私が同時代を背景とする現代小説を読み始めたのは、一九六〇年代前半で、しかも光文社のカッパノベルスが全盛だったことから、それらは松本清張、水上勉、黒岩重吾、梶山季之などの、所謂「社会派推理小説」が多かった。これらの作品群はミステリーでありながらも、必然的に事件や登場人物たちの位置づけからしても、紛れもない戦後小説として出現していた。それは「社会派推理小説」だけでなく、高度成長期にあっては多くの小説が戦後文学の色彩に包まれていた。それゆえに当時の小説を読む行為は戦後を問うということへとつながっていたように思える。ただその戦後も高度成長時代の進行とともに希薄化していったけれど、依然として米軍基地は敗戦後と戦後の始まりの痕跡を突きつけるかたちで、日本の現在をも問い続けている。
それらに関して、本連載でもしばしば言及してきたが、「戦争花嫁(ウォー・ブライド)」も戦後と基地の象徴と見なせよう。一九八一年に写真家の江成常夫による『花嫁のアメリカ』(講談社)が出されている。これは同じタイトルで刊行された『アサヒカメラ』別冊の増補版で、同年の木村伊兵衛賞を受賞している。その事実はまだ八〇年代が戦後に他ならないことを示唆し、またこの一冊もそれを抜きにしては成立しない構成と内容からなっている。同書はアメリカ人と結婚し、太平洋を越え、アメリカへと渡った「戦争花嫁」九十一人の家族写真をコアとし、それぞれに語られた個人史を付したもので、そこには江成による次のようなキャプションが挿入されている。
日本がアメリカに無条件降伏したとき、都市のほとんどが焦土と化していた。
間もなく占領軍が進駐し、やがて、彼らGIと日本の若い女性たちの間に、数々のロマンスが生まれた。
軍服の夫に寄り添って母国を離れて行く花嫁を、当時の日本人は《戦争花嫁(ウォー・ブライド)》の代名詞で読んだ。
太平洋戦争のあと朝鮮戦争、ベトナム戦争と続く日本の復興期にも、花嫁は誕生した。
それは、戦争という殺し合いの舞台裏で繰り広げられてきた、もうひとつのドラマでもあった。
外務省旅券課の資料によると、日本の敗戦から、ベトナム戦争にかかる約三十年間に、海を渡った日本人花嫁は、ざっと十万人と推定される。
そうした花嫁たちの消息を、広大な北米・カリフォルニアに尋ねた。
花嫁と家族の営みは、都市のなかで、あるときは、陽炎に霞む砂漠の奥のちっちゃな村(ビレッジ)でも捜し当てることができた。
父母の国に浄土の夢を託しながら、異土に日本人の血をを注いできた、花嫁たちの軌跡は、また、祖国日本の戦後史と深く重なっている。
「広大な北米・カリフォルニア」とおぼしきハイウエイと大地と空の写真に添えられた、これらの言葉は『花嫁のアメリカ』にこめられた著者自身の「戦後と深く重なっている」ようにも思える。「あとがき―歳月よ、語れ」によれば、江成は神奈川県の相模原の田名村に生まれ、国民学校三年で敗戦を知った。そして「相模原に隣接した厚木基地に、マッカーサーが降り立って以後の敗戦の印象は、子供心に強烈だった」。そして生まれて初めて見るGIから最初に教えられた単語はチョコレート、チューインガムで、そうした単語と同列に「戦争花嫁(ウォー・ブライド)」なる言葉も覚えたという。
この「あとがき―歳月よ、語れ」はナボコフの自伝を反復している。亡命を背景とする『ナボコフ自伝』(大津栄一郎訳、晶文社)の原題は、邦訳のサブタイトルとして付せられたSpeak Memory=「記憶よ、語れ」である。江成はここで自らの敗戦の風景を再現し、その延長線上に見出される日本からの亡命者でもあるかのような「戦争花嫁」自身による「歳月よ、語れ」を試みたとも考えられる。しかも『花嫁のアメリカ』としてのカリフォルニアの二大都市ロサンゼルスとサンフランシスコ郊外には陸(アーミー)、海(ネービー)、空(エア・フォース)、海兵(マリーン)などの様々な基地が点在し、メキシコとの国境に接するサンディエゴには軍港、そこから北上した太平洋沿岸には北米二番目の海兵隊基地キャンプ・ペンデルトンがあった。それゆえに必然的に「戦争花嫁」たちも、まさに基地の「花嫁」としてそのようなトポスで生活を送る運命にあったことになる。
それらの具体的な生活が『花嫁のアメリカ』において、実際に、九十一人の女性たちの口から語られ、それは十万人のうちのミニマムにすぎないけれど、アメリカにおけるもう一つの日本の戦後を知るに至る。それらはもちろん当たり前のことではあるが、映画や小説と異なり、WASPはほとんど登場せず、あまりにも散文的なもので、アメリカ社会の現実、人種と階級の問題をも浮かび上がらせている。
しかし「戦争花嫁」とそれらの問題は『花嫁のアメリカ』よりも二十年近く前の一九六三年に、『中央公論』に連載された有吉佐和子の小説『非色』(中央公論社)として提出されていた。だが現在ではほとんど忘れ去られた作品だと思われるので、少し丁寧に物語をたどってみる。テキストは新潮社『有吉佐和子選集』第八巻による。
(選集版)
主人公の「私」=笑子の女学校時代は学徒報国隊に属し、工場で旋盤工として働き、工員宿舎に泊まる生活をしていたが、敗戦とともに工場に別れを告げることになった。けれども戦災で家を失い、母と妹と都心から離れた焼け残りの家の二階一間を借りて暮らし、食べるものにも着るものにも困っていた。東京にはまともらしい仕事を何もなかったが、一文無しというよりももっとひどい状態だったので、どうしても働かなければならなかった。傭ってくれるところは進駐軍関係の仕事しかなく、笑子は有楽町の駅の傍にある進駐軍が経営しているパレスというキャバレーのクロークになった。その仕事を与えてくれたのはたまたまそこにいた大男のニグロだった。勤務は午後六時から朝の五時までで、客のコートや荷物を預かり、番号札を渡す仕事だった。英語はよくできなかったけれど、同僚のヨシ子はしゃべることができたので、彼女から教えてもらうことにした。女学校では英語は敵性語となり、二年までしか学習していなかったこともあり、「なんにしても日本が敗けてしまってアメリカさんの天下になってしまったのだから、まず言葉からものにしておかないことには埒があかないという意識」があったからだ。それだけでなく、最初は感激したクロークの給料にも狎れてしまい、さらなる収入を欲し、ダンサーの仲間入りや進駐軍物資の横流しにも加わりたいと考えていた。そのために英語を学ぶので、テキストは進駐軍がGIたちに配布した日本語会話用のもので、単語と構文の暗記にいそしんだ。そのテキストの第一ページには「連合国は日本の国民に平和と平等を与えるために進駐してきたのです。あなたがたの自由も財産も守られています」とあった。
笑子の英会話の勉強を見て感動を表したのはあの大男の黒人兵で、「彼はグローブのような掌を展いて、大仰に感動してみせた。掌の中が生々しく白いのと、眼を剥いてみせた白眼と、開いた唇の内側が生肉のように赤いのが印象的だったが、悪い感じはしなかった」。それはここがニグロ専門のキャバレーで、一年も勤めたことから、「私は黒い肌の人間を見るのにもう馴れきっていたのである」。それに給料は日本人から手渡され、アメリカ側上司とはほとんど無関係だったから、このジャクソン伍長がこのキャバレーの支配人だとは知らないでいた。
そのトーマス・ジャクソンは笑子にデイトを申し込んできた。行き先はGIたちの慰安のための豪華なショウで、東京宝塚劇場が進駐軍に接収され、アニー・パイルと名前を変え、公演していたものだった。デイトはGIたちの倶楽部の食堂の豪華な食事から始まった。大きなステーキ、アイスクリームが乗った食後のパイは生まれて初めての美味と呼べるものだった。笑子がたどたどしい英語で、「私は私の生涯において、この素晴らしい食事を忘れることは出来ないでしょう」というと、トムもとても喜び、それは自分も同じだし、「原因は笑子が一緒だからと答える」のだった。それでも彼女にしてみれば、「勝ったアメリカ兵と敗けた日本人のデイト」でもあったのだ。トムはアラバマ出身の二十四歳の独身で、ニューヨークから徴兵されていた。
しかしトムとの交際と一九四七年の結婚に至るプロセスは、彼女が「黒ンぼ相手のパンパン」扱いされ、母親からは「娘が外国人と、それもアメリカ人ならともかく、あんなまっ黒な人と結婚するなんて!」と反対されるばかりだった。だが彼女は妊娠し、メアリイという長女を産む。その三年後の一九五一年、トムに帰国命令が下り、一年以内に家族を呼ぶという言葉を残し、横浜港から帰国の途についた。彼女は仕事を求め、進駐軍とその家族の住宅街である代々木のワシントン・ハイツのメイドになった。ここは外の東京に比べれば、「文化的小都会」にして「アメリカ租界」であり、「日本の国の中であることは間違いないのに、アメリカ人だけが、幸福に暮らしている。それも白人ばかりが」。
トムからの便りはマンハッタンでようやく病院の看護夫の仕事を見つけ、ハーレムで部屋も確保できたので、ニューヨークにくるようにというものだった。彼女はメアリイに対する、日本人と白人のアメリカ人双方の人種差別などから、アメリカ行を決意し、横浜港発の大西洋回りの貨物船に乗り、アメリカに向けて出立した。そこには四人の「戦争花嫁」がいた。メアリイよりも黒い息子を持った竹子・カリナ、薄茶色の髪と碧い眼をした男の子を連れた志満子・フランチョリーニ、もう一人は子供がいない二十歳を過ぎたばかりのお嬢さんのような麗子・マイミだった。その他に三人の日本人留学生がいて、彼女たちは笑子たちとはちがうというエリート意識をむき出しにしていた。それでもニューヨークには着いた。トムが迎えに出ていて、笑子とメアリイは地下鉄に乗り、ハーレムに向かった。
ハアレムと呼ばれている区域は一二五丁目から一五五丁目までの、東西にまたがる広いところだったが、そこへ一歩踏みこんだ私は、辺りの光景にしばらく呆気にとられていた。貧民窟! 云ってしまえば、それであった。はいいとの建物はビルらしい建築で十階近くまで聳えたっていたが、窓という窓から溢れるように様々な色彩がだらしなく垂れ下っていた。それらは洗濯物を干しているのであったり、ニグロのお婆さんや子供たちがぼんやり日向ぼっこをしているのであったりした。何をしているのか、街路にもニグロがごろごろしていて、通り過ぎる私たちを疲れた眼でじろりじろりと見る。
これがアメリカなのだろうか、本当に……? 絵葉書などで見たニューヨークは、まるでお菓子で作ったような形のいい美しいビルが立並んで、空も青ければ街行く人々はトップモードで身を包み、華やかで豪華な雰囲気が充満した都会のように思われたのに、私のアメリカ第一日に見た総てのものには、その片鱗さえもなかったのである。
私たちの家は――地下室だった。
江成の『花嫁のアメリカ』が日本と同様に、基地をベースとするカリフォルニアであったことに対し、有吉の『非色』において、主人公の笑子が至り着いたのはニューヨークのハーレムだったのだ。ハーレムに関して、『アメリカを知る事典』(平凡社)は次のようなプロフィルを描いている。ニューヨーク市マンハッタン区のセントラル・パーク以北に広がる黒人街で、十九世紀末までは白人だけの高級住宅街だった。二十世紀に入り、南部の黒人が北部に移住してきた際に、地下鉄建設によりバブル化していたハーレムの地価が、工事完成の遅れのために暴落し、そのことで黒人が集まった。そして第一次大戦後には中心のレノックス街は黒人で埋まり、一九二〇年代には音楽や文学などが爆発的に開花し、ハーレム・ルネサンスと呼ばれる時代を迎え、黒人文化のメッカとなった。
だが第二次大戦後でもニューヨークにおけるハーレムは人種差別による貧困、犯罪、麻薬、売春などの代名詞でもあった。そして六〇年代には人種暴動も起き、ハーレムは黒人の貧困生活のバロメーター的トポスである一方で、イーストハーレムはプエルトリコ人が多く、スパニッシュハーレムと呼ばれている。そうした街の生態は一九七一年に邦訳されたグロード・ブラウンの『ハーレムに生まれて』(小松達也訳、サイマル出版会)などによって、もうひとつのアメリカとして日本にも広く伝えられていったのである。
しかし『非色』の笑子がハーレムに着いたのは一九五三年で、しかもその住居は船の中と変らない「地下室」だったのだ。戦後の日本でさえ復興はめざましかったのに、「戦争に勝った国のアメリカで、しかも世界最大の経済都市のド真ん中に、こんな惨めな、こんなにも低い生活があろうとは、誰に想像できただろう」。それに「戦争に勝った国のアメリカ」に他ならなかったトムは日本でのイメージとまったく異なり、単なるハーレムのニグロで、給料の安い病院の看護夫でしかなく、笑子が働かなければ生活が成り立たなかった。東京時代がトムの生涯における栄華の絶頂期で、あれほどの「富」と「自由」と「平等」が与えられたことはかつてなかったのではないかと彼女は思った。占領下の倒錯ともいえた。後に判明するのだが、船が一緒だった志満子の夫は白人でもイタリア系で下層階級に属し、麗子に至ってはプエルトリコ人が夫であり、二人とも日本においてはトムと同様だったのである。
そうした中で笑子は日本料理店で働き、さらにバアバラとベティという二人の子供を産み、ひたすら生きていく。日本で生まれたメアリイは小学生になり、「My Family」という作文を書く。それは次のように書かれていた。
私は、お父さんとお母さん、バアバラとベティの二組をよく見較べて、私の家族は素晴しいと思います。アメリカン・ニグロの先祖は三百年前にアフリカからこの国へ渡って来ました。三百年の間には十の世代があると先生が云います。そうすると、私の家では八代目に白人が、十代目に黄色人種が混じったわけです。だから私と、日本人似のバアバラと、少し色のうすいベティが生まれたのです。この三人が本当の姉妹だなんて、なんて素晴しいことでしょう。いつの日か私たちの家系にプエルトリコ人が混じることも考えられます。プエルトリコ人はそれを歓迎するでしょう。そうすれば誰もあの人たちをアメリカ人ではないなどとは云わなくなるでしょう。
長きにわたる十代を経て、日本の「戦争花嫁」が加わったことで、まさに多彩な「混住家族」が生まれたといっていい。有吉が『非色』というタイトルにこめたのは混住することによって、混血というよりも肌の色が非色化されていくプロセスではなかったであろうか。それを如実に物語るのは『花嫁のアメリカ』に収録された家族写真であり、そこにはおそらくメアリイのような子供も誕生し、小学校で同じような作文を書いていたかもしれない。『非色』と「戦争花嫁」の物語はまだ続くし、笑子のハーレムでの試行錯誤の生活も続いていくのだが、メアリイの作文のところまできたので、ここで終わりにしよう。
なおその後、江成による『花嫁のアメリカ 歳月の風景』(集英社、二〇〇〇年)が出されていることを知った。