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古本夜話567 田中逸平『白雲遊記』

前回の若林半の『回教世界と日本』の中に、彼の盟友田中逸平の回教葬の写真が収録され、イブラヒムが読経する場面も写っていることを既述した。

残念ながら若林は見当たらないが、田中は平凡社『日本人名大事典』『新撰大人名辞典』)に立項されているので、まずはそれを引いて見る。

 タナカイッペイ田中逸平(一八八二−一九三四) 大正時代の回教帰依者。明治十五年東京に生る。天鐘道人と号す。三十五年台湾協会学校(拓殖大学の前身)を卒業、日露戦争に際し、陸軍通訳となつて特別任務に従つた。大正十二年アジヤの復興を志して中国の回教徒と共に聖地メッカに赴き、日本人としては二人目(第一人目は山岡光太郎)の回教帰依者となつた。十四年帰国して大東文化学院教授となる。昭和八年、第二回目の聖地巡礼の途に上り、ネジト国王らと会見した。昭和九年九月十五日没、年五十三。(後略)

ここに出てくる一人目の回教帰依者の山岡光太郎のプロフィルも提出しておこう。彼は田中とともに、田澤拓也『ムスリム・ニッポン』小学館)に登場しているからだ。前回ふれたイブラヒムが初めてロシアから日本にやってきたのは日露戦争後の明治四十二年で、イスラム圏に関心を抱く情報将校の福島安正が、日本人を「ハッジ」と呼ばれるメッカ巡礼者にしてほしいと依頼した。それが山岡だったのであり、彼は東京外語学校出身でロシア語を習得し、日露戦争の陸軍通訳官だったので、イブラヒムとロシア語で会話ができたことによっている。そして実際に山岡はボンベイのイブラヒムのもとに赴き、ムスリムとなり、聖地メッカへと向かったのである。その体験を彼は明治四十五年に『世界乃神秘境アラビヤ縦断記』(東亜堂書房)に記録している。その山岡を見習ってか、田中逸平も帰国後の大正十四年に歴下書院から『白雲遊記』を刊行している。
ムスリム・ニッポン

山岡の著書を刊行した東亜堂に関しては以前に、「幸田露伴と『日本文芸叢書』」(「古本屋散策」87、『日本古書通信』二〇〇九年六月号所収)などでふれている。そこで東亜堂がやはり明治四十五年に刊行した露伴の『努力論』の巻末広告を確認してみたが、山岡の同書は掲載されていなかったし、現在でも未見のままである。その一方で、田中の『白雲遊記』は版元のこともわからず、もちろん入手もできなかった。ところが何と今世紀に入って、論創社から新資料を付して復刊されたのである。
(『努力論』) 白雲遊記

その『白雲遊記』の「自序」を読むと、先に挙げた立項と異なる田中の位相が浮かび上がってくる。そこで彼は「大東亜主義即日本主義即惟神道」を提唱している。「大東亜主義」とは「孔・老・釈迦・基督・マホメツド」の五聖人によって明らかにされた大道に基づき、教法を立て、人倫が行なわれることである。「日本主義」とは日本が神ながらの道の国であり、この中で君民を一にし、経綸を行ない、一体化された衆庶力と義勇で、公に奉ずること、また「惟神道」(かんながらのみち)とは神の御心のままの道をさし、日本こそはそれを体現した国ということになる。だが「大東亜主義即日本主義即惟神道」は有色人と白人との抗争を目論むものであなく、世界民族の向上と平和をめざす内治外交の第一義だとされる。わが日本はかつて「儒、道、仏、耶」の諸教を入れ、大道を顕現してきたが、そこにはまだマホメツドの回教(イスレアム)が欠けており、「惟神道」と相通じると考えられる回教と精神的結合をはからなければならない。

このようなモチーフをベースにして、大正十三年に山東省済南府南大寺において、田中は回教徒となり、メッカ巡礼へと旅立つことになる。それは『白雲遊記』の中篇「メッカ巡礼」として語られていく。シンガポールの海岸沿いの東方の町に支那の回教徒のために建てられたモスクがあり、そこに各国の巡礼者が集まり、巡礼船に乗り、メッカをめざすのである。五月二十四日に出発した船は六月十五日にジユツダに到着し、駱駝に載ってメツカに向かう。

そこでは世界中からやってきた各民族数十万人が国々の服装で、一堂内に集まり、盛大に厳粛にカルベ=天房に対して誠意礼拝し、真主アルラホを讃会礼拝していた。それらの写真や絵を示しながら、田中は次のように書いている。これらにはすべて傍点が付されているが、それは省略する。

 今日の世に我が亜細亜の極西、交通不便にして気候最も険悪なる山間谷地の一小都に、実に此事の太古より以来、依然として行はれているのは、そこに何等の異見があれ、天地間の一大奇蹟として、畏敬の念無しに之を観過することは出来まい。而して亜細亜の極東に二千六百年間綿々たる聖帝あり。如何なる不信者も世界に於ける此神聖なる二大事実の前に、天地の真を考へざるを得まい。然る時に人生に就いて深き思いを潜めるであらう。

ここに、まさに田中の眼前に、イスラムのメッカ聖地が「惟神道」としてエピファニーし、それは「亜細亜の極東に二千六百年間綿々たる聖帝」と重なったことになる。

しかしメッカへの往路にしても還路にしても、メッカよりのミナヤアルフアテ山谷への巡礼にしても、回教徒となるための「難業苦行と云ふべきなり、死者続出惨鼻を極む」という環境にあり、それが田中を日本人として二人目の回教徒ならしめるイニシエーションであったにちがいない。

なお『白雲遊記』の版元名の歴下書院とは田中の山東省済南における居の号であり、それに由来していると思われるが、復刊は奥付を含んでいないので、発行者名やその住所などは判明していない。

この他にも田中は南方熊楠中江丑吉とも交流があることを記している。また「序」を徳富蘇峰が書いているように、政教社や三宅雪嶺の『日本及日本人』の近傍にあったことから、山岡光太郎と異なり、『新撰大人名辞典』に立項が残されたのではないだろうか。

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