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古本夜話519 後藤朝太郎『文字の史的研究』

これも本連載514で記しておいたが、マックス・ミュラーの『言語学』に金沢庄三郎とともに共訳者として名前を連ねているのは後藤朝太郎である。これは金沢が「序」で断わっているように、「本書の訳文は文科大学学生後藤朝太郎氏の筆になつた」ものであり、この『言語学』は金沢が監修者、実際の訳者は後藤だったことになる。前回、後藤もまた折口信夫たちと、金沢の『辞林』の編集や校正を手伝ったと書いておいたけれど、ミュラーの著書の共訳の関係から生じた仕事であったのかもしれない。

幸にして後藤の名前は神谷敏夫の『最新日本著作者辞典』(大同館書店、昭和六年)に見出すことができたので、それを引いてみる。

 後藤朝太郎 ごとう あさたらう
 漢学者で文学者である。明治十四年四月号京都小石川区小日向台町に生れた。同四十年東京帝国大学文科言語学科を卒業し、第一回特選給費生として大学院に入り、文字学を研究した。同四十四年国語調査特に文学(ママ)に関する調査を嘱託され、また台湾学生監督・朝鮮総督学生監督等を嘱託された。なほ東洋協会大学教授・日本大学講師を経て、現に日本大学教授となつてゐる。支那研究視察の為屢々渡支し、現代支那通の随一で、支那に関する著述も多い。又嘗て夏目漱石と親交があつた。(後略)

よく古本屋で後藤の支那に関する著作を見かけているが、この立項によってその理由が了解される。しかしそれらは入手しておらず、代わりに昭和五年に雄山閣から刊行された『文字の史的研究』という一冊を所持している。これはB5変型判といっていいのか、大判のシックな鉄色の和本仕立てで、表紙には題簽が貼られている。こうした装丁と製本から、一種の豪華本のように見えるが、奥付には「書道講座」の第四回配本とあるので、これが円本に属するシリーズ物の一冊だとわかる。

そこで社史『雄山閣八十年』収録の、創業の大正五年から平成八年にかけての「雄山閣出版目録」を確認してみると、「書道講座」は昭和五年から刊行が始まり、七年までに全二十八巻を刊行しているようだ。推定にとどまるのは雄山閣が大正十二年の関東大震災と戦後混乱期を経たことで、戦前の出版物の中には現物も記録もない不明のものがあり、それが完全な「総目録」ではないことによっている。この『文字の史的研究』に関しても、昭和五年のところに二重表記され。判型も菊倍判、A4変型判の二つが挙げられているけれど、それらの異同、再版などについてはこれ以上踏みこまないし、それよりもその内容にふれてみたい。

『文字の史的研究』を読んで意外に思われたのは、後藤がマックス・ミュラーの『言語学』の実際の訳者であるにもかかわらず、その記述スタイルにミュラーの影響がほとんど感じられないことだった。それはミュラーが主としてアルファベットからなるヨーロッパ言語を対象にしていることと異なり、ここで後藤は表意文字である「支那文字」を主として論じているからなのであろうか。そうした事柄を表象するように、口絵写真に中国殷代亀板文、アッシリアのスメル王エアンタム時代の楔形文字、古代バビロン王の楔型絵文字刻文、漢王莾時代の木冊の墨書断片、蒙古路の隧道内壁の刻面とその周囲の石彫などがまさにピクチャレスクに示され、それらが「支那文字」へと至る源流であることを伝えている。
(『言語学』下)

そして「支那文字」と支那人のリテラシーの現状、田舎の寺子屋と路傍の赤本黄表紙事情、文人墨客と古典文学などが語られていく。その筆致は日本史に関して、たなごころをさすように論じた樋口清之を彷彿とさせるところがあり、後藤が「現代支那通の随一」であることを納得させてくれる。それらをイントロダクションとして、「文字の社会的生命」や「支那文字の発達と埃及文字」や「支那文字の歴史的変遷」へと続いていくわけであるが、私が最も関心をそそられたのは安南文字への言及であった。

後藤は上海のフランス租界にいる多くの安南人のことにふれ、安南はフランス植民地となっていて、その独特の色彩が失われようとしているが、安南文字と言語の上から支那の延長だと述べ、次のようにいっている。

 (前略)その言語は支那語と同じく単綴語を語り、文字も亦支那系の漢字を用ひてゐることは日本と変らない。(中略)安南で発行されてゐる漢字の書物を見るに、その書籍の形式も字形の系統も支那と同様であることを知るのである。而かも支那系の文字の行はれてゐる日本や朝鮮などよりも、一層その特色の誇張された点がこゝに見出されるのである。そしてその字体にはふつう一般の漢字の存する外に安南特有の構造になるものが存してゐる。その各字の組立てを見るに可成り複雑してゐるものもある。

それらは「純日本式の国字」の誕生と同じで、「安南特有の文字」の発達と字音を伴い、その字音は二千年以上前の秦の始皇帝時代の古い方言として化石的に残っていたものではないかと推測し、後藤は安南で発行されている『三千子解譯国語』から「安南特有文字」「安南字音」「漢字の之に相当するもの」を具体的に列挙し、表化して示す。その「安南特有文字」は「漢字の之に相当するもの」よりも複雑で、二つの漢字を合わせた重ね文字のようなかたちである。例えば、漢字の「天」は「天上」、「見」は「体見」といったように、地方独特の文字は広東にも福建にもあるが、この「安南特有文字」は特異な「ローカル・カラー」だとも述べられている。

ここに至って、後藤の『文字の史的研究』はアジアにおける「支那文字」、もしくは漢字系統論であることに気づく。それが後藤がミュラーから継承した比較漢字学というメソッドであったように思われる。

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