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古本夜話562 ニコル著、柏井園訳『基督伝』と警醒社

本連載558で海老名弾正『耶蘇基督伝』の書名を挙げ、また同560でルナンの『耶蘇伝』を紹介してきたが、やはり明治三十五年に再版とあるロボルトソン・ニコル著、柏井園訳『基督伝』が警醒社書店から刊行されている。
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この菊判、和本仕立ての『基督伝』は表紙も背も破れてはがれているけれども、かろうじて著者とタイトルの原文表記は読みとれる。著者名はROBERTSON NICOL、タイトルはTHE INCARNATE SAVIOUR で、直訳すれば、『救世主キリスト実伝』とでもなろうか。

ニコルの『基督伝』は通読してみると、福音書に基づき、基督の生誕から昇天までを描いた基督物語といった趣で、それに重要なシーンにはモノクロの一ページを占める絵画や写真が添えられ、明治におけるキリスト教啓蒙書の役割を果たしていたと思われる。著者のニコルに関してはそのプロフィルがつかめないが、訳者の柏井は『世界日本キリスト文学事典』(教文館)の立項を示すことができる。

 かしわいえん 柏井園187.7.22(明治3.6.24)―1920.6.25 伝道者、評論家。土佐国福井村生れ。1887(明治20年)グリナン,R.B.より受洗。高知共立学校、同志社に学んだが、植村正久に認められ明治学院講師に就任。さらにアメリカ・ユニオン神学校に留学後植村の東京神学校に転じ、同時に『福音新報』『宗教及び文芸』誌上に厳密かつ縦横の論陣を張った。殊に1914(大正3)年発刊の『文明評論』に掲げた論評はめざましいものがある。

なおここに付された文献案内で、やはり死後に警醒社から『柏井園全集』全六巻、本連載530の長崎書店から『同(続編)』全五巻と別巻が出されていることを教えられた。いずれも未見である。

さてこの警醒社だが、これも本連載283284で少しだけふれているけれど、『基督伝』の奥付にある発行者の福永文之助は『出版人物事典』に立項されているので、こちらも引いてみる。
出版人物事典

 [福永文之助ふくなが・ぶんのすけ』一八六一―一九三九(文久元〜昭和一四)警醒社社長。和歌山県生れ。一八八三年(明治一六)神戸市のキリスト関係書出版販売の福音社に入社、大阪に移転とともに移住、八八年(明治二一)上京、京橋区加賀町に東京福音社を創業。このころ浮田和民、小崎弘道、植村正久、湯浅次郎らが共同経営していたキリスト教図書出版社を併合、翌年その事業を譲りうけ個人経営の警醒社とした。一九二八年(昭和三)株式会社に組織を変更、広くキリスト教に関する文芸、哲学その他の出版を続けた。東京書籍商組合評議員をつとめた。

確かに『基督伝』の巻末広告にも、『馬太伝註解』から始まる聖書関連書、内村鑑三や松村介石などのキリスト教書が四十点近く並び、またその中にはやはりルナンの影響を感じさせる竹越興三郎の『基督伝記』も見え、警醒社がキリスト教図書出版として、この時代の中心にあったことをうかがわせている。それを端的に教えてくれるのは出版物だけでなく、これも奥付に列挙された「売捌所」である。それらは東京神田区の中庸堂、神戸元町の福音舎、信州上田原町の百合舎、京都三条通寺町の聖書房、大阪西区の福音社、函館の福音舎、札幌の富貴堂で、その店名からわかるようにいずれもが警醒社を始めとするキリスト教書の地方取次と書店を兼ねていた。

それに福永の立項に見られるとおり、彼は神戸元町の福音社(舎)出身であり、大阪の福音社を経て、東京福音社(舎)を興した後、警醒社を併合し、社名を警醒社へと変えたと思われる。またこれは八木壮一への私のインタビュー「『日本古書通信』創刊の背景と果たしてきた役割」(『日本古書通信』二〇〇一年十一月〜一三年一月号)で知ることになったのだが、『日本古書通信』を創刊し、八木書店も創業した八木敏夫も同じ神戸の福音舎に勤めていたのである。

この二人に加えて、大阪の福音社は矢部外次郎が経営者で、その息子の良策が大正二年に大阪高等商業学校を卒業し、入社していた。これも前出の本連載283284で既述したように、神戸の福音舎は元加賀藩士の今村謙吉によって創業され、それを福永文之助が引き継ぎ、大阪に移転し、福音社となり、外次郎が福永の上京後の跡を引き受ける。そして今村が病に倒れたこともあって、明治三十年に矢部福音社と名前を変え、キリスト教関係書の取次と出版を継承し、警醒社などの東京の出版社との取引も増え、取次として大阪の一角を占めるようになっていた。

良策は取次営業で東京の出版社を回っていたが、大正七年に二代目同士で親しい福永の息子の一良が福永書店立ち上げ、徳富蘆花の『新春』を処女出版した。良策も出版社を創業したいという思いを募らせた。その福永書店の営業担当者が福永の従弟の小林茂で、彼とも親しくなり、良策は関東大震災後の大正十三年に福音社を発行所とし、実用的な医学子育て書『子供への心遣り』を初めて出版する。

そして大正十四年に編纂者を創元社編輯部とするB5判上製六百ページ、ブロード装箱入の『文芸辞典』を刊行する。それは発行所を創元社とし、発売所は福永書店だった。前者の東京芝区の住所は小林の自宅だった。ここに創元社が発足し、後の大阪本店と東京支店の両輪の出版の始まりがあり、前回のルナンの『幼年時代青年時代の思ひ出』も、そうした事情下で企画刊行されたことになる。
(『幼年時代青年時代の思ひ出』)
これらは先に挙げた警醒社の主要な七社の「売捌所」のうちの、神戸の福音舎と大阪の福音社の二社の出版にまつわるエピソードに言及しただけだが、他の五社にあっても、それらをめぐる様々な物語があったにちがいない。


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