出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話512 光融館と南条文雄『梵文阿彌陀経』

本連載505でふれた南条文雄の『懐旧録』の中に、「牛津生活一―梵語研究」と題された一章がある。そこで東洋文庫版のサブタイトルとなっている「サンスクリット事始め」が語られている。南条は明治十一年八月にロンドンに着き、翌年の正月に紹介状をもらい、オックスフォード大学で比較宗教学や言語学を講じていたマックス・ミューラーを訪ね、年来の宿意たる仏教梵語文字研究のことを話した。するとミューラーはオックスフォードでの研究を勧めてくれたので、南条は二月にロンドンからオックスフォードに移り、梵語研究を始めることになった。

懐旧録 (『懐旧録』、東洋文庫版)

それに先立って、つぎのようなエピソードが挿入されている。

 (……)最初私がマ博士に会したときに、先生は切に日本における梵文の原典を尋ねられたので、私は幼時実家(岐阜県大垣の大谷派はの誓運寺―引用者注)の経蔵で見覚えのある、慈雲尊者の弟子の集録した梵文『阿弥陀経義釈』の伝わっていることを話したのであるが、肝心のこの梵本を持ってこなかったので、先生の言によりただちに石川師にこのことを書き送って、郵送してもらうことにした。

そして明治十三年から、ミューラーは前年の十月に日本から届いた『阿弥陀経』と『金剛経』の梵文、及びロンドのアジア学会から借り出した『無量寿経』の梵文写本を南条たちに講読したのである。また南条の協力を得て、それらの梵文の仏典を刊行するに至り、後にその英訳を、高楠順次郎を編纂者とする『東方聖書』第四十九巻として刊行することになる。

南条は明治十七年に帰朝し、ミューラーの購読を再現するかのような『梵文阿彌陀経』を同三十年に刊行するに至る。その末尾に添えられた一文によれば、明治二十六年七月に東京で起草され、二十八年に「脱藁」したとされる。なおこれは菊判和本仕立て、二百三十六ページに及ぶ一冊だが、表紙には角書きで「仏教通俗講義」がタイトルの上に付され、本文の目次部分では『梵文阿彌陀経講義』となっているが、ここでは最初に示したように、『梵文阿彌陀経』を採用する。

南条は「講義」を始めるに当たって、その『阿彌陀経』のテキストの由来をまず語っている。『阿彌陀経』の梵本の日本への伝来の時代は詳らかではないけれども、「支那ニ留学セシ伝教弘法ニ大師等ノ持チ帰リシモノナルベシ」と見なし、かつてこの梵文が出版されたのは四回に及んでいるとし、それらの特質などを挙げていく。だがテキストとされるのはそれらのどれでもなく、「四種ノ校本ニ依テ訂正出版セシ梵本」であり、その説明が続いている。

 サテ其訂正出版セシ梵本トハ、明治十六年五月英国牛津(オクスフオルド)府格老廉敦(クラレンドン)印書局ニ於テ活版ヲ以テ発行セシ本ヲ云フナリ、(……)牛津ニ留学セシ時ニ石川舜台氏ヨリ梵漢阿彌陀経ノ寄贈ヲ得タリシヨリ、前ニ挙ゲタル他ノ三本ヲモ得テ之ヲ校訂シ、(……)吾ガ師馬格斯摩勒(マクスミユーラル)梵学博士ハ先ヅ日本ヨリ寄贈ノ小経即チ阿彌陀経ノ梵本ヲ校正シテ英訳ヲ加ヘ、其始末ソ陳述シテ、之ヲ倫敦ノ亜細亜学会雑誌ニ掲載セラレタリ、(……)其後此梵本ヲ講読セシコト四五度ニ下ダラズ、文句細釋ノ草本アリト雖モ、唯十一ヲ千百ニ存スル備忘ノ記ニ過ギズ、今之ヲ演繹シテ、此ノ講義ヲ試ミントス、(……)今ハ唯此梵本ニ出ル各語ノ成リ立チヲ解釈シテ、梵語ノ性質ヲ読者ニ示シ、併セテ従前用ヰ来レル所ノ支那訳ノ経費ヲ明ノナラシメント欲スルナリ、

かくして梵本のサンスクリットの原文が示され、それに対して「直訳」「秦訳」「唐訳」「分析」「和訳」「達意」と続き、そのような方法によって、『梵文阿彌陀経』の全文が読み解かれていくことになる。私にはその方面の素養が欠けているので、これ以上の言を加えることはできないが、角書きで付された「佛教通俗講義」と呼べるものではなく、学術的テキストクリティックの一冊ということになるだろう。

この『梵文阿彌陀経』を刊行した版元は光融館で、奥付の発行兼編集人は田原豊吉となっている。巻末の二ページに及ぶ「光融館出版目録」を見ると、明らかに仏教書を専門とする書肆で、「仏教通俗講義科別書」だけでも、島地黙雷『維摩経』、織田得能『八宗綱要』、前田慧雲『天台西谷名目』などの十五冊が並び、その他には千二百ページの『碧巌録講義』、『一休和尚全集』や』、『白隠和尚全集』も掲載されている。これらは高楠順次郎たちが試みた仏教書ルネサンスとは別のかたちで動き出していた、新たな仏教運動の気風をうかがわせてくれるように思う。

だがひとつ気になるのは、このような仏教書専門版元としての流通販売網の貧弱さである。発売所(特約書店)と大売捌所(取次)として、全国で二十一店しか挙がっておらず、明治三十年代に入ったばかりだとはいえ、少ないという印象は否めない。その中に前にふれた興教署員が含まれているのはともかく、後に金尾文淵堂を創業する金尾種次郎の名前が見えることも象徴的であり、大正時代に入ると、光融館から田原豊吉の名前は消え、平本正次という経営者に代わっているのだが、近代出版史において、この時代の奥付以外に、田原豊吉の名前にまだ出会っていない。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら