前回、タイの農村と小学校を舞台とする『田舎の教師』にふれたが、タイは他の東南アジア諸国と異なり、外国の植民地になったことがない。それゆえに近代の波にさらされていても、その教育システムはタイ社会の在り方と密接に結びついているのだろう。しかしもし植民地化や占領を経ていたら、タイの小学校と教育システムも大きく変貌していたはずだ。そのことを考える意味で、今回は続けて戦後の日本の教育状況に言及してみたい。それは私がオキュパイド・ジャパン・ベイビーズ、つまり占領下に生れた子供たちの一人であるからだ。このジェネレーションは二千万人に及ぶ。
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敗戦に続く、GHQ(連合国最高司令官総司令部)による一九四五年から五二年にかけての七年間にわたる占領は、日本の政治、経済、文化、生活などに大きな影響を及ぼし、それは教育システムも例外ではない。その占領は現在に至るまで日本社会を呪縛し、それがもたらす光と闇は至るところに痕跡を残している。かつて「CIE図書館」(『図書館逍遥』所収)という一文を書き、GHQ民間情報教育局が全国各地に開設したCIE(Civil Information and Education Section) 図書館を取り上げたことがあるが、これもGHQによる教育改革の一環としてで、日本の戦後の公共図書館、学校図書館史もそれと深く関係しているといっていい。
GHQは占領下の日本の教育改革を推進するために、アメリカ本国に専門家による教育使節団の派遣を要請した。それに応じて、一九四六年三月にイリノイ大学名誉総長でニューヨーク州教育長官のジョージ・D・ストッダードを団長とする教育使節団が来日することになった。その二十七名からなる使節団は大学教授や教育行政官を中心とするもので、「日本における民主主義教育」「日本における再教育の心理的側面」「日本教育制度の行政的再編成」「日本復興における高等教育」の四分野に関しての報告と勧告を目的としていた。
それに対して、日本側は「日本教育家の委員会」を設け、使節団の調査や活動などに協力態勢を組んだ。それらの二十九名の主たるメンバーは使節団同様に、大学学長や教授だった。アメリカ教育使節団はCIEや「同委員会」と会合と持ち、会議、参観、会見、調査、研究などを重ね、課題の達成に従事した。使節団の調査活動期間は正味二十五日間ほどだったが、CIEの大いなる協力もあり、三月三十一日にマッカーサーに報告書として提出され、GHQはこれに「民主主義的伝統における理想の文書」という声明を付し、公表したのである。
これが『教育使節団報告書』で、同時期にいくつかの邦訳書が出たとされるが、現在確認できるのは三種類の邦訳である。それらは伊ヶ勢暁生、吉原公一郎編、解説『米国教育使節団報告書』(「戦後教育の原点」2、現代史出版会、一九七五年)、「米国教育使節団報告書」(『教育学大事典』第6巻所収、第一法規、七八年』、村井実全訳解説『アメリカ教育使節団報告書』(講談社学術文庫、七九年)だが、ここでは現在でも入手可能な学術文庫版をテキストとする。
使節団はその「序論」において、「われわれは征服者の精神をもって来たのではなく」、「経験ある教育者として来た」し、「最大の希望は子供たち」だとまず宣言し、次のように述べている。
われわれは、いかなる民族、いかなる国民も、自身の文化的資源を用いて自分自身あるいは全世界に役立つ何かを創造する力を有していると信じている。それこそが自由主義の信条である。われわれは画一性を好まない。教育者としては、個人差・独創性・自発性に常に心を配っている。それが民主主義の精神なのである。われわれは、われわれの制度をただ表面的に模倣されても喜びはしない。われわれは、進歩と社会の進化を信じ、全世界をおおう文化の多様性を、希望と生新な力の源として歓迎するのである。
そして新しい教育の方向は授業と学習に自由をもたらし、その男女の別なき機会の均等は開かれた教育の新たな構造を創出するであろう。そうなれば、すべての学生と教師は「何をすべきか、何を考えるべきか、またどうあるべきか」を自分自身で見出すようになるだろう。そのように考えてみると、「学校」は「非文明主義、封建主義、軍国主義」に抗するもので、「まさに国家的事業の一端」を担い、「その事業の成功の鍵」を振っているとされる。
続いて本論は六つの項目に及んでいくので、それらの章タイトルを示し、内容を要約してみる。
1 「日本の教育の目的および内容」 * 今や自由主義的・民衆主義的政治形態となったわけだから、日本の教育におけるカリキュラム、教科課程、教授法、及び教科書も建て直さなければならない。 * これまでの日本の教育制度は一般大衆と一部の特権階級とに別々の型の教育を用意する高度に中央集権化された十九世紀パターンで、習得すべき一定量の知識を定め、生徒の能力などを無視し、また教師の職業的自由を発揮する機会を奪っていた。 * そのために個人の知性は忠誠心や愛国心と引き換えになり、教師も生徒も画一化し、群集心理に陥りやすくなっていて、日本の教育制度は生徒を現実社会に適するように育てることに失敗した。 * こうした状況をふまえたうえで、新しい教育目的、カリキュラム、教科課程、教授法、教科書等の問題が考察されなければならない。かつての本質的特徴は権威主義だったが、新たな出発点は個人にあり、それはあらゆる社会階層に支持されている。 * 民主主義の生活に適応した教育制度は個人の価値と尊厳に関する認識を基本とし、各人の能力と適正に応じ、教育の機会が与えられるように組織されるし、民主主義における教育の成功は画一性や標準化によって測ることはできない。 * 教育は個人を釈迦の責任ある協力的な一員となるように準備しなければならないし、「個人」という言葉は少年と少女、男性と女性に平等に当てはまるものである。 * 中央政府当局は教育内容、教授方法、教科書を規制すべきではなく、要綱や教授手引きの出版に限定するべきだし、教師は様々な環境にある生徒たちの必要や能力、将来の希望に応じて、教授内容や方法を自由に採択すべきだ。 * 教育や研究の自由は日本の国民文化のためにも奨励されなければならないし、それは試験第一主義という目的を改めることを意味しているし、新しい型の試験制度を考えてみる余地がある。
1の前半から抽出したのだが、2以下も本文から要約していくと長いものになってしまうので、巻末の「報告書の摘要」から、主たる部分を引いておく。
2 「国語改革」 * 国語改革とローマ字使用の提案。 3 「初等学校および中等学校における教育行政」 * 学校管理の地方分権化、それによる文部省の地方学校の直接的支配から専門的助言と技術的援助への移行。 * 義務教育は男女共学、授業料無料、通学期間は九年間。 4 「授業および教員教育」 *新しい教授法自主的な思考・人格の発展、民主主義的市民精神と権利を奨励するものに変えるべきだ。 *師範学校は予科を廃止し、再組織し、四年制とすべきだ。 5 「成人教育」 * 日本の現在の危機的な状況において、成人教育は最も重要性があり、学校におけるPTA活動、成人のための夜間クラスや公開講座、地域社会活動のための校舎の開放は成人教育に役立つ。 * 成人教育にとってももうひとつ重要な施設は公立図書館で、大都市には公立の中央図書館と分館の設置、すべての都道府県での図書館業務の適切な措置を勧める。 6 「高等教育」 * 高等教育は自由思想、大胆な研究、国民の希望を担う活動の場となるために、少数者の特権であってはならず、多数者に開かれるべきであり、大学は増設すべきだ。
これらは『アメリカ教育使節団報告書』からのわずかな抽出であるけれど、この『報告書』がレントゲンを当てたかのようにして、戦前の日本の教育制度の本質を透視し、把握した上で、それに代わる新しい制度を鮮やかなまでに提案していることが了承されるだろう。ただローマ字教育は占領下のアルファベット表記に関してのご都合主義であるにしても。しかもそれはまだ占領から七ヵ月しか経っていなかったことを考えると、アメリカの日本社会分析と新しいビジョンの提案は、日本側へと強烈なインパクトを与えたにちがいない。しかしここに謳われた画一性や標準化の否定はアメリカの現実ではなく、アメリカ消費社会の機能はそれらに向けて全力で稼働していたことを記しておこう。
それはともかく、教育も含んだ日本の文化政策の敗北をも告知していたことになる。そのことを証明するように、『報告書』の提出を受けて、日本の教育改革が始まっていく。それらの主な動向を『教育大事典』第5巻所収の「教育年表」から追ってみる。
1946・3/アメリカ教育使節団来日、『報告書』提出。 8/教育刷新委員会設置。 10/ 6・3制原案決定。 11/「日本国憲法」公布、現代かなづかい、当用漢字表(常用漢字1,850字に制限)。 1947・1/学校給食開始、「ローマ字教育実施要綱」発表。 2/文部省、新学制実施の方針発表。 3/「学習指導要領一般編(試論)」発表。「教育基本法」「学校教育方」公布。 4/6・3制発足(9年の義務教育となる)。この年の新制中学生徒数430万人。 5/「学校教育方施行規則」制定。 6/日本教職員組合(日教組)結成。 10/帝国大学の名称を廃止。 11/視学制度を廃止し、指導主事をおく。 1948・2/「国立国会図書館法」公布。 4/新制高等学校発足。新制中学は1万6千校となる。 6/PTA第1回全国評議会開催。 7/「教育委員会」公布。 1949・9/「教育公務員特例法」公布。育英事業振興作決定。 2/大学設置委員会新生大学79校決定答申。 3/「国立学校設置法」公布(国立新制大学69校設置)。 7/CIE顧問イールズ、共産主義教授の排除勧告。 1950・3/短期大学113校認可、(4月に36校追加)。この年新制大学201校、学生数22万人、その3分の1が女子学生。 4/「図書館法」公置。 8/第2次アメリカ教育使節団来日。 1951・3/この年の入学児童に国語・算数教科書無給与。 5/「児童憲章」制定。 6/東京都、夜間中学校を認める。 7/アメリカ対日工業教育顧問団来日。 11/日教組、第1回全国教育研究大会(日光)開催。
このように『アメリカ教育使節団報告書』から始まる日本の教育制度改革によって、私たちは6・3制に組みこまれ、小学校でパンと脱脂粉乳の給食を食べ、学校図書室で本を読み、そして中学校で西洋音楽を聴き、フォークダンスをやらされ、親たちはPTAを経験した事情を知ることになるのである。
占領下におけるGHQの農地改革や財閥解体は必ず大文字の印象で言及されているが、教育改革については全面的に語られてこなかった。だがこうして『報告書』を読み、それに続いて起きた教育をめぐる出来事をたどってみると、あらためて私たちがまさに学校教育の場において、オキュパイド・ジャパン・ベイビーズだったとわかる。
それゆえに訳者の村井実も述べている。
日本人のための、そして日本の再建のための教育の指針が、アメリカ人によってなされたのである。しかも、日本人は、いかにも唯々として、あたかも自分自身の発想でもあったかのように、熱心にその指針にしたがって教育の再建に励んだのである。この意味で、この報告書は、日本の教育史の上できわめて重要な文書であるだけでなく、世界史の上での壮大な政治的ならびに教育実験ともいうべき事件を象徴する興味深い文書といわなければならないのである。
こうした指摘を読むと、それは占領下に起きた事柄だけでなく、一九九〇年に出された「日米構造協議」におけるアメリカ案を想起してしまう。この内容は『ドキュメント構造協議 日米の衝突』(NHK)などに詳しいが、この土地に関するアメリカの要請は第二の農地改革ともいえるものであり、これによって日本の大店法は改正され、実質的に大型店の出店がフリーとなったのである。それに引き続いて、九八年から出され始めた「日本における規制撤廃、競争政策、透明性及びその他の政治慣行に関する日本政府への米国政府要望書」(以下「年次要望書」)は、実質的に巨大なショッピングセンターの出店へとつながっていくものだった。これが大店法の廃止に結びつき、大規模小売店舗立地法が施行となり、日本の商店街を壊滅させることになった。
『アメリカ教育使節団報告書』が日本の教育システムをドラスチックに変貌させたように、「日米構造協議」や「年次要望書」もまた一九九〇年以後の日本社会を大転換させてしまったといえるであろう。吉本隆明が『情況へ』(宝島社、九四年)の中で、日米構造協議のアメリカ案に対し、屈辱感を覚えたと述べ、次のように書いていた。
構造協議米国案によって日本の社会経済は正確に解剖しつくされ、完膚なきまでに頭脳的な従属を強いられたといっていい。武力による敗戦もみじめだといえばみじめだが、平和な時期の社会経済的な頭脳の敗北は眼に視えないだけに、もっとみじめだといえる。
このようにして、一九九〇年代に第二の敗戦がもたらされたのである。その日本のアメリカに対する「頭脳的な従属」もまた『アメリカ教育使節団報告書』のひとつの帰結だったといえるのではないだろうか。