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古本夜話520 蘆田伊人と『大日本地誌大系』

前回の後藤朝太郎野『文字の史的研究』を確認するために、十数年ぶりに社史の『雄山閣八十年』を再読し、やはり昭和円本時代に『大日本地誌大系』全四十巻を刊行していることをあらためて知った。ただ社史にはまとまった言及はみられず、戦前の講座、全集本の中で唯一欠損を出した企画として挙げられていた。だが日本史学の児玉幸多はその「序に代えて」の中で、「『大日本地誌大系』は今も利用しているが、日本の近世史を専攻する者で、この大系の恩恵を蒙らないものはないと思う」と述べてもいた。その雄山閣版を見ていないけれど、ここで取り上げておきたい。

その前に鈴木徹造『出版人物事典』から創業者の長坂金雄の立項を引き、雄山閣の簡略なプロフィルを提出しておこう。
出版人物事典

 [長坂金雄ながさか・かねお]一八八六〜一九七三(明治一九〜昭和四八)雄山閣創業者。甲府市生れ。一九一〇年(明治四三)上京、新聞の発行や予約出版の仕事をはじめ、一六年(大正五)国史講習会を組織し『国書講習録』、その機関紙として『国史界』(のち『中央史壇』と改称)を刊行、出版社としての第一歩を踏み出した。二〇年(大正九)雄山閣と改称、二一年最初の単行本、三田村鳶魚の『足の向くまま』を出版、『文化叢書』の刊行をはじめる。関東大震災後は、特に全集・講座ものに力を注ぎ、『東洋史講座』『考古学講座』『日本風俗史講座』『書道講座』など一〇巻から五〇巻に及ぶものを出版、ことに歴史知識の啓蒙化、大衆化に果たした功績は大きい。(後略)

ここに挙げられている「講座もの」とほぼ同時期に出版されたのが『大日本地誌大系』である。これは書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』によれば、戦後になって全二十九巻と全四十八巻が二度刊行されているので、円本時代の企画のひとつが、遅れて雄山閣に貢献したといっていいだろう。
大日本地誌大系 (『大日本地誌大系』第24巻「御府内備考」、1959年)

だが実際にはこの『大日本地誌大系』は雄山閣のオリジナルな企画ではなく、大正五年前後に大日本地誌大系刊行会から同タイトルで出され、十四冊まで刊行されたところで、中絶してしまったシリーズを継承している。この大日本地誌大系刊行会版を一冊だけ入手している。これに関しては『雄山閣八十年』よりも三十年ほど前に出された長坂金雄の『雄山閣と共に』の中で、全四十巻の明細も掲載した「『大日本地誌大系』の刊行」としてふれられている。それによれば、酒井伯爵家の編修所長の蘆田伊人が三省堂をバックにして十二、三冊出し、途中から自分で引き受け、十八冊刊行したところで、事業が困難で中絶してしまった。それを『日本風俗史講座』が成功して余裕があったので、つい引き受けてしまったけれど、欠損の連続で手こずり、全巻完結には十年を要したと長坂は述べている。なお蘆田については、山内侯爵家編修所長との説もある。

私の所持する一冊は第十一冊目に当たる巻で、『伊勢参宮名所図会』下巻である。菊判上製の裸本で、おそらく箱入だったと思われる。この巻は上巻に続く寛政九年発行の『伊勢参宮名所図会』の残りの全部、それに加えて、同十年の河口好古編纂『皇大神宮参詣順路絵図』、天明年中の石崎文雅編纂『郷談』『続郷談』を収録したものである。つまり江戸時代に出された伊勢神宮参拝をめぐる図絵、及びその歴史的エピソードなどを収録した一冊と見なしていいだろう。そのような名所旧跡の他に、全国各地の地誌、風土記といった文献の資料を編纂したのが『大日本地誌大系』のコンセプトだったと思われる。

同巻は大正五年に出され、奥付には日本歴史地理学会校丁、編集兼発行者蘆田伊人と記されているので、三省堂が手を引き、蘆田自身が引き受けて刊行したことになるのだろう。また『雄山閣八十年』所収の「出版図書目録」を見ると、こちらの『大日本地誌大系』の著編者はほとんどが蘆田となっているので、雄山閣版も彼が編集、もしくは監修に携わったと考えていい。

しかしこの『大日本地誌大系』についての言及は先に児玉の言を見ただけで、他には出会っていない。例えば、日本地誌研究所編『地理学辞典』(二宮書店)を繰ってみると、明治三十六年から大正四年にかけて、博文館から出された山崎直方、佐藤伝茂共著『大日本地誌』全十巻、明治三十三年から四十年に冨山房から刊行された吉田東伍の『大日本地名辞書』全十一冊は立項されている。だが本来であれば、このふたつの間に立項があるべき『大日本地誌大系』の記載は見られない。
地理学辞典 大日本地名辞書(『大日本地名辞書』増補版)

以下のことは推測だが、蘆田は『大日本地誌』か『大日本地名辞書』にも関係した編集者で、三省堂をバックにして、大正時代特有の刊行会方式による『大日本地誌大系』の予約出版という流通販売を試みたが、採算ベースの部数に届かず、三省堂が撤退し、自らが引き受けることになったが、結局のところ、資金が続かなくて中絶してしまった。そして昭和円本時代を迎え、長坂は今こそ時代と自社の出版物にふさわしい企画だと判断し、譲受出版のようなかたちで『大日本地誌大系』の紙型を買い、それとともに編集者の蘆田も外部編集者のかたちで丸抱えし、全四十巻の完結へと導いたのではないだろうか。それに社史などには記されていないが、親友と呼んでいる誠文堂の小川菊松と同様に、出版金融も手がけていたはずで、そうした譲受出版にも通じていたし、それが円本時代以後の雄山閣の成長へともつながっていたと思われる。

それから同じく円本時代に『日本絵巻物集成』全二十二巻が刊行されているが、それに先駆け、『絵巻物集』という一冊が出ている。これは「信貴山縁起」を始めとする九つの絵巻の集成だが、「和軒識」という「跋」から察せられるのは、タイトルを『絵巻物図説』とする雑誌が和軒なる編集者によって出され、それが資金繰りに行き詰まり、休刊となり、その合本がこの『絵巻物集』として雄山閣から刊行されることになった。これも『大日本地誌大系』と同様に、出版金融を通じての譲受出版であり、その延長線上に『日本絵巻物集成』も成立したのではないだろうか。
日本絵巻物集成(『日本絵巻物集成』)

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