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古本夜話521 吉本隆明、武井昭夫『文学者の戦争責任』と淡路書房

これは戦後の出版に属するし、時代もテーマも飛んでしまうので、この連載に書くべきか、少しばかり迷ったのだが、主たる出版物に関して吉本隆明と併走した宮下和夫へのインタビュー『弓立社という出版思想』論創社)がようやく上梓されたこともあって、ここで書いておくことにする。
弓立社という出版思想

宮下によれば、1960年安保闘争後に吉本を読み始めたのだが、その頃吉本の著作は五冊しか出されていなかったという。それらは武井昭夫との共著『文学者の戦争責任』(淡路書房、昭和三十一年)、『高村光太郎』(飯塚書店、同三十二年)、『吉本隆明詩集』書肆ユリイカ、同三十三年)、『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』(いずれも未来社、同三十四年)である。なお『吉本隆明詩集』に収録されている私家版詩集『固有時との対話』(同二十七年)と『転位のための十篇』(同二十八年)は古本屋で見かけることがあったが、古書価がとんでもなく高く、とても買えなかったようだ。ちなみに私はまだこの二冊の現物を見る機会を得ていない。
(『文学者の戦争責任』)吉本隆明詩集(『吉本隆明詩集』)

これらの出版事情や版元に関しては、古書ユリイカ『吉本隆明詩集』の場合、鮎川信夫が「編集解説」となっていることから、その出版の橋渡しを務めたであろうと推測される。また出版社についても伊達得夫『詩人たち・ユリイカ抄』日本エディタースクール出版部)によって、その実情が伝わってくる。『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』については、未来社の編集者だった松本昌次の『わたしの戦後出版史』(聞き手上野明雄、鷲尾賢也、トランスビュー)が出されたことで、この二冊の出版経緯と事情が明らかになった。
詩人たち・ユリイカ抄 わたしの戦後出版史

残るは『文学者の戦争責任』『高村光太郎』だが、これらは宮下も出版経緯に通じていなかったし、それは私も同様で、淡路書房と飯塚書房のアウトラインすらもつかめていなかった。ただ当時とすれば、武井昭夫全学連初代委員長で、『新日本文学』の編集者にして、日本共産党東京都委員でもあったことから、吉本よりも出版人脈は恵まれていたはずだった。それゆえに淡路書房に関しては吉本ではなく、武井のルートによる出版だと思われた。

ちなみに『文学者の戦争責任』は新書版二五〇ページほどの一冊で、その前半に吉本は「まえがき」以外に「高村光太郎ノート」を始めとする四編、その後半に武井は「戦後の戦争責任と民主主義」など五編と「あとがき」を収録している。この『文学者の戦争責任』の巻末広告は既刊のさねとう・けいしゅう『日本語の純潔のために』、実藤恵秀、実藤遠『アジアの心』郡司正勝『歌舞伎と吉原』、近刊の茨木憲『昭和の新劇』の四冊が並んでいる。いずれも新書判で、淡路書房が新書判の出版に重点を置いていることがうかがわれる。だがさねとう=実藤は中国研究者、郡司は歌舞伎研究者、茨木は新劇関係者と見なせるし、『文学者の戦争責任』を含めて、出版の目的の一貫性は伝わってこない。
歌舞伎と吉原

それらに加え、これまで淡路書房のみならず、発行者の上金義継の名前も戦後出版史に見出したことがなかったのである。ところが『雄山閣八十年』の中に、しかも両者が唐突に出てきたのだ。その部分を引いてみる。

 このころ一階の雄山閣事務所は、ワン・フロアで仕事が出来てなお余裕があったので、縁あって淡路書房(社長上金氏)という小出版社を同居させた。上金氏は早大出身で、仕事はよく動き回って、なかなか良い企画を持ち込んだりして当初はうまくいっていたようであったが、しだいに不振におち入り不始末をおこして出ていき、雄山閣との縁は切れてしまった。その当時淡路書房にいた営業の山根襄氏は、後年青木書店の社長となり、一雄と再会している。また編集にいた洞圭一氏は校倉書房の編集長となった。洞氏は早大教授で、雄山閣から出した『種子島銃』の著者・洞富雄先生の子息であった。青木書店と校倉書房は、後年長坂一雄が永いこと会長をつとめた歴史書懇話会の会員社となっていることは、まさに奇縁というほかはない。

これを読み、あらためて『文学者の戦争責任』の淡路書房の住所を確認すると、「千代田区富士見町2の8(長坂ビル)」とあった。本当に雄山閣に「同居」していたことになる。『雄山閣の八十年』の記述からわかるように、雄山閣は出版を営む一方で、資本を蓄積した出版社の多くがそうであるように、不動産事業も営み、戦前からの雄山閣や戦後の雄山閣ビルに至るまで、いくつもの出版社が店子として「同居」していたようで、またそれらの多くが倒産したとされる。
それらはまず、雄山閣の第二会社である好江書房と雄図社が挙げられ、前者は寄席芸能中心の娯楽雑誌『毎日読物』など、後者は自然科学関係書を刊行したが、倒産に追いやられてしまった。なお『毎日読物』は正岡容が関わっていたので、その編集アルバイトは小沢昭一大西信行だったという。その他にも目黒書店出身の小川昇の新体育社、ミリオンセラーとなった宮崎清隆『憲兵』を出した元製本業の榎本保造の富士書房が挙げられている。
憲兵

しかし淡路書房の場合はそれらとその後の事情が異なり、新書中心の小出版社だったにもかかわらず、営業担当者が青木書店社長、編集者が校倉書房編集長となっている。それに加え、雄山閣は淡路書房の関係で知り合った戸板女子学園の高橋雅夫とともに、日本風俗史学会の創立に携わり、『講座日本風俗史』全十二巻などの数多くの企画へと結びついていくことになる。それは淡路書房がもたらした「まさに奇縁というほかはない」し、それらもいささかは『文学者の戦争責任』の反響であったのかもしれない。

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