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古本夜話543 人間社と『親鸞全集』

本連載540において、小説家の水守亀之助が随筆社と人文会出版部の経営に携わり、植村宗一=直木三十五が冬夏社で企画し、青野季吉に翻訳させたロープシンの『蒼ざめたる馬』が、この両社からも出されていたことを既述した。
『蒼ざめたる馬』

この時代における出版者としての水守と植村の関係についての証言は目にしていないが、植村もまた水守と同様に、編集者から出版者への道を歩んでいたのである。それは本連載539などでもふれたように、春秋社から始まり、冬夏社を経て、次に文芸雑誌『人間』を発行する人間社に接近していった。『日本近代文学大事典』の解題によれば、『人間』は里見紝、吉井勇、久米正雄、田中純の四が中心となり、大正八年に創刊された大正中期の有力な文芸雑誌とされる。第四号までは玄文社発行だったが、第五号からは人間社となり、そこで植村も編集に携わるようになったと推測される。そして第十六号から奥付編集人は植村に代わり、大正十一年六月まで全二十四冊が出されている。

残念ながら、未見であるけれど、『人間』には五百ページに近い大冊の号も出され、先の解題には「多くの作家を動員、忘れがたい名作が多く掲げられた大正文壇の『夕映え』を象徴する雑誌」という紅野敏郎の言も寄せられている。それもあって、タイトルが戦後の鎌倉文庫版の文芸雑誌『人間』へと踏襲されたのだろう。また編集人植村と先述したが、これは彼が人間社の発行人、すなわち経営者となったことを意味している。

しかしこれは植村鞆音の『直木三十五伝』(文春文庫)にも述べられているが、第二十四号を出したところで、人間社は倒産してしまったのである。そして広津和郎が『年月のあしおと』(講談社文芸文庫)で証言しているように、植村は自宅に訪ねてくる印刷屋、紙屋、製本屋などの債権者たちに対し、「出来たら払う。今はない」の一言で押し通し、「見事な撃退ぶり」を示したという。
直木三十五伝 年月のあしおと

さてその人間社の倒産前後における植村の金策がらみの仕事に関しては、先の評伝や山崎國紀『直木三十五』(ミネルヴァ書房)でもまったく言及されていない。それゆえにおそらく次のような事実は初めて取り上げられることだと思われる。手元に一冊本の『親鸞全集』があり、それは大正十一年六月刊行、定価三円七十銭、四六判上製六五〇ページに及び、裸本だが、定価からすれば、箱入だったと考えられる。奥付にある編輯者は植村宗一、発行者は宮下軍平、発行所は人間社出版部、発行元は二松堂書店となっている。その実態を示すように、本扉には人間社、二松堂発行とあるが、企画と編輯を植村と人間社が担当し、二松堂が製作費と発売所を引き受けたと見なせよう。
直木三十五

この『親鸞全集』は『歎異抄』から始まる親鸞の著作十三編を収録したもので、それに口絵として肖像の「鏡の御影」と真筆、また最後に「親鸞聖人伝」が付されている。近代における親鸞の復権は明治三十年代の『歎異抄』の再発見から始まっているし、本連載でもしばしばふれてきたように、明治後半は仏教書ルネサンスを迎えていたことからすれば、親鸞の著作も多くが出版されていたはずだ。植村は優れた企画編集者であったし、妻の実家は真宗西本願寺派の有力寺ゆえ、様々な伝手も得られたはずで、それらをまとめて一巻本全集にすることはお手のものだったと考えられる。「編者」としての「序」は次のように始まっている。

 親鸞は、自ら、愚禿、と称してゐたやうに、「かゝる浅ましき我等」人間を知り極めてゐた人である。「煩悩具足の凡夫とは即ち我等がことなり」と観て、絶えずその「罪悪深重、煩悩熾盛」に慟哭し、羞恥し、到底人間自らが、人間を救ひえぬと知り、如何ともすべき策がつきて「たゞよき人―法然上人―の仰せをかふむりて念佛申す外」といふ絶対他力の信仰を獲たのである。

そしてまた親鸞は「たゞ一生を、自分は罪の深い凡人であるといふ悲泣に送つた人である」ともいい、最後には親鸞とトルストイが重ねられるという解釈をも提出している。ここには文学や出版の問題に加え、以前に『トルストイ全集』を編み、現在『親鸞全集』を刊行しようとしている植村自身の心境も投影されているにちがいない。

それならば、植村と二松堂の宮下軍平の結びつきとは何かということになるのだが、本連載160「小川菊松、宮下軍平「書画骨董叢書」と今泉雄作『日本画の知識及鑑定法』」でふれているように、宮下の二松堂は「セドリ屋」という書籍専門の小取次からスタートし、出版も手がけるようになっていた。それは誠文堂の小川菊松も同様であり、これは推測だが、両者とも出版金融も手がけていたと考えられる。

その宮下に人間社の資金繰りに苦しんでいた植村がすがり、『親鸞全集』の一巻全集企画と持ちこんだのではないだろうか。それは植村への印税支払いを意味する検印紙への植村の捺印に表われていると判断できる。そうして人間社の運転資金の調達を図ったが、焼け石に水、もしくは時すでに遅しの上に売れなかったのか、人間社も倒産に至ってしまった。これは『人間』の第二十四号と『親鸞全集』の発売が同じ大正十一年の六月だったことにも表われているのではないだろうか。

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