本連載「混住社会論」の読者とおぼしき未知の人物から著書を恵送された。それは篠原雅武の『生きられたニュータウン』で、サブタイトルは「未来空間の哲学」とある。著者紹介によれば、一九七五年にニュータウンで生まれ育ち、専門は哲学、都市と空間の思想史と記されていた。篠原は私の息子たちとほぼ同世代ということになり、彼らに共通するのは高度成長期後の産業構造の転換により、消費社会を背景にして成長してきたことだとわかる。それを郊外やニュータウンに当てはめてみると、私は先住民にして戦後の郊外一世、篠原はニュータウン二世に位置づけられるだろう。
前々回のカレン・テイ・ヤマシタの日系三世ではないけれど、あらためて郊外やニュータウンも、その歴史の進行と集積、世代の移行からして、すでに二世どころか三世の時代を迎えていること、そしてそうした世代が郊外やニュータウンを研究する時代になったことを実感させられる。それは日系三世のヤマシタが人種の混住する文化環境、ドラスチックな時代変化と社会状況をくぐり抜けてきたように、二世や三世たちの郊外やニュータウンもまた同様で、それらのトポスが私などの世代の風景とは異なるイメージ、及び多くの差異を伴う生活空間として体験され、考察されてきたことを意味していよう。そのようなアングルから、篠原の著書も提出され、それはエピグラフに掲げられた中原中也の「朝の歌」からも伝わってくる。
篠原はまず「序文」において、ニュータウンは理論と計画に基づく人工的な都市で、その多くが丘陵や海浜の埋立地に巨大な規模で建築され、団地を主要な構成要素とすると始め、その「独特の生活空間」を提出しているので、それらを抽出してみる。
ニュータウンの空間は、透明で、平穏である。そして、この透明感、平穏には、どことなく紛い物めいた雰囲気がある。透明で平穏であるこの状態に現実感がない。
ニュータウンは、現実に存在している。にも拘わらず、そのなかで起きていることいが、現実のことのように思えない。ニュータウンという空間世界に特有の事を考えていく手がかりは、この感覚にある。
それでもニュータウンは実在している。団地があり、芝生があり、街路があり、公園がある。つまりニュータウンもまた実在の世界であり、それ特有の空間性がある。その内で起こる出来事や言葉のふるまいがたとえ固有名を欠いたものと思われようとも、固有名を欠くというあり方において、実在している。
このようなニュータウンの外との相互接触や相互浸透性の欠落に起因する透明性と非現実性を足がかりにして、篠原はニュータウンという世界、さらにその歴史における変化を問うていく。それはこれまでのニュータウンに関する概念枠としての新しい生活様式の母胎、その一方で農村や里山の破壊といった図式を超え、老朽化、建替えも含めた住環境再構築という現実の課題へともリンクしていくものとされる。おそらくこの二分法は、前者が『〈郊外〉の誕生と死』の私などの先住民と連なる郊外一世、後者が篠原たちの郊外二世のポジションだという判断によるのだろう。ただ私の場合はそれだけにとどまっておらず、郊外の果てへの旅を通じての混住社会のあり方を模索する立場にあるし、本連載もそのために書かれている。
それはともかく、篠原は安部公房の『燃えつきた地図』や建築家、都市理論家クリストファー・アレグサンダーの『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』(稲葉武司訳、鹿島出版会)、丹下健三門下の黒川紀章による、篠原が育ったらしい湘南ライフタウン、同じく磯崎新の「超都市」時代、ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』(未邦訳、”Ecology without Nature”, Harvard UP)などをたどり、ニュータウンの誕生とそれらの形象が参照され、トレースされていく。
そして続けて戦後の日本における都市を巡る思想として、丹下とメタボリズムに連なる黒川などの建築家たちが召喚され、巨大都市化と分譲マンション問題も言及される。その近代都市組織化の論理に関して、やはり丹下の参謀浅田孝の『環境開発論』(鹿島出版会)を俎上に載せた後、「現在、ニュータウンでは、効用と機能性のもとでつくりだされた世界自体が老朽化し、崩壊を始めている」という状況へとたどり着く。
そうして多木浩二の『生きられた家』(岩波現代文庫)が開かれる。同書の初稿は、篠原が生まれた一九七五年に篠山紀信の民家写真集『家』(潮出版社)のテキストとして書かれたもので、それは出版社と版を変え、四十年以上にわたって読み継がれてきた。これは住むという営みが空間の中に定着することによって家が成立したこと、それが農村の民家に象徴され、家はただの建築物ではなく、生きられる空間であり、生きられる時間であることを考察した一冊といえよう。このタイトルが精神病学のミンコフスキーの『生きられる時間』(中江育生、清水誠訳、みすず書房)から取られていることは明らかだが、篠原の『生きられたニュータウン』も多木の著書のタイトルを反復しているし、彼は『生きられた家』への応答として、この一冊を書いたと述べている。
しかし篠原は多木の初稿と篠山の写真集の刊行された七五年生まれであり、「民家のような家の住んだことがない」ので、ニュータウンにそれを求めることになったのである。民家のような豊穣な意味はなくても、ニュータウンに人が住むようになって半世紀が経ち、そこで生活を営んできた人々が多く存在するし、まさに「生きられた時間」があったのだ。それゆえにその空白と廃墟化を直視し、そこから脱出し、未来へとつなげようとするのだが、それはまだ充分なるイメージの開花へと至っていないように思われる。そしてそこに郊外二世のアポリアが立ちはだかっているのだろう。
さてここで「民家のような家に住ん」できた私の立場を語るために、自著の『民家を改修する』にふれることにしよう。実は世代と内容は異なるにしても、両書に登場する人物や書物は共通していて、それは篠原と私がともに「生きられる」トポスを求めていることで生じた結果ではないだろうか。
拙著は二〇〇五年から六年にかけての二年間にわたる自宅の築六十年を経た民家改修の始まりから終わりまでを詳細に記録した一冊である。私は生まれてほとんどずっとこの家で暮らし、妻もそれは三十年に及び、息子たちもこの家で十八歳までを過ごしていた。ところが何の手入れも施さずにきたために、家の老朽化、高齢化に伴う生活の様々な不都合が目にみえて生じるようになり、それらのための改修に必然的に迫られたのである。そのことを考えているうちに、今和次郎の『日本の民家』(岩波文庫)を思い出し、古民家的改修を目論むようになった。
といって改修のディテールに通じていたわけではないので、とりあえず旧知の綜合設計事務所に相談することにした。それには『環境開発論』の浅田孝についても尋ねてみたいと思った事情も絡んでいた。この設計事務所を創業したのは丹下健三研究室出身の山梨清松で、磯崎新や黒川紀章の兄弟子に当たり、丹下の分身なる浅田もよく知っていると思われたからである。たまたま私の訪問時に山梨が事務所にいたので、浅田のことを聞くと、彼は丹下研究室の古い名簿を持ってきた。そこには浅田や山梨に続いて、磯崎や黒川ばかりか、藤森照信の名前も並んでいて、当時の丹下研究室事情を話してくれて、そればかりか、まったく思いがけないことに、私の民家改修も山梨の鶴の一声ともいうべき言葉によって、その設計を引き受けてくれることになったのだ。この綜合設計事務所も建築設計・都市設計の他に「環境設計」も柱にしているので、磯崎や黒川と同様に浅田の影響を受けているのは明らかだったから、これで私の家の改修計画も浅田の唱える「環境」と無縁ではなくなったことになる。
ちなみにそれからしばらく後で、私も「浅田孝『環境開発論』」(『日本古書通信』二〇〇九年一月号所収)を書いている。そこで彼が建築と都市計画を文明史的視点で捉え、「環境」という言葉をキーワードとし、起源的に用いたこと、また実際に六〇年代から人口、車、公害といった都市環境の混乱、郊外の乱脈なスプロール開発、三十年後の控えている老齢人口の増加と若年労働力の急減を踏まえ、ゴミ問題、地球温暖化、バリアフリー、エコロジー、リサイクルなども、その「環境」の論の中に取りこんでいたことなどにふれておいた。そしてまたその『環境開発論』は短絡的に田中角栄の『日本列島改造論』(日刊工業新聞社、七二年)に引き継がれたのではないかという推論についても。
そのような経緯と事情によって、私の民家改修プロジェクトはスタートし、それにゼネコンや宮大工も加わり、ひとつの民家改修物語であると同時に、私の家族の物語をも織り成すものとなった。そしてこれもまた思いがけないことだったけれど、近郊のニュータウンに六ヵ月仮住まいし、篠原のいうところの「独特の生活空間」を体験することになった。それは「白昼夢の世界」にいるような錯覚をもたらしもした。それについては拙著の1「民家を改修する」に記しておいたし、2「家と私」では家族の物語の註的なものも付け加えることになった。いささか羞恥の念を禁じ得ないが、ここで再録しておく。
私はこの家に何かの痕跡を残そうと思った。何百年も前から営まれてきたであろう一族の営みの形象としての民家、住むことに示された民衆の知恵、知られざる大工職人たちの高度な技術、歴史の佇まいを含め、家族や死者の記憶、戦後の生活史、家族の悲しみや喜び、それらのすべてを封じこめようと思った。
考えれば考えるほど、住むということと家は人間にとって根源的な体験であり、死ぬまでその呪縛がとけない経験であるのかもしれない。……
もちろんこれは『生きられた家』を念頭に置き、コレスポンダンスしているものでもあり、実際に3「住むことの変容」において、戦後の建築と家の変容をたどり、そこに多木の「民家はまもなく消えてしまうだろう……」というセンテンスを引用しておいた。これは篠原も『生きられたニュータウン』で引用している一文に他ならない。
この拙文をもって、これも恵送された『生きられたニュータウン』へのささやかな応答としよう。