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古本夜話528 山崎延吉『農村之経営』と裳華房

山崎延吉の著書はもう一冊入手していて、その『農村之経営』もやはり古本屋の均一台で拾ったものだと思う。これは山崎が各地で行なった講演講習をまとめたものだが、やはり菊判上製、五百ページ弱の裸本で、大正四年に裳華房から出されている。

同書の巻末には、類書として山崎の『増訂農家の経済』、山田天涯『増訂理想の農村』、長崎常訳『農業政策』、横田英夫『農村救済論』が挙げられ、それらの出版が洛陽堂もそうだったように、「地方改良運動」と併走していることを示唆している。それに続いて圧巻なのは裳華房の「各科学参考書一覧」で、六ページ、六十点に及び、植物、動物、水産、理化学、天文、物理、土木、工業、森林、農業、農芸、畜産などの参考書類が並び、明治から大正にかけての殖産興業の時代を彷彿させる。またそれらの実学書の著者は多くが大学教授、博士や学士で、両者の肩書が付せられ、末は博士か大臣かの立身出世時代だったことをも想起させる。山崎にも「愛知県立農林学校長」「同農業試験場長」「農学士」という肩書が付されている。

この裳華房に関して、前述の書名をすべて挙げることはできないので、創業者とそのプロフィルだけでも、『出版人物事典』から引いておきたい。
出版人物事典

 [吉野兵作 よしの・へいさく]一八六九〜一九〇八(明治二−明治四一)裳華房創業者。仙台市生れ。裳華房はもともと享保時代すでに出版活動を行い、木版刷で多くのものを出していたという。兵作は一八九五年(明治二八)上京、日本橋本石町裳華房の看板を掲げた。当初は偉人史書『林子平』蒲生君平』などを出版。科学知識普及の必要を痛感、新渡戸稲造『農業本論』、松村松年の『日本昆虫学』を出版、弟の野口健吉(二代目社長)を出版の視察のために渡米させた。池野成一郎『植物系統学』富士川『日本医学史』などの名著、新渡戸稲造の『英文武士道』などの異彩のものも出版した。

確かに新渡戸の著作は掲載されていないが、これらの書籍は『農村之経営』巻末広告にも見ることができるし、奥付発行者の二代目野口の大正時代になっても、ロングセラーとして版を重ねていたとわかる。

この立項に、小川菊松『出版興亡五十年』での創業者と裳華房の写真を添えた証言を加えれば、吉野は芳野となっていて、彼は科学図書出版の内田老鶴園の出身で、農業図書の出版を志し、新渡戸の『農業本論』を処女出版として始まったという。なお同じ農業書の養賢堂の及川伍三治はその店員で、大正五年に独立している。ここに内田老鶴園、裳華房、養賢堂という理科系、農業系の出版社の系譜をたどることができよう。
出版興亡五十年

さてそれらはともかく、山崎延吉のことに戻らなければならない。山崎に関するまとまった言及に出会ったのは、たまたま読んでいた保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書)においてだった。保阪はその「混迷する農本主義者たちの像」の中で、昭和前期から十年代にかけての農本主義者を主として四つのタイプとグループに分けている。それを示す。
昭和史の教訓

   1 権藤成卿橘孝三郎のような日本の共同体としての農村でこそ人格的な陶冶ができるとみて、農業そのものを軸に日本の社会体制を考えたタイプ。
   2 農村そのものの体質を変えることを目的としつつ、満州移民でその理想を達成しようとした加藤完治や口田康信らのタイプ。
   3 農民の生活向上や農民救済を目的にした東畑精一などの農商務省の官僚を中心としたグループ。
   4 農業経営を軸に考えながら、農業そのものの本質を軸にして農村青年の人格向上のための知的な練磨を指導した安岡正篤を師とするグループ。

前回内務省の若手官僚たちによって推進された明治後期から大正にかけての「地方改良運動」にふれたが、保阪はこの3に連なる農本主義者としての山崎延吉に言及している。農本主義の骨格は「農村自治」で、各村落には「村格」がある。それはその共同体の精神や文化を意味する「村風」、共同体が外部に示す態度としての「村民の行動」、共同体が維持されている原理原則をさす「村内の秩序」から成り立つ。「村格」の品位はこれらの活性化と自治によって保たれる。そのことで江戸時代からの封鎖的封建的な共同体からの脱却が可能となる。もし農村が自治と三つのファクターを失い、荒廃すれば、それは国家そのものの荒廃へとつながっていく。

このようにして「農村自治」を説く山崎について、保阪は上部構造ではなく、「下部構造のナショナリズム」と見なし、彼の生涯をたどっている。山崎の最初の著作『農村自治の研究』は明治四十一年に、やはり農業書を出版する有隣堂から出され、現在は農山漁村文化協会『明治大正農政経済名著集』第二十二巻に収録され、それには綱澤満昭の「山崎延吉の生涯と思想」も付されているので、保阪の追跡と重ね、山崎をトレースしてみる。なおこの有隣堂田山花袋が小僧として勤めていた書店で、本連載398などでもふれている。
明治大正農政経済名著集

山崎は明治六年に金沢に生まれ、東京帝国大学農科大学を卒業後、農業学校や高等農林の教師を務め、三十四年に新設された愛知県立農林学校の校長として赴任し、安城市を拠点とし、教育者、農政家、さらに農村子弟の養成にあたった。その特徴は農村と農民がその使命を常に自覚し、新しい時代における農業経営や理念を身につけることを促すところにあり、全国各地での講演は五千回近くに及んだという。

大正四年には私財を投じ、三重県鈴鹿市に「我農園」を開き、これが「我農生」を名乗るきっかけになっただろう。また昭和四年には「神風義塾」を開設する。その命名からわかるように、これは「農村自治」よりも、「愛国農民」の育成を謳い、上部構造の「皇国」に接近するナショナリズムへの変貌を告げている。ここにも「大東亜神話」へと絡め取られていく農本主義者の姿が垣間見える。

だが戦後に安城が日本のデンマークと呼ばれるようになったのは、山崎が唱道した農業多角経営によるとも伝えられていることを付記しておこう。

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