出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話534 押川春浪、武俠世界社、興文社

前回、大橋省吾の文武堂は彼の死とパラレルに衰退していったのではないかと述べておいた。それを示すかのように、博文館の『冒険世界』の明治四十四年新刊活躍号巻末の「博文館出版図書抜萃目録」において、これも前回文武堂の出版物として挙げた『玉突術続篇』や『諸鳥飼養全書』も含まれていて、文武堂が大橋の病もあってか、博文館に吸収されたように見受けられる。

この『冒険世界』はさすがに一世紀以上前の雑誌でもあり、背もはがれ、ばらばらになる寸前の状態である。それでもB5判本文一二八ページの奥付は編集兼発行人として押川方存、春浪の本名が記され、また巻頭には彼の読切武俠小説「強者と犠牲」、続いて連載俠骨小説「頑強壮漢」完結編がすえられ、この号が紛れもなく春浪の手になるものだということを教えてくれる。それに博文館ならではの新年号ゆえか、巌谷小波の読物「獅子の眼と人間の眼」、坪谷水哉の随筆「洋行中の大晦日と元日」も掲載されている。また「謹賀新年」として、春浪の他に、『冒険世界』の主要メンバーである河岡潮風、井澤衣水、山中古洞、小杉未醒、阿武天風の連名で、「併せて読者諸君の御活動を祈る」との言が寄せられている。

春浪は親戚筋の桜井鷗村を通じて、博文館の『少年世界』主筆の巌谷小波に紹介され、明治三十三年に処女作『海底軍艦』を博文館から刊行する運びになる。そして春浪は小波が主宰していた文学サロン木曜会に入り、そのメンバーの生田葵山が大学館の文芸誌『活文壇』の編集に携わっていたことから、大学館と親しくなり、二冊目の単行本『航海奇譚』などの十一冊を出すに至る。また三十七年に春浪は博文館に入社し、日露戦争の始まりに伴って、『日露戦争実記』とともに創刊された、写真や図版を主体とする『日露戦争写真画報』の主任記者、後に『写真画報』と改題された際には編集長となる。後者の廃刊後の明治四十一年に『冒険世界』が春浪を主筆として、「全世界の壮快事を語り、豪胆、遊俠、磊落の精神を鼓舞し柔弱、奸侫、堕落の鼠輩を撲滅せんがために出現せしなり」の一文とともに、創刊される。
海底軍艦(『海底軍艦』)

その一方で、先の『冒険世界』にも見えているように、春浪はスポーツ社会団体の天狗倶楽部を結成し、深くスポーツ界に関わり、野球、相撲、柔道、ボード、マラソン、テニスなどに情熱を傾け、『冒険世界』主催でスポーツ大会をも開催している。その中心である天狗倶楽部のメンバーには横田順彌が『明治バンカラ快人伝』(光風社出版)で取り上げている『冒険世界』を表象するような中村春吉、前田光生、吉岡信敬たちがいて、春浪に寄り添っていた。

しかしこれは横田順彌、會津信吾の『快男児押川春浪』においても、記録が残されていないので不明だとされているが、春浪は博文館を退社し、明治四十五年に、やはり主筆として『武俠世界』を創刊する。武俠世界社発行、興文社発売で、こちらは未見だが、『冒険世界』と同様に、『日本近代文学大事典』に立項があり、春浪の武俠小説と友人たちの読物や論説文を中心とする青少年向け雑誌であり、全体として国権的ナショナリズムに満ちていて、天狗倶楽部がそれを支えていたとされる。しかし大正三年に春浪が没すると、大正デモクラシーの勃興と相俟って、その勢いは弱まり、『武俠世界』も衰退に向かったとされる。
快男児押川春浪(徳間書店版)

この『武俠世界』は先述したように見ていないけれど、武俠世界社発行の書籍を入手している。それは大正五年八月発行、十月訂正十一版の川合春充『強い身体を造る法』で、著者は本連載142の『国民医術天真法』の肥田春充と同一人物である。これもそこで既述しておいたが、川合の兄の信水は、押川春浪の父方義が設立した東北学院神学部を出て、その教師などを経た後、キリスト教伝道に終始した人物で、押川父子と川合兄弟の結びつきは強く、春充は天狗倶楽部の近傍にいたはずだ。そうした関係から、巻末広告に見える「川合式強健術」と称される『心身強健術』に続いて、『強い身体を造る法』も刊行されたと思われる。

『強い身体を造る法』の巻末広告には第四十版の『心身強健術』の他に、武俠世界社編の『四十八手と星取』『荒木又右衛門』『木曽義仲』『模型飛行機製作法』『大久保彦左衛門』『一休和尚奇伝』『名僧奇僧快僧』などに加え、春浪『人形の奇遇』、ルブラン原著、三津木春影訳『古城の秘密』も並んでいる。これらは興文社と銘打たれているが、奥付にある発売所を意味していて、発行所は武俠世界社で、これらはすべて『武俠世界』関連書籍だと見なしていいだろう。
人形の奇遇(『人形の奇遇』)

そして発行者は日本橋馬喰町の鹿島光太郎となっていて、この住所は発売所の興文社とまったく同じなので、鹿島が発売責任者ということにもなる。ここで興文社とその経営者にふれておかなければならない。まず『出版人物事典』を引いてみる。

 [石川寅吉いしかわ・とらきち]一八九四〜没年不詳(明治二七〜不詳)興文社代表。東京生れ。開成中卒。安政年間に創業した版元を、一九二四年(大正一三)株式会社興文社と改め、代表となる。中等教科書や英語関係書、また、『日本名著全集』などを刊行した。一九二七年(昭和二)円本時代の全盛期、菊池寛・芥川龍之介編纂の『小学生全集』を出版、アルスの北原白秋編纂『日本児童文庫』と激突、白熱的競争、泥仕合を演じ、訴訟にまで発展、わが国出版史上、また昭和文壇史上でも空前の事件として伝えられている。太平洋戦争中に故人となり、後継者がなく、戦後も復興しなかった。

ここに鹿島光太郎なる人物は出てこない。だが鹿島と興文社の名前は、山口昌男の『「敗者」の精神史』(岩波書店)の春浪と武俠世界社にふれたところで、「興文社の社主は鹿島光太郎という人物で、神田の地主」として紹介されている。そして興文社は小石川区三軒町にも広い邸宅があり、そこに『武俠世界』の最初の編集室が置かれ、川合春充も住んでいたと述べられている。ここで『武俠世界』と川合はリンクするのだが、鹿島に関したはずっと不明のままだった。
「敗者」の精神史

その疑問が解けたのは、藤井誠治郎の遺稿『回顧五十年』(同刊行会、昭和三十七年)を読んだことによっている。藤井は取次の大東館を経て、日配の理事となり、戦後にはその清算代表者、続いて取協理事長を務め、戦前の出版社や書店についての遺稿が残されていたのである。そのうち興文社に関する回想をたどってみる。興文社の創業は江戸の享保年間で、市内屈指の老舗書肆だった。初代石川治兵衛の頃は錦絵と地本類販元であったが、明治時代に入り、三代目治兵衛は営業方針を変え、小学校教科書発行を試み、業績を上げた。だが惜しくも夭折し、すず未亡人の経営となるけれど、支配人鹿島長次郎と再婚し、それを機にして、鹿島は中等教科書出版に進出し、さらに業績を発展させた。藤井はすず未亡人と鹿島の結婚に至るエピソードを大きく取り上げているが、それは省く。その後に『武俠世界』創刊となるのだろう。藤井の回想を引く。

 明治四十四年同社から柳沼沢介編集で、押川春浪の雑誌『武俠世界』が発行され好評を博した。柳沼氏は十六歳の時興文社に入り鹿島氏を扶けてその発展に尽したが、その後退社と共に雑誌は同氏の手に移り、上野桜木町の自社(武俠世界社)から続刊し(中略)、鹿島氏はその後選ばれて東京書籍KKの社長に就任したが、大正十五年故人となった。六代目社長には鹿島氏の甥石川寅吉が就任した。(後略)

「後略」としたのは先の石川の立項とまったく重なるからである。これも先に挙げた興文社の円本時代の『日本名著全集』『小学生全集』の奥付にその名前を見出す石川寅吉は六代目社長だったことになる。なお『日本名著全集』については本連載423を参照されたい。恐らく大正前半に武俠世界社の発行者だった鹿島光太郎も、やはり鹿島の縁戚者だったのであろう。

また柳沼に関しても、かつて「武俠社・柳沼澤介」(「古本屋散策」56、『日本古書通信』平成18年11月号所収)を書いているが、武俠世界社を暖簾分けのようなかたちで引き継ぎ、後に武俠社と改名したと推測される。


[関連リンク]

◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら