の名前があることも指摘しておこう。

書店の近代

鷹谷俊之の『高楠順次郎先生伝』(武蔵野女子学院、復刻大空社)によれば、高楠はこの出版を五十八歳で始めたが、昭和七年には黒々とした頭髪が真白になり、その後も『国訳南伝大蔵経』の出版を続けたので、経済的に悲惨な状況をもたらしたようだ。鷹谷もそれについて書いている。「このため先生は約三十万円の負債を残され、その後、長い間、債鬼に責められ、苦労の多い晩年であった」と。
(大空社)
ここにも悲劇を味わった出版者の一人がいたのである。
なお本稿を書き終えたすぐ後で、『日本及日本人』大正十二年七月一日号に「曠古の大出版時代の大光彩」との大見出しのある「発願 高楠順次郎 渡邉海旭」の『大正新修大蔵経』刊行の一ページ広告を見つけたので、その「刊行趣旨」を転載しておく。


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