前回のカポーティの『冷血』とほぼ時代を同じくして、アップダイクの『カップルズ』(宮本陽吉訳)が刊行され、日本でもほどなくして翻訳された。それは前者が一九五〇年代末のアメリカ郊外の犯罪をテーマとするノンフィクションだったことに対し、後者は六〇年代前半の同じく性と家族の問題をコアとする長編小説だった。
本連載8のハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』の中で、五〇年代におけるアメリカのセクシュアリティの変貌に関して、「キンゼー・レポート」「サンガー夫人の性革命」「女らしさの神話」「ピル解禁」「モンローのヌードカレンダー」などが挙げられていたが、『カップルズ』こそはその帰結としての六〇年代の性と家族の行方を描いた作品と見なすことができよう。それはまたこれも本連載37のリースマンの『孤独な群衆』とも重なるものである。
その舞台となるのは第一章が「ターボックスへようこそ」と題されているように、アップダイクが五〇年代後半から住んでいる町をモデルとしている。それはマサチューセッツ州プリスマ郡に属するボストン近郊の架空のターボックスとしてである。かつての植民地時代には教会を中心とする海港だったが、六〇年代からボストンの郊外として変容し始めていた。昔の名残りをとどめるギリシア風教会の尖塔の風見鶏から見られたターボックスの現在が、次のように描かれ、その鳥瞰図が提出されている。
ターボックスの中央部一マイル四方の中には、いまではプラスティック玩具工場に変ったメリヤス工場、四十軒に近い店舗、数エーカーの駐車場、何百軒もの小さな庭付き住宅があった。さまざまな家がまじりあっている。十七世紀の原型をとどめた塩入れ型のキンボール家、シューウェル家、ターボックス家、コグズウェル家が、緑地から放射線状にのびる不安定な、いかめしい風変りな名前の田舎道にそって並んでいた。屋根に手摺つきの物見台のある北部連邦特有の四角ばった家。織物のさかんな時期を表わしているけばけばしい邸宅。織物職人たちがポーランドから輸入した固い煉瓦でつくった路地が家までつづいている。ずんぐりしたヴェランダ、狭い煙突、辛子、パセリ、石墨、葡萄酒などのさまざまな色彩を組み合わせた下見板の、大恐慌前に建った中産階級の住宅。新しい造成地がパステル色のきれいな歯並をみせて、ずっと向うのインディアン・ヒルにくいこんでいた。その向うには、蔓のようにもつれあった道路、まっすぐに走るいまは使われていない一本の鉄道(……)
このターボックスに関するラフスケッチの中に、アメリカのひとつの町の歴史と産業構造の変化、戦前における中産階級の住宅地化、戦後の新興住宅化の開発、モータリーゼーションの発達に伴う鉄道の廃線などが見てとれる。さらにいってみれば、五〇年代から六〇年代にかけての郊外化によって、ターボックスそのものが旧住民と新住民の混住化を招来させたが、それは一方で旧住民とは異なる新住民たちだけの生活空間をも出現させたのであり、その変貌が『カップルズ』のテーマと物語の根底に携わっている事実に他ならない。
ターボックスの住宅地開発は口外特有の「家を売るんじゃなくて景色を売る」というキャッチフレーズによって推進されたようだし、主人公のピートが建築家であることも、それらを象徴している。ただし彼の建築事務所は不動産取引も兼ねていて、建築家であることが住むことの知恵や思想と結びついているわけではない。それは新住民たちも同様である。かくして十組の「カップルズ」がそのように郊外住宅地へと召喚され、登場してくるので、まずはそれらの「カップルズ」を紹介しておこう。
*ピート・ハネマ、アンジェラ /夫はオランダ移民の子で建築家、両親を交通事故で失い、大学を中退して軍隊に入り、日本にも駐留。妻は元小学校教師で、二人の娘がいて、双方が三十代半ば *フレディ・ソーン、ジョージーン /夫は精神分析医をめざしていたが、大学受験に失敗したために歯科医となる。反ユダヤ主義者。妻はフィラデルフィアの銀行家の娘。 *ケン・ホイットマン、フォクシー /夫は弁護士の息子で、ボストン大学助教授の生化学者。妻は何部の厳格な信仰に守られた家庭の出身だが、両親は離婚。ラドクリフ大学を出ていて、二十八歳で妊娠中。 *フランク・アップルビイ・ジャネット /夫はハーヴァード大学を出て、銀行の信託業務に携わる。妻は製薬会社のオーナーの娘。 *ハロルド・リトル=スミス、マーシャ /プリンストン大学での株式仲買人。妻は医者の娘。 *ロジャー・ゲアリン、ベーア /夫はスイス系の資産家とされ、無職だが、夫婦は贅沢な生活をしている。子供はいない *エディ・コンスタンティン、キャロル /夫は飛行機パイロット、妻は画家。 *ジョン・オング、バーナデット /朝鮮人系のマサチューセッツ工科大学の原子物理学者。妻はポルトガル系移民と日本人の混血。 *ベン・サルツ、アイリーン /夫は精密機械工学者。 *マット・ギャラガー、テリー /夫は建築家で、アイルランド系、ピートと軍隊をともにしたことで、現ア愛も共同仕事に携わっている。
これらのカップルズから見たターボックスの長所は「カントリー・クラブ」も「召使」もいないし、「単純に暮らすのは、贅沢よりずっとすばらしい」ことにある。「カントリー・クラブ」や「召使」に象徴される旧来の権威や階級システム、及び他者がいる家庭内雇用は姿を消しているし、戦前のような世間や社会も存在していない。それゆえにパーティを開いたり、バスケットボールやテニスなどのスポーツにいそしみ、暮らしていくことができる。そして「この町は奥さんの町ですもの」という言葉に示されているように、夫たちはターボックスから都市へと働きに出ていく存在であり、ウィークディはほとんど不在ということになる。かつてと比べれば、妻たちは解放されたかに見える。
それはジェローム・ビーティー・Jr が『女だけの時間』(小堀用一朗訳、東洋経済新聞社、一九六四年)でレポートしている同時代の「アメリカ郊外夫人の生態」とも通底しているはずだ。これは日本でいえば、やはり同時代の「団地妻」報告にも似て、優れたレポートとは言い難いが、それでも六〇年代のアメリカ郊外の妻たちの生態の一端が伝わってくる。ここにカリカチュア的に描かれているのは家庭電化、モータリーゼーション、郊外消費社会がもたらした郊外の主婦の変化、イリイチの言葉を借りれば、十九世紀を通じて女性に押しつけられてきた無償の経済活動としての「シャドウ・ワーク」(玉野井芳郎、栗原彬訳『シャドウ・ワーク』、岩波書店)の変容である。それらは夫婦の関係や家庭生活へも大きな影響を及ぼし、近代家族から現代家族へと向かうファクターであることは明らかなのに、そのことにはまったくふれられていない。そしてそのような「シャドウ・ワーク」の変容とパラレルに、アメリカ現代史も流動し、ケネディ大統領が暗殺され、ベトナム戦争も深刻化していたのである。
そうしたアメリカの六〇年代前半の社会状況の中で、『カップルズ』の性と家族の物語は展開していく。それは先に挙げた物語のイントロダクションと登場人物の紹介も兼ねた「ターボックスへようこそ」から始まっていくのだが、すでにこの章に出来してくるであろう事柄が予兆を漂わせながら、細心に書きこまれ、『カップルズ』の全体像とこれからの物語の行方のアリアドネの糸のようなオープニングシーンを提出している。
それは冒頭の「きみは新しく来たあの夫婦をどう思う?」というピート・ハネマの妻のアンジェラへの問いに象徴的に表出している。二人はパーティから戻ってきたこところで、寝室で着替えをしている。アンジェラは「まだ若いらしいわね」と答えているのだが、続いてその言葉と対照的に、彼女のもはや若くない三十四歳の肉体が描写される。「あの夫婦」とはケン・ホイットマンとフォクシーのことをさし、フォクシーは実際に二十八歳だった。この夫婦はかつてピートとアンジェラがほしいと思っていた海辺の家を買い、新たに移住してきたのである。ここに『カップルズ』の大団円において、ピートとフォクシーが姦通から結婚に至るプロセスの始まりがほのめかされていることになろう。
その後にピートとアンジェラの最初の出会い、恋愛と結婚、最初の娘の誕生が語られ、結婚九年目であることもわかってくる。また家族は優雅にして堅実で、八部屋を有する家に住んでいることも。夫は自分たちの結婚の生活は「幸福の第七期さ」といい、妻は「それが私たちのいるところなのね?」と応じるけれど、夫婦間には断層が生じているようで、それが夫の心象現象や妻の身体の仕種となって表出している。またそれは夫の「きみはぼくとじゃ幸福とは言えないな」という言葉となり、パーティ参加者たちがこれもカルカチュア的に言及され、妻は「幸福になれるはずもない」パーティの実態にふれていく。
「ピート、おたがいに背を向け合って、パーティに行くのは厭だわ。家に帰ると厭な気分になるわ。こんなふうに生きてゆくのは、ぞっとするわ」
「私たちは一つのサークルだっていうふうにあの人(フレディ・ソーン―引用者注)は考えているのよ。夜を追い出すための魔法のサークルなのね。私たちの顔を見ずに週末が過ぎると、わるいことでもしたようにはっとすると言ってたわ。私たちはおたがいのための教会をつくっていると思ってるのね」
「ぼくたちが馬鹿げた田舎街に住んでいるのは、半分は子どもたちのため」であるわけで、パーティ参加者たちはもはやほとんどが教会にいかないし、その代わりの役目をパーティが担っていることになる。でもパーティばかりでなく、ターボックスにしても、ピートの言葉に従えば、「実際には存在しない世界に生きること」を意味しているかもしれないのだ。
それはピートとアンジェラ夫婦だけの思いではなく、フレディ・ソーンとジョージーン、ケン・ホイットマンとフォクシーなどの他の九組の夫婦も同様であり、パーティとターボックスをトポスとして、夫婦交換ともいえる姦通の世界へとのめりこんでいくのである。それらはピートとジョージーン、フォクシー、ベア、フレディとアンジェラ、フランクとマーシャ、ハロルドとジャネットの性的関係へと展開され、「おたがいのための教会」も解体と破綻へと至っていく。それはつまり「情事というものは、外へ漏れ、その栄光を世間にも味わわせたくなるもの」でもあるからだ。
このアップダイクの『カップルズ』の上梓から十年ほどを経た一九八〇年にゲイ・タリーズの『汝の隣人の妻』(山根和郎訳、二見書房)が刊行された。ただ同書は七一年から取材に入っているので、「アメリカの性」といったテーマやタイトルからして、『カップルズ』の影響を受け、構想されたと考えていいだろう。それにアメリカの夫婦の断層だけでなく、この時代に「アメリカの性」も大きな変貌を遂げようとしていたのだ。
ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』に「モンローのヌードカレンダー」の項があることを先述したけれど、ここでは五三年にヒュー・ヘフナーが『プレイボーイ』を創刊し、大成功を収めたことがレポートされている。それはヘフナーやタリーズの両親たちと異なる性的解放と自由の時代を迎えつつあることを告げるものだった。しかしタリーズの『汝の隣人の妻』によれば、そうした性的自由の社会状況にもかかわらず、ヘフナー夫婦は結婚に幻滅を感じていたし、それは等しく大学時代に知り合い、結婚していた若い夫婦も同様だった。タリーズはそれが先の大戦下における若い男女の戦時体験と戦後の相互の幻滅に多くを負っているとし、次のように書いている。「ヘフナーと世代を等しくする多くの夫婦は落着きがなく退屈しているように見えた。くすんだフランネルのスーツを着て郊外の家に住んで幸せそうには思えなかった」と。
このような記述にふれると、刊行年代のタイムラグはあるにしても、タリーズのノンフィクション『汝の隣人の妻』と『カップルズ』がまさに「隣人」関係に置かれているとわかる。そしてアップダイクのこの長編小説こそはそのような六〇年代の郊外の中年夫婦の特有な心的現象と性との関係を描いた作品、それもヘンリー・ミラーやノーマン・メイラーとも異なる性の世界を開示していたことが了承されるのである。