それは母親のエプロンのすえたような洗濯くさい匂い、父がとにかく父としてどこかにいるという安心感、といったようなものの堆積にすぎない。
しかしそういうものがなければ実は人は生きられない。
前回、ニュータウンに半年近く暮らしたことにふれたが、そこは「団地」と呼ばれていたけれど、それは郊外特有の新興住宅地の名称で、集合住宅の団地そのものは存在していなかった。
そのことに加えて、私は『〈郊外〉の誕生と死』や本連載などで団地に関しても言及してきたが、それらは『日本住宅公団20年史』や安部公房や島田雅彦などの小説をベースとするもので、団地に住んだり、それを身近に体験することなく、生きてきたことになる。しかし『〈郊外〉の誕生と死』以後、団地の老朽化と住民の高齢化、それに伴う限界集落化と衰退が語られる一方で、前回の『生きられたニュータウン』の篠原雅武がニュータウン二世であるように、団地二世も同様に団地についての歴史や記憶を語り始めている。
それらは原武史『滝山コミューン一九七四』(講談社)や『団地の空間政治学』(NHKブックス)、青木俊也『再現・昭和30年代 団地2DKの暮らし』(河出書房新社)、『僕たちの大好きな団地』や長谷聰+照井啓太『団地ノ記憶』(いずれも洋泉社)などで、これらはかつて紛れもなく団地が「生きられた空間」であったこと、まさに「生きられた団地」が存在していたことを教示してくれる。さらに最近出たばかりの長谷田一平『フォトアーカイブ昭和の公団住宅』(智書房)は、団地の一九六〇年代から八〇年代にかけての日常生活、サークル活動、運動会、夏祭りなどの写真の集成となっていて、ここにも「生きられた団地」の姿が刻印されている。農家や商家といった民家が農業や商業に基づく生活を体現しているように、団地もまたサラリーマンの家族の生活のトポスそのもの、高度成長期の象徴に他ならなかった。
だがそれらの記録や写真以上に「生きられた団地」を現前させてくれるのは、小田扉のコミック『団地ともお』である。これは二〇〇三年から『週刊ビッグコミックスピリッツ』に連載された作品で、現在第26巻まで刊行され、その第1巻裏表紙には次のようなキャプションが付されている。「4年3組、木下ともお。父さんは単身赴任で、母さんは怒りんぼで姉ちゃんも怒りんぼ。29号棟に住んでいます。魅惑の脱力ギャグと深い味わいで大満足の小学生団地まんが!!」
『団地ともお』の物語の始まりにあって、時代設定は二〇〇三年とされているけれども、ともおはずっと4年生のままである。また一家がこの団地に引越してきたのは二十年前で、ほどなくともおが生まれたとされているが、それらの整合性は問わないことにしよう。時代設定として、この連載が始まった〇三年が便宜的に刷りこまれているにしても、『団地ともお』に流れている時間、生活と社会風俗、学校風景は八〇年代から九〇年代にかけてのニュアンスを彷彿とさせる。それにこの給水塔のある枝島団地も七〇年代に建設された視覚的にアクセントがあるポイントハウスと推測され、全部ではないにしても、分譲団地も含まれていて、ともおの住んでいるのも、それだと思われる。建設時は周りに何もなく、夜になると真っ暗で、団地の入口に設置された自販機の明かりを頼りに家路についたが、それが撤去されたのはこれも二十年前とある。したがって季節は進行し、明らかに年も変わっていても登場人物はずっとそのままで歳をとらないけれど、この枝島団地というトポスを観測としてみれば、とりあえずは三十年以上の歴史を有し、それゆえに『団地ともお』という物語も立ち上がってくるのだとわかる。
この第3巻の最初のところに、見開き二ページで登場人物たちの名前とポートレートが掲載されているので、それを参照し、『団地ともお』のキャラクターを紹介してみる。
*ともお | /友夫、団地生れの小学4年生。 |
*母さん | /哲子、スーパーしらとりのパートタイマー。 |
*父さん | /鉄雄、ハウスメーカーの係長で、単身赴任している。 |
*姉ちゃん | /君子、中学2年生。 |
*じいちゃん | /鉄雄の父で、ばあちゃんに先立たれ、自宅で一人暮らし。一緒に住むことを夢想している。 |
*よしもと | /団地に住むともおの同級生。 |
*みつお | /同、中学受験をめざす。 |
*よしのぶ | /同、ともおとパンの大食い勝負に挑む。 |
*根津 | /同、2組の生徒。みつおと親友。 |
*ケリ子 | /同、景子。スケボーにこだわる。 |
*より子 | /同、ケリ子と一緒に書道教室に通う。コンビニの兄ちゃんに恋する。 |
*先生 | /中学時代はグレていたが、ひどくよき教師に出会い、小学校の先生となる。しかし道徳の授業のことで悩んでいる。 |
*コンビニの兄ちゃん | /裕二、コンビニのたにしマート経営者。父親の遺産としての団地の住人。 |
*青戸さん | /高三の受験性だが、ケリ子から「超バカ」といわれるほど成績が悪い。 |
*坂上さん | /坂の上に住む足が不自由な高校生で、数学がまったくできず、高一を三回留年。 |
*ガリベン君 | /沖田、団地の住人で、君子の同級生。 |
*島田さん | /団地で一人暮らしの老人。団地委員。 |
*樫野さん | /同、89歳。 |
*玉川さん | /同、双生児の弟で兄と間違われる。 |
*間さん | /同、元裁判官。たにしマートでアルバイト。 |
*スポーツ大佐 | /ともおたちが愛読する週刊誌連載コミックの主人公。 |
*あらま選手 | /団地の住人で、プロ野球選手。メリーゴーランズのピッチャー |
これらの人々が第10巻までの『団地ともお』の主要な登場人物たちであり、小学生、中学生、高校生、教師、いくつもの家族、老人たち、コンビニなどの商店街の人々が物語を織り成し、絡み合って展開されていく。それにコミックの主人公、さらにいぬやねこやカラスなども加えることができる。そして最初は夏休みや成績連絡表から始まっていき、『団地ともお』は表層的に小学生の物語の体裁をよそおっているけれど、孤独な老人までをも優しくくるんだ三世代の団地に象徴される混住物語の色彩を帯びてくる。そして『団地ともお』の魅惑のコアとは「脱力ギャグ」などではなく、ひとつの家族の在り方、そこから次第に物語の中に浸透していく「友情」や「信実」のかたちではないだろうか。
それをいち早く示しているのは「あの坂を上ってくともお」(第2巻第2話)であろう。団地の上にある坂をともおとよしもとが走っていると、その途中の家の窓から、知り合いでもない坂上さんが「がんばって、メロス!!」と声をかける。次の日ともおはまたしも窓から顔を出している坂上さんを見つけ、林の中でとった、あまりおいしくないけれど、甘いからとりあえず食べる野イチゴを手みやげにして、彼女を訪ねる。すると彼女はそれを味見し、うなずきながらいう。
「野イチゴ食べてたから、メロスの口の周りは赤かったんだ。」
「…… そのメロスって何?」
「『走れメロス』のメロスよ。友達を助けるために血ヘド吐いて走るお話。」
「ヘー。」
ここでいつの間にか、口の周りが赤いともおと血ヘドを吐いて走るメロスが同一視され、そのことで坂上さんが裏からともおに「がんばって、メロス!!」と呼びかけた事情を知らされるのである。だがともお=メロス説は「ギャグ」ではなく、太宰治の「走れメロス」(『富嶽百景・走れメロス他八篇』、岩波文庫)の中で、走り続け、「口から血がふき出た」メロスと野イチゴで口の周りが赤いともおはまさに重なるキャラクターとして設定されている。
そして坂上さんはともおに『走れメロス』を貸してくれる。そのタイトル表紙には『こども文学全集9』とあるだけで、太宰の名前はない。
ともおはその本に熱中し、それはよしもと、みつお、よしのぶ、ケリ子まで巻きこみ、また貸しされ、用事を頼まれると、「血ヘド吐くまで走って買ってくる」というセリフが流行るようになる。それはこれからの物語の展開にあっての、ともお=メロス説の、団地の小学生仲間におけるお披露目のような役割を果たしているともいえるであろう。
しかしケリ子は『走れメロス』を亡くしてしまう。ともおは謝るつもりで、坂上さんを再び訪ねる。そこにケリ子が、これもメロスのように走ってきて、ジュースをこぼし、汚れてしまった本を出して謝る。ともおはケリ子に「ウソをついてたのかよ!?」、「お前が悪い!!」と責める。しかし坂上さんはいうのである。
「いやメロス、悪いのはあなたよ。
あの子…あなたの為に怒られるの覚悟でこの本を届けにきてくれたんでしょ?
見損なったわ、メロス。友達にあんな事を言うなんて・・・」
ここではケリ子がメロスに転じ、ともおは「悪者」とされ、坂上さんから絶交される。だがケリ子はママが焼いたケーキを手にし、本を汚したことへの謝りにいこうとし、ともおも誘う。二人は一緒に歩きながら、『走れメロス』で一番面白かったのはメロスが犬を蹴る場面だったとお互いに話し、そこでこの一編は終わっている。
それは太宰の「走れメロス」で、「犬を蹴とばし」とあるシーンをさしていて、作者の名前も「友情」や「信実」といったテーマもあからさまに提出されていない。それが坂上さんが貸してくくれた本の表紙タイトルに太宰の名前が見えないことにつながっているのだろう。だが「あの坂を登ってくるともお」には太宰の作品のこまやかにして優しいエッセンスがつめこまれ、また様々な他の作品にも投影されているように思える。それは「あの坂を登ってくるともお」に一編をはさんで続く「仲良きことは美しいのかなともお」(同巻第4話)で、思いがけずに表出している。何とコンビニの兄ちゃんとよしもとが、コンビニで「友達」に関する論議を交わすのである。『団地ともお』にあってはコンビニすらも、そのようなトポスと化してしまうのだ。
そして死や病気や不幸にしても、一旦は激しく露出することがあっても、すぐに日常生活の堆積の中に静かに回収されていく。そうした好編を「隣の芝生が赤すぎるぜともお」(第4巻第9話)に見ることができる。それに先立つ「姉ちゃんの生活も見たいぞともお」(第2巻第5話)によれば、姉ちゃんの同級生ガリベン君は勉強が苦手だが、三食とも外で弁当を食べ、一生懸命なのは弁当を食べている時だけなので、「ガリ弁」と呼ばれるようになったのである。その理由が「隣の芝生が赤すぎるぜともお」で明かされる。
(第4巻)
同じ団地の住人のガリベン君の母親はアル中、父親は家庭内暴力の日常で、「この家はもうだめかもしれない」と思いながら、彼は暮らしていた。そのために、自分で三食弁当を作り、キズも絶えないのである。姉ちゃんの君子の誘いで、弁当を持って木下家で食べるようになるが、「家庭の団欒」をじゃまするのではないかと遠慮がちだった。それをとがめた父親はガリベン君を殴り、それを止めに入ったのりおまで蹴り倒されてしまった。ガリベン君は初めて怒りを見せ、父親を逆に殴り倒し、それでいて抱き起こし、かつぎ上げ、ともおに謝りながらいうのだ。「うちの家族、ヘンでしょ? しかも一緒に暮らしているのに、それぞれの欠点を補ってすらない。家族でいる意味がないよね。うちの母さんは意志が足りないし、俺は頭が足りないし、父さんには愛が足りない。でも家族だからしょうがないんだ。」
ここにはひとつの諦念にも似た家族論とその哲学が語られているようにも思える。それならば、ともおたちの「家族の団欒」は何に支えらえているのであろうか。それは怒りんぼとされても、いつもエプロンをつけて登場してくる母さん、単身赴任のために顔もはっきり描かれていないが、精神的に家族とつながり、家族から絶えず帰ってくることを待たれている父さんの存在によっている。つまりエピグラフに挙げた江藤淳の卓抜なコピーである「母親のエプロンのすえたような洗濯くさい匂い、父がとにかく父としてどこかにいるという安心感」に支えられている。「そういうものがなければ実は人は生きられない」し、『団地ともお』という物語も成立しないのだ。
そのような家族のイメージと物語とを、このコミックは見事に描き出している。