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古本夜話517 今岡十一郎『ツラン民族圏』と『ハンガリー語辞典(洪和)』

本連載514515で、続けてマックス・ミュラーのアーリア人、セム人、トラニアン人の言語と民族分類、及び宗教の関係を既述しておいたが、日本人もまたそこに世界を代表する民族を見て、それらに日本人の出自、もしくは日本を重ねるという試行錯誤を繰り返す時代を迎えていく。そしてそれは大東亜戦争下の「大東亜神話」へと収斂していったように思われる。

例えば、本連載でも日ユ同祖論などのアーリア人やセム人に同化するいくつもの倒錯的言説を取り上げてきたが、今回はトラニアン人へ同化の例を見てみたい。それは最近浜松の時代舎で、今岡十一郎の『ツラン民族圏』という一冊を入手したからである。この「ツラン」、ハンガリー語のTuranこそはトルキスタン大平原やウラル・アルタイ民族を意味し、まさにトラニアンと同義語にして、戦前の名称に他ならない。今岡の名前は彼の編著『ハンガリー語辞典(洪和)』(日洪文化協会、一九七三年)を所持していることから、よく覚えていたし、同書に付された日本で最初のハンガリー辞典の出版経緯、及びその経歴にも目を通していた。
ハンガリー語辞典(大学書林版)

それらを要約すると、今岡は明治二十一年松江に生まれ、大正三年東京外語学校ドイツ語科卒業後、ハンガリーの民族学者バラートシ・バログ・ベネデク教授がアイヌ研究のために来日し、そのドイツ語通訳を務め、一方でドイツ留学をめざし、研究を続けていた。ところが同十年にバラートシが再度来日し、今度は「ツラン運動」をやりたいとのことで、協力を頼まれ、彼の通訳や翻訳の仕事に携わった。そして十一年に渡欧したが、第一次大戦敗戦後のドイツの経済的混乱と退廃を目の当たりにして茫然自失となり、バラートシの勧めで、とりあえずハンガリーに行くことになった。そうしてハンガリー語を学んでいくうちに、ハンガリー人の日本に対する関心が並々ならないことを知り、ハンガリー語で日本に関することを新聞や雑誌に発表し、ブタペスト大学で学び、ブタペスト国際見本市に日本部を創設する。そして昭和六年に帰国し、外務省嘱託、日洪文化連絡協議会や日洪文化協会の委員や理事に就任し、十七年から先の辞典の編纂に着手し、完成までに三十年を要したことになる。

ここで「ツラン運動」という言葉が出てくるが、これは『ハンガリー語辞典(洪和)』によれば、Turanizmusのことで、「文化的学術的にツラン語民族の相互理解と自覚的団結を促進すること目的とする社会運動」をさしている。それに対する日本との関係、日本が果たすべき役割を提出しているのが、今岡の『ツラン民族圏』であり、その外箱には次のようなコピーがしたためられている。

 ツラン民族とは亜細亜及び欧羅巴の各地に分布する東亜諸民族の総称である。ツラン民族は、今や血による宿命を自覚して言った意図ならねばならぬ。東亜共栄圏の確立もツラン民族圏の統一によって初めて完全なものとなる。然らばツラン民族とは何か。本書は東亜共栄圏問題への民族学的解決の書だ。

そしてハンガリー人を始めとする、八ページに及ぶ様々なツラン民族の口絵写真が示され、今岡の「自序」が続き、いきなり九世紀頃北方ロシアから中央かけて「われわれと同じ血を分つツラン系諸民族」が蟠踞していたという言葉に出会う。しかしその多くが姿を没し、わずかに生き残るツラン系民族はスラブ民族の中で孤島のように点在している。そのアルタイ山脈、ウラル山脈、ツラン平原、エニセイ河、レナ河なども含んだ「ツラン民族の分布図」が示され、そこには極東の「大日本」までが加えられる。

ツラン民族文明の最初の中心地はメソポタミアのスメル帝国であり、ツランとはスメル語で「天子・天の保持者・天の帯」を意味している。スメル人は五千年前に移動を開始し、アジアを経て太平洋沿岸まで進出し、先住民と融合し、極東文化と帝国の基礎を築くに至ったとされるからだ。本連載121の「高楠順次郎『知識民族としてのスメル族』、スメラ学塾、仲小路彰『肇国』」の言説とリンクしていることがわかる。今岡も次のように書いている。

 現下わが基本たる防共と新秩序理念を、ヨーロッパ的自由平等主義思想にもとづく東亜連盟理念に依拠せしむるよりは、むしろ、家族主義的生命観に立脚した道義のうへに東亜諸民族の共栄圏を確立し、ツラン・亜細亜的大家族体をつくり、もつてツラン・亜細亜の道義的文化圏を建設することこそ、八紘舃宇の肇国の聖なる理念に副ふ所存である。

これは「皇道文化」の国際的進出、東洋と西洋の永続的連携であり、この意味において、ツラン運動は政治経済を超越する文化、精神、思想運動、いわば「民族ロマンチシズムの運動」ともなる。またそこには宣言のような一文も置かれている。「しかし、これを合理化し、組織化し、現実化するのは、一にツラン・アジアの精神的指導者たる日本の実力と、その綜合的文化力の如何にかゝている。皇国の使命たるや。寔に、重かつ大なりといふべきである」と。

そしてツラン民族は人類学者のいう蒙古人種、言語学者のいうウラル・アルタイ語族、歴史学者のいう北方アジア民族を意味し、日本民族ともつながっている。ツラン神話によれば、地球を創造した太陽の神の御子が地上の乙女と会し、夫婦となり、その子孫が太陽の血統者なる黄金の色の民族、つまり黄色人種である。この黄色民族の幸福な生活を見た月の子がやはり地球に降り、同じように地上の乙女と結婚し、その子孫が月の血縁者である銀色の民族、すなわち白色人種となった。それゆえにツラン民族はアーリア人やセム人よりも先駆けて存在し、世界最古の文明を生み出している。

これらを前提として、今岡はツングース民族、蒙古民族、トルコ民族、サモエード民族、ヨーロッパにおけるハンガリー人などのツラン民族を紹介していく。そして『ツラン民族圏』もまた紛れもない「大東亜神話」の一角を占める言説であったことを、あらためて認識することになる。
また版元の龍吟社は本連載149などで、その出版社としての軌跡をたどってきた草村北星が最後に設立した出版社である。『ツラン民族圏』は昭和十七年刊行の「大民族圏叢書」の一冊として、龍吟社の戦時下の出版活動の一端を教示してくれたといえよう。


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