やはりどうしても国土計画のことが気にかかるので、もう一回書いてみる。
本間義人は『国土計画を考える』(中公新書)において、国土計画は「時の政治権力の最大の計画主題(つまり国策)実現のための手段として利用される」機能を有し、「時の国家権力の意思そのもの」で、「国家による日本列島のグランドデザイン」と見なしている。そしてその具体的な機能と関係構造、及び社会に与える影響に関して、次のように述べている。
国土計画と、国土計画に示された計画目標実現の手段である社会資本整備の諸公共事業長期計画(道路、公園、住宅などの五ヵ年計画)、あるいは地域開発計画(首都圏・近畿県整備計画や都道府県開発計画などの地方計画)との法的関係を見ると、国土計画を頂点に、その下位に諸長期計画と地域開発計画があるピラミッド型の体系になっている。その意味で、国土計画はミクロには私たちの身のまわりの空間から、マクロには国土空間にまで、大きな影響をおよぼすものである。
これをさらに補足すれば、国土総合開発法に基づく全国総合開発計画を頂点として、首都圏整備法や北海道総合開発法などの九つのブロック法による計画、それらに新産業都市建設促進法といった各関連法が横並びし、これに公共事業の諸長期計画がつながっている。さらにその下に地方総合開発計画なども位置し、それらに準拠して市町村緒開発計画があるといったように、「ピラミッド型の体系」となっている。
そして同時に国土計画でありながらも経済計画に他ならず、また社会インフラのための公共事業といったフィジカルな面に目が向けられていたが、国土総合開発法が「経済、社会、文化等に関する施策の綜合的見地から」と謳っているように、国民のすべての生活への影響も見逃すことができない。それを本間は「私たちの身のまわりの空間」にまで及ぶ国土計画と呼んでいることになる。
ここに酉水孜郎の『国土計画の経過と課題』(大明堂)という一冊がある。これは田中角栄の『日本列島改造論』刊行から三年後の一九七五年に出されていて、まさに国土計画の出自と七〇年代前半におけるその位相と行方のレポートを形成している。また七四年には国土計画の主管庁の国土庁も発足しているからだ。同書によって、まず国土計画の歴史をたどってみる。
それは一九四〇年の満州国国務院会議で決定された「綜合立地計画策定要綱」に起源が求められる。満州の広大で未開拓の土地、しかも人口が少なく、豊富な地下資源を有する土地は日本からの渡満者も多く、広域国防国家と所謂王道楽土の建設を目標にしている。それに満州は漢・満・豪・朝・日の五民族協和をスローガンとしていたわけだから、混住社会ならぬ混住国家をめざしていたことになり、そのための「綜合立地計画」という色彩も帯びていたと考えられる。ここで想起されるのは、蛇足かもしれないが、満州の建国大学を舞台として始まる安彦良和の『虹色のトロツキー』(中央公論社)で、建国大学は国務院直属という位置づけにあった。建国大学もこの満州国土計画に関係していたのであろうか。
それはともかく、これが同年の近衛内閣の基本国策要綱における「日満支を通じる総合国力の発展を目標とする国土開発計画の確立」へと引き継がれ、続けて「国土計画設定要綱」が発表される。この「要綱」は満州事変以後、年を追うごとにエスカレートしてきた軍事国家を国策面からバックアップするものだった。地域的には新東亜の建設を国策の基本とし、満支をふくめての国防国家体制を確立するために、百年という長期にわたるスパンの中で、産業立地、交通文化施設の配置、人口の地域配分、国土の綜合的保全、利用、開発計画をたて、国家政策の統制的推進を図ろうとすることをコアとしていた。
それを受けて、企画院が具体的な国土計画の策定に取り組み、過大都市問題、工業規制や立地問題から「戦時国土計画素案」などが出されていった。このようなラフスケッチからわかるように、国土計画とは戦時下の植民地開発、及び軍事国家を支える地政学的システムを背景にして始まっていたのである。それゆえに戦後の国土計画ともまさに陸続きとよぶべきで、先に挙げた都市問題、工業規制や立地問題などはそのまま戦後の国土計画へと組みこまれていったのである。
そして一九四五年八月の敗戦を迎え、GHQによる占領下で、様々な改革が始まっていく。その中で内務省国土局は戦後復興のための国土計画を策定することになり、「国土計画基本の方針」を概定し、四六年には関係各省庁の協力を得て、「復興国土計画要綱」を公表した。それは五年後に八千万人と想定される人口を、どのようにこの狭い国土に収容するかが最も重要な課題で、民需関係の充足を目標とした工業開発、人口収容を主目的とする農業開発計画をたてざるを得なかった。前者の工業立地は大都市圏の環境整備に合わせて縮小を図り、地方の中小都市へと移し、鉄鋼業、大型機械工業、化学工業などは重量や運送原材料の輸入の関係から港湾地域へと集中させ、埋立地を造成し、工業立地に当てることにした。後者の農業開発計画は農業人口割合を43.4%とするもので、旧軍用地と国有林野を中心とする165万町歩、そのうちの10万町歩は干拓とし、入植を100万戸、生産は米にして1400万石の増産が目標だった。戦時国土計画から戦後復興国土計画への転換であり、五〇年の国土総合開発法の成立を機として、これらが戦後の工業用コンビナートや農業用地開発や干拓へと結びついていったと考えられる。
しかしこれらの戦後復興国土計画はすべて占領下で進行したものであるにもかかわらず、GHQとの関係、及びその影響は詳らかでない。四七年に「国土計画審議会官制」が公布されていたけれど、占領下ゆえに日本が主導権を持って推進したとは考えられず、これも前回、前々回と続けてふれてきたように、GHQのニューディーラーたちとの関係やその影響を受けていることは確実であろう。
それを象徴するのは国土計画審議会が内務省から経済安定本部へ移され、資源委員会が設立されたことだ。アメリカのニューディール政策の一環として、一九三三年に国家計画局が設立され、これが後に国家資源計画局として地域問題を取り扱い、土地利用計画、交通計画、さらに公共事業計画を推進していくようになる。それに各州にも州計画局が設けられ、州計画、郡計画、都市計画、ゾーニングが総合的に実施され、国土全域の土地、河川、森林が地下資源、水資源などの包括的調査、それに基づく国土の総合的保全、利用、開発計画が立てられるようになったのである。そのようにしてTVAに代表される開発事業が続いていった。日本の資源委員会もこのようなニューディール政策のパラダイムに基づき、GHQの占領政策の一環として、経済安定本部内に設立されるに至った。
それは一九四七年のことで、四九年には資源調査会と名称を変え、資源調査とともに地域計画調査も行なった。そのために同年に国土計画審議会も廃止され、その代わりに総合国土開発審議会が設立された。そこでは経済復興5ヵ年計画やエネルギー不足に対処する電源開発問題が論議されたが、最大の役割は国土計画に関する法律制定準備を進めたことだった。その過程で、審議会の目的として、都道府県、地方、特定各地域の総合開発計画が明らかにされていった。そして五〇年に国土総合開発法案として閣議決定され、国会に提出され、衆参両議院を通過し、国土総合開発法として交付、制定されたのである。
しかしここで留意すべきは占領下における同法の制定だと思われる、戦前の企画院の国防国家態勢整備の色濃い国土計画にあっても、法律の裏づけが必要とされていたが、産業や公共施設の地域配分はともかく、人口の配分を強制的、権力的に行うことは基本的人権の侵害にも関わるという懸念もあり、法律的制定に踏み切れなかったとされる。それゆえにこの国土総合開発法の制定は、酉水も『国土計画の経過と課題』で述べているように、「この法律の制定はいうまでもなく画期的なこと」だったのだが、そこに至る審議のプロセスは明らかにされていない。さらにまた国土総合開発法が国土総合開発計画を全国総合開発計画(一全総)、都道府県総合開発計画、地方総合計画、特定地域総合開発計画の四つに区分し、全総を上位に置き、その他の計画の範とした。それは法律的処理、策定手順なども同様だったと考えられる。
これらの事実を考慮すれば、国土総合開発法から全総へと至る流れは戦時国土計画よりも強権的で、国民の基本的人権を侵害する要素を秘めて発足した。そして現実的にはダム建設に見られる住民の強制的移住、もしくは三里塚問題、工業地帯で発生した公害として表出したことになるだろう。またいうまでもなく、原発問題へともつながっていく。
そうした動向は朝鮮戦争の始まりによるアメリカ軍特需で、工業が急成長し、工業設備投資が活発化し、戦後の工業社会が形成されていったことと重なっている。そして六〇年に池田内閣が発足し、所謂倍増計画と高度成長の時代へと向かい、六二年の全国総合開発計画(一全総)が始まり、それに六九年の新全国総合開発計画(二全総)も続き、その流れに田中角栄の日本列島改造論も寄り添っていたのである。
そのような国土計画の進行に伴う人口移動を通じて、郊外と混住社会が出現したことになる。また同時に急速な産業構造の転換によって消費社会が招来され、七七年の第三次全国総合開発計画(三全総)とパラレルに郊外消費社会化も進んでいく。そしてこれは『〈郊外〉の誕生と死』や本連載などで繰り返し書いているように、八〇年代を迎えて、日本の第三次産業就業人口は56%に達し、それは第一次、二次産業就業人口も含めて、アメリカの一九五〇年代とまったく重なるものになってしまったのである。そればかりではない。郊外消費社会の風景はアメリカを出自とするロードサイドビジネスで埋め尽くされてしまったし、東京ディズニーランドの開園も八〇年代だったのだ。つまり五〇年代のアメリカの風景によって八〇年代の日本は覆われてしまい、ここにアメリカによる占領が完成したのである。それは郊外のマイホームと車を入手した八〇年代の日本人が、本連載37のリースマンのいうところの「孤独な群衆」となることも意味していた。
そうした敗戦と占領、その占領下で始まっていく国土計画、それらが形成されていくメカニズムの詳細なディテールやプロセスは伝えられていない。しかしそれはアメリカに管理された日本の国土計画だったかのように思われてくる。戦後の国土計画とは何であったのかを問い続けなければならない。
なお戦前の国土計画と資料は、石川栄耀『都市計画及国土計画』(工業図書、ゆまに書房復刻)、酉水編『資料・国土計画』(大明堂)に収録されている。