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古本夜話550 近代社『世界戯曲全集』

前回の最後のところでふれた近代社の円本『世界戯曲全集』は一冊しか手元にないが、これもここで取り上げておこう。

かつて「近代社と『世界童話大系』」(『古本探究』所収)でも『世界戯曲全集』に言及しているけれど、それは第一書房の『近代劇全集』の側からの視線による林達夫の証言をベースにしたものだったので、今度は前回、新たな近代社に関する事実を知ったこともあり、その視点から近代社と『世界戯曲全集』を見てみる。
古本探究

先の拙稿で、円本としての『世界戯曲全集』は、これも前回言及した『近代劇大系』、及びその後近代社が刊行した『古典劇大系』を組み合わせた企画ではないかという推測を述べておいた。ところがたまたまその『古典劇大系』も一冊だけ入手していて、両者の奥付を見ると、いずれも昭和二年の刊行となっていて、同年に出版されていたのが何巻に及ぶのかは確認できていない。
(『近代劇大系』)

ちなみに書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』を見てみると、『古典劇大系』全十九巻は大正十三年、『世界戯曲全集』全四十巻は昭和二年からの刊行なので、重なっていた事実が裏付けられる。だがそれらはともかく、手元にある前者の第五巻と後者の第一巻とを比べてみると、装丁と造本、発行所の相違が浮かび上がってくる。『古典劇大系』は『近代劇大系』と同様の四六判布装、一段組の近代社らしいシックな造本だが、『世界戯曲全集』のほうは上製であるにしても、いささか大量生産特有のチープな印象を与える装丁で、しかも本文は二段組となっていて、これも造本と同じような視覚的イメージをもたらしている。それは同じ判型、同じ函入であるけれど、後者は一回り小さくなっている。

またそうした相違は奥付の発行所にも当てはまり、いずれも発行者は吉澤孔三郎だが、『古典劇大系』は従来の京橋区南伝馬町の近代社、『世界戯曲全集』は神田区綿町の近代社世界戯曲全集刊行部となっている。これは想像するに、『世界戯曲全集』の企画は吉澤ではなく、前回紹介した近代社の松元竹二の周辺からもたらされたものだったのではないだろうか。松本が新潮社出身ということを考慮すれば、新潮社が昭和二年に円本『世界文学全集』を刊行し、六十万部近い予約を集め、ベストセラーとなったことに刺激され、新潮社もそうだったように、近代社も自社の既刊書をメインにして、円本化するという『世界戯曲全集』の企画が出された。

しかしそれは従来の近代社の出版とは異なる大部数を想定していたので、外部からの資本も募られ、新たに「世界戯曲全集刊行会」が立ち上げられた。その責任者となったのが松元であり、おそらく彼は新潮社の『世界文学全集』の編集や営業も含めた関係者をリクルートし、『世界戯曲全集』の刊行へと邁進したのではないだろうか。その装丁や造本が近代社というよりも、新潮社の『世界文学全集』を彷彿させるのは、そうした舞台裏を表象しているようにも思われる。

石川弘義、尾崎秀樹の『出版広告の歴史』(出版ニュース社)に、第一書房の『近代劇全集』と近代社の『世界戯曲全集』の広告合戦の一章がある。そこでは双方が『東京朝日新聞』に出した広告が転載され、日本文学や世界文学、思想ばかりでなく、戯曲もまた大量生産、大量消費の時代を迎えていたことを教えてくれる。そして『世界戯曲全集』の内容にもふれている。
出版広告の歴史

 近代社の『世界戯曲全集』は四六判、六〇〇頁以上、一〇〇〇頁以内、二段組で九〇銭という破格の値段で売った。全四〇巻、別冊に小山内薫監修の世界戯曲前史が入っている(中略)。『近代劇全集』がイプセン以後に光をあてたのにくらべて、『世界戯曲全集』はギリシャやローマなどの古典をはじめ、インドや中国までふくむスケールのもので、新しいところではチャペック、カイゼル、ヴィルドラック、エレンブルグ、シンクレアなどまでが選ばれた。

後半の部分を補足しておけば、第一巻はギリシャ編で、本連載118で挙げた村松正俊訳によるアイスキュロスなどの十五編が収録されている。それに続いて、予約締切近くの大宣伝コピー「厳選された原作、理想的名訳、尨大な分量、最低の廉価、堅固な製本」の紹介、朝日新聞社講堂や築地小劇場での観光記念講演会や演劇の催し、読者の要望に応える装丁に一新などもレポートされ、それゆえにあの装丁になったとわかる。

『出版広告の歴史』は最後に両社の宣伝合戦が刊行開始後も続いたが、『近代劇全集』に人気は集まったと述べている。さらにここに伝えられていないその内幕を記せば、この合戦は両者の背後にいたスポンサーや資金力の問題と争いでもあった。第一書房の財政的後援者である大田黒元雄はそのために十五万円にのぼる融資を実行し、『近代劇全集』を完結へと導いた。だが一方で、近代社は『世界戯曲全集』のために広く資本を募ったようだが、売れ行きは低迷し、集まった投資は資本の回収も順調ではなく、債権者たちに蹂躙され、倒産に至ったと伝えられている。

なおこの『世界戯曲全集』は昭和三年に誠文堂の『世界戯曲全集(第二版)』によって、紙型再版されているが、こちらは未見である。これにもおそらく松元が関わっているはずで、そのような失敗した円本の後始末を担った存在であったのだろう。彼のような編集者は他にも多くいたとおもわれるが、それらの名前は出版史にほとんどとどめられていない。

また『近代劇全集』については、すでに「第一書房『近代劇全集』のパトロン」(「古本屋散策」67、『日本古書通信』二〇〇七年十月号所収)を書いていることを付記しておく。

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