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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

混住社会論124 スティーヴン・グリーンリーフ『探偵の帰郷』(早川書房、一九八五年)とリチャード・ピアス『カントリー』(ポニー、一九八四年)

探偵の帰郷 (パンフレット)


本連載122で一九八〇年前後のタイの農村を見たように、様々な時代における日本やフランスやアメリカの農村の風景にふれてきた。そして日本の農村が八〇年代になって、ロードサイドビジネスの林立する郊外消費社会へと変貌してしまったこと、また日本の八〇年代の産業構造がアメリカの五〇年代とまったく重なり合うものであることにも言及してきた。

それならば、八〇年代のアメリカの農村はどのような状況の中にあったのか。そのことを物語の背景にする小説が八三年に出され、日本においては八五年に翻訳刊行された。しかもそれはハードボイルド小説で、スティーヴン・グリーンリーフの『探偵の帰郷』(佐々田雅子訳、早川書房)というポケ・ミスの一冊としてだった。この原題はFatal Obsession で、内容から意訳すれば、『家族という宿命』といった邦題タイトルになるであろう。ところが原題とは異なる『探偵の帰郷』が選ばれたのは、ハードボイルド小説でさえも農村というトポスと無縁でないこと、それがアメリカの故郷と家族の物語につながっていくことを邦訳タイトルにこめようとしたからだと思われる。この作品はサンフランシスコの私立探偵ジョン・タナーシリーズの第四作目に当たり、そのタナーが三十年ぶりに中西部アイオワ州のカルディアに帰郷するところから物語が始まっていく。

Fatal Obsession

カルディアというタナーの故郷のスモールタウンの周辺は農村で、実際にタナーは一族の有する広大な農地の処分をめぐる問題のために帰郷することになったのである。その人口六千余人のカルディアは、グリーンリーフが育った同州のセンターヴィルをモデルとしているはずで、この『探偵の帰郷』に至って、初めてハードボイルド小説のトポスとして農村が登場することになった。そしてグリーンリーフの試みが思いつきでないことは、第十三作目の『憎悪の果実』(黒原敏行訳、早川書房)がやはりカリフォルニアの農村とストロベリー農場を舞台とし、アメリアの農業の変容をテーマとしていることにも明らかだ。
憎悪の果実

またさらに付け加えれば、「訳者あとがき」によると、当初グリーンリーフはこの作品の仮タイトルとして、Family Treeを考えていたようだ。これはいうまでもなく、本連載でもしばしば言及してきたゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」のArbre Généalogique、すなわち「家系樹」に相当することからすれば、『探偵の帰郷』本連載118 のゾラの『大地』のアメリカハードボイルドバージョンと呼んでみたい誘惑に駆られてしまう。『大地』もまた土地の相続をめぐる問題がひとつのテーマだったし、それも共通しているのである。本ブログで私はゾラからハードボイルドへという試論を書いているが、グリーンリーフのこの作品はその実証ということにもなるのだ。それらをベースにして、『探偵の帰郷』はベトナム戦争後のアメリカ社会、八〇年代の農村状況、難民の実態をも浮かび上がらせる作品として提出されている。
大地

まず『探偵の帰郷』の冒頭の一節を引くと、「飛行機は、とてつもなく大きな布団のように広がる耕地を超えて舞い下りていった」とあり、これはタナーがサンフランシスコ発オマハ経由のユナイテッド航空の飛行機で帰郷してきた最初のシーンに他ならない。そして「大きな布団のように広がる耕地」とは、アイオワ州の土地の90%以上が農地であり、この州がアメリカ中西部の農業州だということを示唆しているのだろう。ちなみにアメリカ全体におけるA級農地の25%がアイオワにあり、トウモロコシや大豆の生産は九〇年代まで全米一位を占めていた。それらの事実からアイオワは必然的に農業、もしくは農村を連想するのが一般的なので、冒頭のシーンからして、タナーの帰郷先が農村であり、それを伝えていることになる。

飛行機のターミナルで、「私」=タナーを待っていたのは妹のゲイルだった。タナーは妹の車に乗り、故郷に向かう途中で、大豆とトウモロコシの畑の風景を目にし、今は十月だが、七月にはトウモロコシの生長する音が聞こえることを思い出していた。タナーは妹の要請で、四人の兄妹が相続した農場の処分問題に結論を下すために帰ってきたのである。しかもその農場は早く亡くなった両親から相続したものではなく、子どもがいなかった伯父から受け継いだもので、その三百二十エーカーに及ぶ農地はそのまま小作に出されていた。ちなみに三百二十エーカーは百三十ヘクタールに及び、日本と比べれば、広大な耕地面積だが、自作農としてやっていくためには二百エーカーでは難しく、三百エーカーが必要とされるようだ。『新訂増補 アメリカを知る事典』(平凡社)によれば、一九八〇年の平均農地面積は三百九十エーカーで、農業就業人口は2.5%だが、広義の農業所得はGNPの20%以上を占め、それはアメリカが生産量や輸出量において世界最大の農業国であることを示している
新訂増補 アメリカを知る事典

ただ一族の得る小作料は諸々の施設の修繕に費やされ、最終的にはわずかな金額が残るだけだった。だが売ることになれば、まとまった金額になるはずで、兄のマットとカートは売ることに賛成だが、ゲイルは反対の立場をとり、伯父の遺産は現状の変更に関して三票が必要だったから、農場の行方はタナーの意向次第という状況にあった。

ゲイルとは三年前にサンフランシスコで会っていたが、兄たちとはずっと顔も合わせてなかった。情熱家のゲイルは、一族の絆のあかしとしての農場を守ろうとしていたけれど、兄のマットは私生活と仕事の資金調達のために、イアーとはベトナム戦争帰りの息子のビリーのことで人生に見切りをつけたようで、売りに出したがっていた。一族の土地利用をめぐって、環境保護グループ、石炭や石油会社、アグリビジネス、工業団地の造成をもくろむ市などが名乗りを上げていた。その一方で、カルディアは人が生まれたら、死んだりする以外はほとんど何も起こらないし、変わっていないとされていたが、明らかに農家の数は減っていた。それは多くの零細な農民が生存競争に敗れ、借金のかたに家と土地を残し、出ていったからだ。

それもあってか、町の広場の商店もチェーン店だらけになっていた。「かつては、広場の界隈の店の人はすべて顔見知りだった。だが、今は知らない顔ばかり」で、しかも人出は減り、さびれていて、このカルディアには好況というものが一度もやってこなかったようだ。一九五〇年代の農業の衰退と炭鉱の閉山、それらに代わる六つの工場誘致、束の間の安定と七〇年代における工場の閉鎖、そして郊外ショッピングセンターが開店し、広場の商店街もさびれてしまっていたのだ。その他にも変化が起きていて、東洋系の人種との混交もそのひとつだった。偶然出会った級友は、町についていう。「悪くなる一方だ。まわりを見てみろ。広場の店は半分が空き家だ。町で人が集まってるのは失業対策事務所だけさ。しかも、仕事の半分は黒んぼや、ここに流れ込んできたボートピープルのやつらが取っちまう。くそっ、このおれからが失業中の身なんだから」と。彼は工場に関わり、その後ファーストフードチェーン店をやっていたが、つぶれてしまったようなのだ。

タナーは車で町を流してみることにした。

 さほど行かないうちに、また少年の頃の、何ともいえぬ開放された気分が蘇ってきた。日曜の午後、車、それに自分の世界の果てまで行って帰ってこれるだけのガソリンと三拍子揃ったときの気分が。(……)
 私の青春を象徴する高校。プールのある市立公園、図書館、貯水池、ゴルフコース、そして私が育った家といったものは、すべて変わらなかった。ただし、一点を除いて、つまり、すべてが記憶しているよりも小さかったのだ。私は思いがけなく小人国リリパットへ迷いこんでしまった巨人ガリヴァーのような気分になった。
 私はドライブを続けた。思い出という棘のある茂みが容赦なく絡みついてきた。あるものは深く突き刺さり、あるものは刺さったかと思うと抜けおち、あるものは血を噴き出させた。

そうした思いはタナー家兄妹四人のひさかたぶりの一族再会にも同じように表出し、しかも土地の処分をめぐる意見の対立の只中で、ビリーの死の知らせが届く。公園で首を吊っているのが見つかったのだ。彼はカートの息子で、タナーが十年以上も前に写真で見たビリーは十代の終わりのようで、若さが弾けて溢れていたが、死体にその面影はまったくなく、すさまじい苦行の末にやつれ果ててしまったようだった。ビリーはベトナム戦争帰りで、一族の農地の外れの一角に小屋を建てて住み、ヒッピーたちとつき合い、町の鼻つまみ者になっていたようだ。タナーの問いに、父のカールは「戦争だ。あの忌まわしい戦争だよ。ビリーは戦争で死んだんだ」と答える。それは「ある人間にとっては、まだ戦争が終わっていない」ことを物語っている。だがベトナム戦争でビリーの身に何が起きたのかは定かではなく、カールはいう。「歯車がみんな狂っちまったんだ」。そして町でも悪い時代になるとはびこるようなことがすべて起きているようなのだ。

ビリーは自殺と見なされるが、タナーは納得できず、まさに故郷においても探偵となって、その足跡をたどっていく。そしてビリーがベトナム戦争で対ゲリラ戦の「殺し屋」で、その後戦争の構造を知り、反戦主義者になったこと、アメリカに帰還後、枯れ葉剤エージェント・オレンジの後遺症による病気で苦しんでいたが、愛人のヒッピー娘が妊娠し、生まれてくる子どもに名前をつけていたことから、自殺する理由は見出せなかった。しかしその代わりに、タナーはビリーの農場の谷間での大麻栽培と密売ルート、ビリーをベトナム戦争へと送りだした徴兵委員会、ビリーの戦争での犯罪、それらだけでなく、タナーの両親の秘密に至るまでが浮かび上がってくる。それらのすべてが「ある人間にとっては、まだ戦争が終わっていないこと」を告げていた。そしてビリーの死も同様で、殺人者にとっても「まだ戦争が終わっていないこと」によって、死へと追いやられたのである。ビリーの葬儀の場で、牧師が読んだ『聖書』の「詩篇」の言葉とともに、タナーはその真相を黙して語らないことにし、『探偵の帰郷』は閉じられている。

このようにハードボイルド小説としての事件の解明は果されているのだが、八〇年代の農村を直撃した不況についてはその正確な輪郭がつかめていない。そこで耕地面積のことを先述したように、登場人物の発言をたどり、もう少しそれを追跡してみたい。タナー一族の農地を借り、穀物栽培に携わっている農場主の言から推測すれば、ワシントン穀物市場がアルゼンチンやカナダに発注するようになり、国内のトウモロコシや大豆相場が暴落したことで、零細農家は破産に追いやられ、家と土地を差し押さえられ、カルディアから出ていく羽目に陥ったのである。ただ零細農家といっても百エーカーから二百エーカーの耕作面積を有していたと考えられる。

また低所得者に支給される食料クーポンの廃止も語られているので、これらも含めて、農村不況は八〇年代初頭のレーガン大統領就任による「レーガノミックス」の発動やGAT(関税と貿易に関する一般協定)とも関連しているのだろう。それらはルーズベルト以外のニューディール政策をくつがえすものであった。なぜならば、アメリカの農業調整法を始めとする農業保護政策はニューディール政策に始まっているからだ。またそれにアグリビジネスという超大規模農業法人の台頭も大きな影を落とし、そうした農業をめぐる社会状況のすべてがカルディアのようなスモールタウンにも押し寄せ、『探偵の帰郷』の背景になったと思われる。

そうした状況を補足説明する映画がやはり同時代に制作されているので、この映画も紹介しておきたい。それはジェシカ・ラング、サム・シェパード主演、リチャード・ピアス監督の『カントリー』である。まず広大な農地とその中で行われている大型機械による農業は近代化の行き着いた、工業化した農場のような印象で迫ってくる。同じ自然の中での農業であるにしても、日本のそれとはスケールもまったく異なり、アメリカの農業の実態をあらためて教えてくれる。

『カントリー』は八〇年代の農業不況を正面から捉え、それは自らプロデューサーも務めたジェシカ・ラングの少女時代の中西部農村地帯の体験が反映されているという。三代にわたって農業を営んできたラングとシェパードの夫婦は不作と穀物相場の下落によって窮地に追いやられていた。それは機械や肥料費が穀物価格を上回ってしまい、作っても作っても赤字になる状況ゆえだった。そのことでFHAが出てくる。これは『リーダーズ・プラス』によれば、農務省農民住宅局(Farmers Home Administration)をさし、『カントリー』を見た限りでは、農家を対象とした金融機関のようなのだ。このFHAは農家に対して融資を二十年返済の長期で行なってきたが、八〇年代の農業経営の赤字状況を見て、早期回収を図り始める。当然のことながら、大半の農家はそれに応じられず、家やの家も差し押さえられ、競売にかけられたりする状況を迎えていた。その中で夫のシェパードは何ら手立てを構ずることができず、酒に溺れ、子どもにも暴力をふるったりするようになる。それに反して、妻のジェシカは何代にもわたる農婦、娘、妻として立ち上がり、競売阻止へと向かっていく。ここに八〇年代初頭にアメリカの農村を襲った不況のメカニズムの一端が描かれ、それが画面を通じてコンクリートに伝わってくる。農業と土地と穀物、それらに反目する国家と金融システムをめぐる闘争がこの『カントリー』の主題なのだ。

だが『探偵の帰郷』にしても『カントリー』にしても、それらはもはや三十年以上も前のことに属するし、日本も含んだTPPが発動されようとしている。現在のアメリカ農業状況はどうなっているのだろうか。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」123  『アメリカ教育使節団報告書』(一九四六年、講談社学術文庫、一九七九年)
「混住社会論」122  カムマーン・コンカイ『田舎の教師』(勁草書房、一九八〇年)
「混住社会論」121  谷恒生『バンコク楽宮ホテル』(講談社、一九八一年)
「混住社会論」120  矢作俊彦『THE WRONG GOODBY ロング・グッドバイ』(角川書店、二〇〇四年)
「混住社会論」119  スタインベック『怒りの葡萄』(原書、一九三九年、第一書房、一九四〇年)とピエトラ・リボリ『あなたのTシャツはどこから来たのか?』(東洋経済新報社、二〇〇七年)
「混住社会論」118  ゾラ『大地』(原書、一八八七年、論創社、二〇〇五年)と長塚節『土』(春陽堂、一九一二年)
「混住社会論」117  渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房、一九九八年)と久米邦武編『特命全権大使 米欧国回覧実記』(新橋堂、一八七八年)
「混住社会論」116  ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』(原書、一八八三年、論創社、二〇〇二年)
「混住社会論」115  M・M・ジンマーマン『スーパーマーケット』(経済界、一九六二年)
「混住社会論」114  『大和ハウス工業の40年』(同編集委員会、一九九五年)
「混住社会論」113  安土敏『小説スーパーマーケット』(日本経済新聞社、一九八一年)とテーラー『科学的管理法』(産業能率短期大学出版部、一九六九年)
「混住社会論」112  藤田 田『ユダヤの商法』(KKベストセラーズ、一九七二年)と『日本マクドナルド20年のあゆみ』(同社、一九九一年)
「混住社会論」111  ジョージ・リッツア 『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部、一九九九年)
「混住社会論」110  藤原伊織『名残り火』(文藝春秋、二〇〇七年)
「混住社会論」109  ピエール・ブルデュー『住宅市場の社会経済学』(藤原書店、二〇〇六年)と矢崎葉子『それでも家を買いました』(大田出版、一九九〇年)
「混住社会論」108  庄野潤三『夕べの雲』(講談社、一九六五年)
「混住社会論」107  宮部みゆき『理由』(朝日新聞社、一九九八年)
「混住社会論」106  黄 春明『さよなら・再見』(めこん、一九七九年)
「混住社会論」105  日影丈吉『内部の真実』(講談社、一九五九年)
「混住社会論」104  ウェイ・ダーション『セデック・バレ』(マクザム+太秦、二〇一一年)
「混住社会論」103  松本健一『エンジェル・ヘアー』(文藝春秋、一九八九年)
「混住社会論」102  村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」101  赤坂真理『ヴァイブレータ』(講談社、一九九九年)
「混住社会論」100  中上健次『日輪の翼』(新潮社、一九八四三年)
「混住社会論」99  多和田葉子『犬婿入り』(講談社、一九九三年)
「混住社会論」98  本間洋平『家族ゲーム』(集英社、一九八二年)
「混住社会論」97  黒岩重吾『現代家族』(中央公論社、一九八三年)
「混住社会論」96  近藤ようこ『ルームメイツ』(小学館、一九九七年)
「混住社会論」95  鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1