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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話526 田中英夫『洛陽堂河本亀之助小伝』、中山三郎、小川菊松『出版興亡五十年』

前回、田中英夫の『河本亀之助伝』を鶴首して待ちたいと書いたが、それにただちに応えてくれるようにして、田中から『洛陽堂河本亀之助小伝』(燃焼社、二〇一五年十一月刊)を恵送された。それゆえにここでそれにまつわる何編かを書いておきたい。
洛陽堂河本亀之助小伝

同書には「損をしてでも良書を出す・ある出版人の生涯」というサブタイトルが付され、これまで近代文学史や出版史においても、明らかでなかった河本亀之助の生涯が詳細にたどられている。田中は「小伝」と称し、また亀之助が書いたものをほとんど残していなかったことから、印刷や出版を通じて関係があった人々の書いたものや出来事を寄せ集め、つなぎ合わせてつづったもので、「小えびを大きな衣で揚げていながらえび天だといつわる」と断っている。その「大きな衣」は私などがとても及ばぬ丹念な追跡、資料発掘と博捜によっていて、紛うことなき労作といってかまわないだろう。

ただそうはいっても、すべてには言及できないので、私の関心の範囲から、いくつかを取り上げてみる。そのために「えび天」を味わうどころか、「大きな衣」をかじることしかできないが、始めてみよう。田中は亀之助の印刷所国光社時代における金尾種次郎の金尾文淵堂との関係に焦点を当て、その店員だった安成二郎と中山三郎にふれている。私も安成のことは「安成二郎と『女の世界』」(『古本探究3』所収)という一編を書いているが、中山は初めて目にする人物だった。
古本探究3

中山は明治十七年生まれで、高等小学校卒業後、兵庫県庁に勤め、神戸教会で信仰を得て、その書記となったが、教会改革に関わったことで居場所を失ってしまう。そこで同郷の先輩で作家の中村春雨に仕事の世話を頼んだところ、中村の小説の版元である金尾文淵堂を紹介され、上京して住み込みの小僧兼番頭となった。それからわずか三ヵ月後の二十三歳の身で、百芸雑誌社を興し、『百芸雑誌』と書籍『恋愛観』を出し、その二ヵ月後には京華堂書店として、前回名前を挙げた南条の『忘己録』の編集者舟橋水哉の『倶舎哲学』などを刊行している。また京華堂書店とは、私も本連載230でふれているように、田中の『山口孤剣小伝』にも出てくる山口の『東都新繁昌記』の版元でもある。
[f:id:OdaMitsuo:20120831083600j:image:h110] [f:id:OdaMitsuo:20120805151535j:image:h130](『東都新繁昌記』)

これらの中山のあわただしい出版史は田中も推測しているように、金尾文淵堂の経済的状況と無縁ではなく、譲受出版なども絡んだダミー的出版を担わされたのではないだろうか。ちなみにこれらの印刷も国光社の亀之助が担当していたのである。しかしそのような自転車操業的出版も、金尾文淵堂の予約出版の『仏教大辞典』の破綻によって終わりを告げ、亀之助はその負債のために国光社を引責辞任し、それがまた洛陽社創業へとつながっていくのである。

それならば、中山の行方はどうなったのだろうか。田中は誠文堂新光社の小川菊松の『出版興亡五十年』(昭和二十八年)における金尾文淵堂の破綻と店員の身の振り方への言及を引き、安成や中山の他に、薄田泣菫の弟の薄田鶴二、これも亀之助の弟の河本俊三、安井蔵太、荒畑寒村たちは五ヵ月間無休で働いたが、万策尽きて職を失ったと述べている。その際に金尾が明治四十一年に刊行した二葉亭四迷の『平凡』の発行権を売り、店員たちへの涙金としたことも。
出版興亡五十年

そして荒畑と安成は大阪日報記者となり、中山は薄田や河本と獅子吼書房と立ち上げ、薄田の兄の泣菫の文集『落葉』などを刊行する。それは田山花袋の小説『縁』に書きこまれた中山のエピソードを出典としている。この後で田中は「『出版興亡五十年』代筆者中山三郎」の小見出しを立て、同書の中にある洛陽堂に関する記述を引き、「この本を代筆したのは小川より四歳年長で業界のうらおもてに通じた中山三郎であるのを知れば、読みかたが変わる」とも書いている。

この事実は昭和三十三年に亡くなった中山を外祖父とする清田啓子の「資料紹介 花袋「縁」の中の一モデルの証言」によっているのだが、これは確かにまったく知らなかった事実で、それを知れば、いささか「読みかたが変わる」。『出版興亡五十年』の第一部「出版興亡の跡」、とりわけその中の「出版文化へ貢献した金尾文淵堂」や「消滅した著名出版社」の章は、小川と中山の両者が見た複眼的な出版史だったことになる。あらためて中山の名前を知り、同書を見てみると、田中の指摘するように、先の金尾文淵堂の章で、「文淵堂の最初からの番頭さんをやつた中山君」、また第二部「私の出版五十年」の昭和六年夏のところで、「友人中山泰昌氏」として登場している。
植田康夫へのインタビュー『「週刊読書人」と戦後知識人』の中で、植田が少年の頃から『出版興亡五十年』の愛読者で、そのことを繰り返し語っているが、植田も私も同書が口述筆記からなり、優れた編集者が介在していたのではないかと推測しておいたばかりだった。だがまさかそれが文中に名前が出ている中山であるとは想像もしていなかった。
週刊読書人と戦後知識人

とすれば、中山は獅子吼書房から本連載517でもふれた草村北星の隆文館へと移ったようだが、同じ時期に独立して取次と出版の誠文堂を開業した小川と知り合い、円本時代の企画のブレーンとなったのではないだろうか。そのように考えてみると、小川の前著『商戦三十年』(昭和七年)、『礎』(同十七年)なども中山の手になった可能性が高いと思われる。

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