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古本夜話548 博文館の作家たちと加能作次郎「厄年」

前回は生田長介の『歩み』の巻末広告にまで言及できなかったので、、今回はそれを取り上げてみたい。

そこにはそれぞれ一ページ広告というかたちで、須藤鐘一『愛憎』、白石実三『曠野』加能作次郎『厄年』が四六判上製函入として掲載されている。これらはいずれも生田の『歩み』と同じ判型函入であるし、やはり「創作集」として刊行されているはずだ。

そればかりでなく、生田も含めて彼らには共通するところがあり、四人とも明治二十年前後生まれの地方出身者で、早稲田大学英文科を出て、博文館に入社し、田山花袋の知遇を得たり、私淑したりしていることが挙げられる。ちなみに『歩み』の巻末広告には「創作集」ではないけれど、花袋の『水郷めぐり』も見えている。『博文館五十年史』の「出版年表」を確認すると、これらの五点は大正九年十一月から翌年の一月にかけての集中的刊行だとわかる。

花袋は明治三十二年に博文館に入り、三十七年には日露戦争に編集者として従軍し、三十九年には『文章世界』が創刊され、その主筆となる。その一方で『重右衛門の最後』『蒲団』『田舎教師』などを書き継ぎ、自然主義文学の中心的役割を担っていた。そして四十五年に博文館を退社するのだが、大正六年にはそれらも含めて自らの半生をたどった『東京の三十年』を博文館から刊行している。それゆえに大正時代に入っても博文館、花袋、生田たちは密接な関係にあり、先の五点のほぼ時期を同じくする刊行も、そうした事情と絡み合っているのだろう。
蒲団 田舎教師 東京の三十年

それから博文館と早稲田大学との関係だが、『博文館五十年史』はそれこそまさに「早稲田大学と本館との関係」に一項を割いている。そこで創業の始めに東京専門学校を出た坪谷善四郎が入館したこともあって、編輯部員の大部分が早稲田出身だと述べ、次のように記している。

 過去五十年の間に、本館編輯部を通じて早稲田大学出身者は一々屈指に堪えぬが、中にも編輯の要部に列する者は、常に早稲田出身者が多数を占めた。例へば、坪谷善四郎、長谷川誠也、鳥谷部春汀、森下岩太郎、前田晁、白石実三、中山太郎加能作次郎西村真次押川春浪、河岡潮風、鈴木徳太郎、浜岡徳太郎、長谷川浩三、生田蝶介。岡村千秋、宮田脩、定金右源次の諸氏が皆な其れである。

すこしばかり煩雑だが、これらの人々と主たる雑誌の関係を挙げておく。坪谷『日本商学雑誌』、長谷川、鳥谷部『太陽』、西村『太平洋』、押川『冒険世界』、前田、加能『文章世界』、生田『講談雑誌』、中山『家庭雑誌』、浜岡『ポケット』、白石『寸鉄』、森下『新青年』、鈴木『新趣味』。これには『淑女画報』の須藤鐘一の名前はもれているので、この他にもまだ何人もが挙げられるであろう。

ただ「創作集」を上梓した四人は、その時点でまだ博文館に在籍していたはずなので、現役の編集者としての自社からの刊行だったことになる。それは『歩み』の奥付の生田の押印にある検印用紙に示されているように、自費出版ではなく、印税が支払われるものとして出されていたと見なせるだろう。

それらはどのような花袋、もしくは自然主義の影響を表出させていたのだろうか。ここではその表出を加能の作品を見てみよう。彼の『厄年』も須藤の『愛憎』や白石の『曠野』と同様に未見だが、そこに収録された数編と彼の代表作『世の中へ』は『加能作次郎・藤沢清造・戸部新十郎』(『石川近代文学全集』5、発売所能登印刷・出版部、発行所石川近代文学館、昭和六十三年)で読んでいるからだ。その前に『歩み』の巻末広告における加能の『厄年』のキャッチコピーを示しておけば、「名作『世の中へ』大長篇『若き日』の作者として純潔玉の如き人格と、深く現実の人生に徹して無限の情趣を漾へたる其作品とによつて現下文壇に堂々重きをなす加能氏の創作集也」とある。そしてタイトルとなっている「氏の初期の作にして其出世作たりし」という「厄年」の収録も謳われているので、この短編を紹介してみよう。
世の中へ (「厄年」)

「厄年」は夏季休暇に大学生の平三が故郷に帰ろうか、それとも第二の故郷ともいうべき京都に行こうか、悩んでいるところから始まっている。彼は二十五の厄年で、故郷では妹が肺病で死にかかっているし、卒業を控えている身で伝染しても困る。だが義理の妹であるにしても、それを知って帰らないのは不人情すぎるし、良心が許さない気がする。迷った挙句に彼は故郷への切符を買ってしまい、汽車で米原からK市に向かい、翌日の十時にH町に着いた。「厄年」は自然主義私小説と見なすことができるので、ここで注釈を加えておけば、K市は金沢市、H町は羽咋町である。ここから自分の村まで十里の距離だった。

平三が帰ったことで妹のお桐は喜んだが、長きにわたる病(わずらい)はその容体を悪化させていた。平三は父の平七、義理の母のお光、漁村の人たちと再会し、ただちに父の鰹漁を手伝うことになる。村の老人がいう。「やあ、東京の旦那、手が泣きますぞ、筆より艪が重かろうが」と。舟の上での父子の会話から、お桐の長病で両親は根も精も尽きてしまったこと、介抱疲れと医者や食事の物入りも限界にきていること、平三への仕送りの苦労などが語られ、「俺は長生きせぬぞ、早く死ぬぞ」という父の言葉が平三の胸を貫いた。「今日までの父の苦労を思うと傷々しくて堪らぬ程であった」。だがそのような心境や厄年の男の村への帰還とは対照的に大漁が続き、鰹の一万疋の水揚があったのだ。それでお桐の葬式料と平三の道中費ができたと父はいう。

お桐は十八歳で嫁入りしたのだが、肺結核となったために離婚され、家に戻って三年間寝ついたままで、平三が帰ってから暑い日が続き、それで非常に衰弱し、呻き声が高くなっていった。平三が東京から持ってきた外国の小説を読んでいると、お桐は湯冷ましをほしいという。彼は帰ってきても彼女とほとんど口をきいておらず、そのやつれた顔を見るのもいやで、蚊帳から出てくると目をそむけるのが常だった。「平三には生きた人間だとは思われなかった。陸にあげられた死に瀕せる人魚とはこんなものではないかとイプセンの『海の夫人』を思い出した」。そこに「残忍冷酷」な自分を見る思いだった。

雨が降り続き、お桐はさらに衰弱し、ついに死を迎える。

 お桐は靠れ(もた)れ蒲団に頭を押しつけて居た。頭を揚げると、赤い真綿でも垂(さ)げた様に、血の塊が口から垂れ下がって居た。平七はお光にお桐の頭をもたせて自分は口から其血の塊をたぐり出した。
 「お桐、お桐!」
 二人は交互に叫んだが返事がなかった。こうしてお桐は息絶えて了った。

そして翌日は葬式の準備と火葬をすませ、一家は早く寝たが、平三は「お桐に冷淡だったという悔恨の情が、色々の恐ろしい想像を呼び起こし」、眠れなかった。義妹、義母との少年時代の関係、結核という病の位相と家族、その経済が浮かび上がり、それらの中からエゴイズムもまた直視される。そして死者からもたらされた救いの念に至る。「許して呉れ!」と祈ると同時に、「これが厄だったのだ、お桐が自分の厄を背負って行って呉れたのだ、これで自分の厄は免れたのだ」と思うのだった。ここに表出しているのは日本的自然主義のひとつの典型と見なしていいだろう。

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