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古本夜話522 未来社『金日成著作集』と雄山閣『金日成伝』

前回、吉本隆明の初期の著作を出版したのが雄山閣に「同居」していた淡路書房と未来社であることを記しておいた。それは同時代の雄山閣と未来社のささやかな縁を垣間見せてくれるが、それ以上に両社が朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の金日成の伝記や著作の刊行を通じて密接につながっていた時代もあったのだ。本連載の目的のひとつは、その時代にどうしてそのような書籍が特定の出版社から刊行されたのかを解明することにあるので、これも戦後の出版だが、やはりここで書いておきたい。

それらの出版によって、雄山閣の長坂一雄と未来社の西谷能雄両社長は一緒に北朝鮮に招かれ、その二年後だが、未来社編集長松本昌次も同様で、松本はそれを『朝鮮の旅』(すずさわ書店)として著わしている。彼らの北朝鮮への旅はまだ金日成も存命し、赤軍派よど号をハイジャックし、北朝鮮へと亡命した一九七〇年前半のことだった。

もうかなり前になるが、古本屋の均一台に転がっていた未来社『金日成著作集』第一巻を、気紛れに買ったことがあった。奥付は七〇年一〇月第一刷、七一年二月第五刷とあり、A5判上製、三七〇ページの一冊の定価は九五〇円となっていた。刊行五ヵ月で五刷というのはすばらしい売れ行きといっていいだろうし、組織的まとめ買いが含まれていたのにしても、そのように売れる時代もあったことを想起させてくれる。その「あとがき」は「『金日成著作集』翻訳委員会」の名前で記され、この著作集は外国で初めて出版されたもので、金日成首相は社会主義共産主義建設に関する諸問題を全面的に解決し、「現代マルクス・レーニン主義を高い段階に発展させ、朝鮮革命の勝利的前進をもたらしたばかりでなく、深奥  かつ独創的な理論、実践活動をつうじて世界革命の促進に大きく寄与している」と述べられていた。
金日成著作集

一九六二年の吉永小百合主演、浦山桐郎監督の『キューポラのある街』の時代はまだ終わっておらず、続いていたのである。この映画と北朝鮮帰国事業について、私もかつて「古本屋と北朝鮮への帰還」(『古本探究2』所収)なる一文を書いているが、七〇年代初頭に至るまで、北朝鮮金日成に対するイメージはまだ失墜していなかった。それゆえに『金日成著作集』のような出版が可能だったのであり、未来社のような吉本隆明埴谷雄高の著作を刊行していた版元からも出されていたのである。しかも松本という同じ編集者によって。
キューポラのある街 古本探究2

『ある軌跡―未来社40年の記録』(一九九二年)はそのことに関して、「略年表の記述」以外にほとんどふれていないが、松本昌次が前回も挙げた『わたしの戦後出版史』トランスビュー)の中、で「北朝鮮とのかかわり」に一章を割き、書影も掲載し、「聞き手」のいうところの「北朝鮮のオフィシャルな本」についても語っている。そこで何よりもまず、その率直な証言をたどってみる。それによれば、未来社の「北朝鮮関係の本の入口」は六五年に『朝鮮人強制連行の記録』を出した朴慶植との関係が始まりで、彼は朝鮮総連に属し、朝鮮大学校の教員だった。そのことから朝鮮総連から申し入れがあり、金日成の英語版伝記のBaik Bong『KIM IL SUNG 』全三巻が六九年から七〇年にかけて出される。
わたしの戦後出版史 朝鮮人強制連行の記録

これは朝鮮総連の若いスタッフが英訳した外国向けの千九百ページに及ぶ大冊で、未来社は製作と発売元を引き受け、定価は千五百円だったが、朝鮮総連が各三千部を買い上げてくれたことで、未来社は経済的にとても助かったという。そしてそれが七〇年からの『金日成著作集』全五巻へとつながり、八一年までに二巻が増補され、全七巻の刊行となり、未来社は「北朝鮮にとって国家的といっていい出版事業」に関わったのである。

その未来社北朝鮮の国家的出版事業を担ったのは雄山閣も同様で、英語版伝記の日本語版『金日成伝』を、やはり六九年から七〇年にかけて刊行している。『雄山閣八十年』によれば、雄山閣のブレーンで、同成社という出版社を一人で経営していた岡崎元哉がもちこんだ企画だった。同成社の著者で詩人の許南麒が朝鮮総連本部副議長だったことから、北朝鮮本国より邦訳出版企画が提案され、それが同成社を経由し、雄山閣へとつながったことになる。

「当時まだ十分国情がわからなかった朝鮮民主主義人民共和国ではあったが、その建国の祖である金日成指導者の伝記こそ、日本の社会に速やかに提供されるべき出版状況であると判断して、その刊行に踏みきったものである」と『雄山閣八十年』は述べている。そして第一巻は増刷を重ねたとあるから、これらも雄山閣を経済的に助けたにちがいない。

先述したように、西谷と長坂の二人が北朝鮮に一ヵ月も招待され、続けて松本も同様だったが、これは松本が語っているように、「出版界の人たちが招かれるのも稀有のことだった」。それはこの三人が「北朝鮮にとっては国家的といっていい出版事業」を代行したことを意味している。しかも西谷たちは金日成に会ってもいる。その写真が『雄山閣八十年』に収録されている。

その仕事は帰国後も続き、未来社は七四年に、これも一種の「金日成伝」といえる朝鮮革命博物館写真帳編集委員会編・訳『朝鮮革命博物館』上・下、雄山閣は七二年に朝鮮労働党中央委員会党歴史研究所編・訳『金日成同志の革命活動』などを刊行している。これらも買い上げはあり、北朝鮮の「出版事業」の代行は日本の出版社にとっても少なからぬ経済的支えになったにちがいない。そうした出版メカニズムも、出版というものが内包しているひとつの機能のように思われる。

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