二一世紀に入り、新しい作家や新たな物語が出現し、それまでと異なる郊外や混住社会が描かれていくようになる。だがそれらはまったくかけ離れているわけではなく、地続きであり、二〇世紀の風景をベースにして組み立てられた二一世紀の光景のようでもある。これまでの本連載でそれらのいくつかを取り上げてきたが、続けて言及してみたい。
森絵都の『永遠の出口』は二〇〇三年に出されているが、一九九九年から二〇〇二年にかけて『小説すばる』に連載されたこともあって、その時代背景は一九七〇年代後半から九〇年代半ばの設定となっている。それは同時にヒロインというよりも、シンプルに主人公と呼んだほうがふさわしい紀子の、十歳の小学三年から十八歳の高校三年までの九年間の少女の物語を織り成している。その時代の流れはサンリオのファンシーの流行、二日前に解散したピンクレディ、人気爆発中のたのきんトリオ、『エースをねらえ!』と『ガラスの仮面』、映画『台風クラブ』、ユーミンの「ダンデライオン」、バブルの到来などが物語に挿入されることによ伝えられる。
本連載の視座からすれば、『永遠の出口』の一九七〇年代後半から九〇年代半ばにかけての時代は、郊外と混住社会が出現し、それらがスプロール化して拡散、膨張していく中で、ロードサイドビジネスによる郊外消費社会が形成され、その一方でバブル経済の始まりとその崩壊に至る過程であった。
そのために第一章の小学生時代において、「田畑が地面の大方を占め、空には農薬散布のヘリコプターが年中舞っていた私たちの町」と記述されている。そして第三章の十二歳の春休みで、数日後に中学生となる紀子たちは「ちょっとした卒業旅行」として、千葉へと出かけることになり、それは彼女たちにとって遠征にも似ていたし、次のように説明されている。
そう、ほんの十年前までは村と呼ばれていた町にすむ私たちにとって、大型デパートの連なる千葉は津田沼、船橋と肩を並べる大都会だった。そこへの行程はまさに長旅。なにしろ最寄りの国鉄(現JR)駅に出るのでさえ、家から自転車で四十分もかかる。バスもあるにはあるけれど、本数は一時間に一本にすぎず、節約も兼ねて私たちはこの日、朝九時からあくせくと自転車を走らせてきた。
ここに問わず語りに彼女たちが郊外と混住社会の中で暮らしていることが示されているし、「ほんの十年前までは村と呼ばれていた町」とはその紛れもない表象なのだ。しかし八〇年代を迎えているにもかかわらず、『永遠の出口』には郊外や混住社会と三位一体の関係にあるはずのロードサイドビジネスは登場してこない。主人公たちは千葉のデパートに「長旅」することがあっても、日常的に接しているのは駅前の商店街や駅ビルの店であり、紀子たちが万引してつかまるのも、デパートと呼ばれているけれど、そこにある雑居ビルに他ならない。住宅街や公団住宅への言及はなされているが、その周辺にロードサイドビジネスの集積である郊外消費社会の存在の気配はない。また紀子がアルバイトをするレストランにしても、駅の近くにあり、店名は「ラ・ルーシュ」、それはフランス語の「蜜蜂の巣」を意味している。その名前のようにシックな佇まいと上質な料理を売り物としていて、決してチェーン店のファミレスではない。
そのことと同様に、紀子の両親に関しても、父は会社の「仕事ニンゲン」、母はそもそも美容師志望だったが、普通のOLとなり、現在は専業主婦とされている。だが「村と呼ばれた町」に住んでいるにもかかわらず、「村」の出身のようではない。おそらくどこからかその「町」へと移ってきて、マイホームを構えることになったはずだが、それも語られることはない。
それらの事柄はこの『永遠の出口』がとりあえず郊外というトポスを物語の背景としているけれど、どこで生まれ、どこで暮らし、年を経るにしても、「この世が取返しのつかないものやこぼれおちたものばかりであふれていること」、またほとんど「永遠にそれを見ることができない」ことを物語のコアにすえていることによっているのだろう。そして成長することがそれらを自覚することであり、そうしてようやく「永遠の出口」、すなわち「大人への入口」へと近づいていくことになる。それが紀子の十歳から十八歳にかけての家族、学校、社会との関係を通じ、心的現象やその揺らめきとして表出し、物語が形成されていく。それの意味において、『永遠の出口』はまさに少女のビルドングスロマンとよんでかまわないだろう。
それらは次のような物語コードを伴って表出し、進行していく。小学生時代の誕生会、及び少女たちの家庭の内奥、担任教師の監視的教育と権力伝説、前述した小学生と中学生の狭間における冒険のような千葉への「長旅」、中学時代の校則の包囲の中での髪型と服装、社会のルールやその体現としての母親との対立、部活と不良たち、夜遊びと外泊、疑似恋愛、万引とその発覚。
そしてさらに、物語と家族のクライマックスとしての大分県別府温泉二泊三日という家族旅行も加わる。これは大学受験を控えた姉によって企画されたもので、やはり中三の受験生だった紀子も同行することになる。紀子にはこれが「非行に走った娘の心を溶かそう」とする「悪趣味な罰ゲーム」のように思われたが、両親の雰囲気はよそよそしく、異変が察せられ、「家族愛」のための旅行ではないことを確信するに至った。姉の告白によれば、父が浮気をして、それが母に見つかり、それから母は父に口をきいておらず、一時は本気で別れるつもりになっていたという。姉は妹のためではなく、両親の関係の修復と和解のために、この旅行を提案したのである。別府温泉は父と母が二十一年前に新婚旅行できたところだったからだ。
それを聞いて、紀子はこれまでとまったく異なる思いに捉われた。家族などいらないし、両親はうざったいだけで、一人になれたらどんなにすっきりするだろうかとずっと思っていたのに、両親の離婚という一語を目の前にして、「まるで暗幕に未来を塞がれたような息苦しさ」「底知れぬ畏れと、底なしの不安感」を覚え、「一家離散後のシチュエーションをあれこれと想定」してしまうのだった。
それでもずっと父を無視していた母はうっかりミスをし、耶馬渓という景勝地で、昼食に郷土料理のだんご汁をすすっていた時に、景色はずいぶん変わったけれど、この味は変わらないと独りごちてしまった。それを受けて父も同じ言葉で応じた。両親が二十一年前の記憶の共有を告白したことになる。しかしそれで夫婦の危機が修復されたわけでなく、ホテルでの晩餐は息苦しくて寒々しく、深刻な寒波がつきまとっていた。離婚後のことも、「現実的な……家族それぞれの能力の問題」として浮かび上がってきた。
しかしそれはホテルの火事の非常ベルの耳をつんざく音がもたらした「大騒動」によって、実質的に回避されることになる。ここにも時代が刻印され、それがホテル・ニュージャパン火災の翌年だったとあるので、その三十三人ものの死者を出した大惨事は一九八二年に起きていたことからすれば、八三年だったことを伝えている。それはさておき、そのベルで紀子と姉と母は、すでに開けられていた非常ドアから非常階段へと逃げ出し、三階まで降りた時、母は夫を忘れたことに気づいた。そこで三人で引き返し、部屋までたどり着くと、父は掛布団を頭からかぶり、大きな鼾をかいていたが、母は叫んだ。「火事よ、火事ですよ。あなた! 起きて、ねえ、生きて逃げなきゃ。あなた、早く生きてちょうだいっ」。興奮のあまり、「起きて」と「生きて」がごっちゃになっていた。だがそこで非常ベルの大音響がぴたりと止み、警報が誤作動だったとのアナウンスが入ったのである。このアクシデントに乗じて、父は母にビールを飲むかと誘い、母は夫を忘れて逃げた後ろめたさと生死をさまよった心のうねりのせいか、拒むことができず、それに応じることになった。
そして翌朝を迎え、母は健やかな笑顔で、朝風呂で一緒になった人から教えられた別府の北にある国東半島のもみじの見事なお寺行きを提案する。その「しぐれもみじ」の光景は次のようなものだ。
巨大な、まるで小さな森のようなもみじ、とても一樹の生命力だけで息づいているとは思えない。東へ、西へ、南へ、北へ、天衣無縫に枝葉を広げるその先はもうあまりに高く、遠くて目が眩みそうだ。その遠いところから地面へと降りそそぐ紅葉は、光の角度や梢によって微妙に色を移ろわせ、巨木に色彩の波を起こす。深紅。茜。緋。橙。鬱金。黄。萌葱―。
しぐれもみじと、朱書された板を掲げた巨木の前で、私たち親子は呆けたように立ちつくした。(……)。
ここで紀子たちは「永遠」、もしくは「永遠の出口」ならぬ「永遠の入口」に出会ったといえるのではないだろうか。森がこのシーンを描いた時に思い浮かべていたのは、ランボーの「海」につながる「また見つかった。何が。永遠が。」という『地獄の季節』(小林秀雄、岩波文庫)のフレーズであり、それにもみじの色彩描写も「Aは黒、E白、I赤、U緑、O藍色」と始まる「母音」(鈴木信太郎訳『詩集』所収、『ランボー全集』1、人文書院)の一節に喚起されたのではないだろうか。
だが「永遠」は続くことがなく、母はいち早く「ベランダの洗濯物でも思いだしたかのような顔をして、しゃきっと現実に立ち返る」し、父もしぐれもみじに重ねて、「通り雨が降ることをしぐれる」と語り、「我が家もここ数年はずいぶんとしぐれたなあ」という。そして紀子がぐれたこと、姉の恋と相手の心変わりのこと、この旅行は姉が父と母のために企画したが、実は父が姉のために実現させたものだったことも、父の口から語られていく。そのかたわらで、「日常を司る母は強い」姿を回復し、まだ、もみじしぐれを眺めている姉に呼びかけていた。そこで紀子は思うのだった。
私が深酒したり、万引をしたりとろくでもない日々を送っていた頃、姉もまたろくでもない恋の結末を迎えていた。父は父で浮気などして母を泣かし、母は父に泣かされ、みんながそれぞれろくでもない日々を送りながら、そのろくでもなさを凌いで今まできた。そうしてこれからも……と、私は母の呼び声に駆けてくる姉を見やりながら思った。これからもまだしばらくはこのまま、互いのろくでもなさにうんざりしたりされたりしながら、四人で暮らしていくのだろう。
ここに表出しているのが『永遠の出口』の物語の基調低音といえよう。それは本連載93、94の小島信夫の『抱擁家族』や山田太一の『岸辺のアルバム』と共通する家族の営みの原型を伝えるものであり、それが本連載の基底に置かれていることはいうまでもあるまい。また家族の営みということで連想されるのは、『永遠の出口』における主人公の紀子という命名であり、それは小津安二郎の『東京物語』などで原節子が演じた紀子を思い浮かべてしまう。それらもまた戦後家族の物語であることからすれば、森の『永遠の出口』は、郊外を背景とする家族の物語とよぶこともできよう。1