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古本夜話536 ヴェブレン『有閑階級論』と『特権階級論』

前回、大正時代に続けて、新渡戸稲造『武士道』に出てくるカーライルの『衣裳哲学』が翻訳刊行されたことを既述したが、同じくヴェブレンの『有閑階級論』も大正十三年に而立社の『社会科学大系』第十一巻として、大野信三訳で出されている。戦後になって、陸井三郎訳『有閑階級論』(『世界大思想全集』第2期17所収、河出書房)、現在は『有閑階級の理論』として、小原敬士訳の岩波文庫、、高哲男訳のちくま学芸文庫なども訳出に至っているが、いち早く大正時代に出版されていたことになる。

有閑階級論 有閑階級の理論 (岩波文庫有閑階級の理論ちくま学芸文庫

ちなみに原書の刊行は一八九九年であり、新渡戸のBushido と同年の出版とわかる。まさに彼はリアルタイムでヴェブレンの新著を読み、それを英文自著に取りこんでいたのである。

新渡戸の同時代人としてのヴェブレンのプロフィルを、『岩波西洋人名辞典』から引いてみる。この辞典は昭和三十一年の旧版ではあるけれど、逆にそのことでシンプルにしてリアルな立項になっているので、その前半部分を示す。
岩波西洋人名辞典

 ヴェブレン Veblen Thorstein Bunde 1857.7.30−1929.8.3.
 アメリカの社会学者、経済学者、シカゴ大学教授(92−1906)。その書《有閑階級論The theory of leisure class, 1899》や《The theory of business enterprise, 1904》は学会の注目をひいた。スタンフォード大学教授(06−09)、ミズーリ大学講師(11−18)、連邦政府嘱託、新社会科学学院講師等を職とし、また雑誌〈ダイヤル〉の編集にも携わったが、のち文筆生活に入り(22末)、非社交的な性格のために、カリフォルニアのパロアルトに隠棲(26)、貧困と孤独のうちに生涯を終えた。
The theory of leisure class The theory of business enterprise

これに付け加えれば、『有閑階級論』は先駆的な消費社会をめぐる経済書であるばかりでなく、すでにポトラッチに注目しているように、消費行為に関する社会学文化人類学のベースをも形成したように思われる。またヴェブレンはノルウェイからの移民の子として農場で生まれ、ミネソタ州の移民開拓地で育ったことから、アメリカの「有閑階級」の生活とは無縁であった。長じて大学に入り、アカデミズムや研究の道へと進み、結婚して初めて上流階級の中に身を置くことになったが、そのような生活になじむことができず、孤独な生涯を終えることになったとされる。それゆえに「有閑階級」の富の蓄積の格差のパフォーマンスとしての「衒示的消費」が問われ、それをコアとするアメリカ近代資本主義社会に対しての批判者となったと考えられる。そして当然のことながら、近代資本主義に立脚する企業批判へと向かい、先に英文タイトルで挙げられた『企業の理論』(稲森佳夫訳、南北書院、昭和六年)のような著作も上梓するに至ったのである。

これらの『有閑階級論』『企業の理論』の訳書は未見だが、前者に続いて翌年の大正十四年に新光社から出された猪俣津南雄訳『特権階級論』は入手している。この原本はヴェブレンが一九一九年に上梓した最新の著作The Vested Interests and the Common Man(異版としてThe Vested Interests and the State of the Industrial Arts)に基づくもので、猪俣は巻頭の「訳者のノート」に、つぎのように書いている。

The Vested Interests and the Common Man
 『特権階級論』なるものに関して当然に起こらねばならぬ一般的な疑問、―それが現時の如何なる社会的事実に基づいて存立するか? 特権は、彼等に何を与へつゝあるか? 彼等の支配下にある二十世紀文明社会は、それに依て何を得、何を失ひつゝあるか? 特権なき普通人大衆―眼覚め、或は眼覚めない―は、その事実を何と見るであらうか? 見はじめつゝあるか? そもゝゝ社会の進化は、かゝる、特権の存続を許すであらうか? 許さぬとすれば、何故に? ―これらの問に対する科学的解答が、すくなくともその堪能なるものゝ一つが、この書物のうちに見いだされると信ずる。

これは続けて置かれた「原著者の序文」と照応していて、そこでヴェブレンは同書のめざすところを述べている。それは企業産業の根底に横たわる法律慣習の諸原理と十八世紀末に抬頭した産業の新秩序が生み出した物質的諸条件の間に「時と共に生じ来れる矛盾」を問い、それによってもたらされた「市民的、政治的諸困難に関する思索」の試みであると。

しかしこの『特権階級論』に表出しているヴェブレンの言説は、彼がアカデミズムに安住することを許さなかったであろうし、それは先に引いた彼がたどらなければならなかった大学や職業遍歴にも投影されているはずだ。その第五章「既得利権」において、アメリカの私的企業経営によってもたらされた高度な繁栄は「此国の例外的に大いなる自然的資源」の「合法化された奪略の課程」、それに移民による「継続的なる人口の増加及び展開」を通じての絶えざる市場の拡大だと指摘している。これらの二つの要因がアメリカ近代資本主義の発達に不可欠だったのは自明だが、その私的企業の「既得利権」に関して、ここまで断言することはやはり反発と批判を招いたに相違ない。

第六章の「国家の神権」にあっても、同様の問題設定がなされ、戦争のメカニズムにも十八世紀原理と産業の新秩序の関係から生じたと分析される。だがそれはともかく、この章は国家と戦争、民主主義が論じられているゆえか、とりわけ訳文に伏字処理が多く施され、何と二ページにわたっている箇所もあり、細部への理解を拒む有様である。そしてヴェブレンの分析は第八章の「既得権者と普遍人」のところで、アメリアの農業と農民に向かい、そこから新たな農業サンジカリストの出現が言及され、そこで終わっている。これらも肝心な部分が伏字となっていて、その真意が読み取れないけれど、ヴェブレンの出自から考えてても、重要な結論の一部を形成していることになるのだろうか。

また猪俣はこの『特権階級論』の翻訳からほぼ十年後の昭和九年に改造社から『踏査報告窮乏の農村』岩波文庫)を刊行するが、これらもヴェブレンのいくばくかの影響があるように思われる。
踏査報告窮乏の農村

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