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古本夜話568 イブラヒム『ジャポンヤ』

三回にわたって続けてふれてきたイブラーヒーム=イブラヒムが初めてに日本を訪れたのは、日露戦争後の明治四十二年だったことを既述しておいた。これは後に知ったのだが、彼はその記録を残していて、平成三年になって、それは「イスラム系ロシア人の見た明治日本」というキャプションを付したオスマントルコ語からの原典訳『ジャポンヤ』(小松香織、小松久男訳)として、第三書館から刊行に至っている。この翻訳出版はまさに時代が飛んでしまっているけれど、ここで紹介しておきたい。
ジャポンヤ

その前に「訳者あとがき」などを参照し、日本では立項されていないイブラヒムの簡略なプロフィル、及び『ジャポンヤ』に至る前史を提出しておく。イブラヒムは一八五七年にウラル山脈の東にあるトポリス地方の村に生まれたタタール人で、若くしてイスラム学を志した。だが帝政下ロシアにあって、異教徒のムスリムの社会、文化、教育環境は劣悪をきわめていたので、七九年にオデッサから密航し、メッカに向かった。メッカとメディナで学問を修得した後、オスマン帝国の首都イスタンブールで、イスラム世界の知識人たちと交流し、八五年に故郷に戻った。そしてイスラム教育の革新を図り、学識をかわれ、ムスリム聖職者協議会のメンバーやイスラム法の裁判官になった。しかしロシアのムスリムに対する抑圧的政策などもあり、九四年にイスタンブールに移住し、ここで彼はロシアの対ムスリム政策を告発し、ロシア・ムスリムの文化的復興と政治的覚醒を呼びかける多くの論説を書く。ところがロシアもイブラヒムの国内のムスリムへの影響を恐れ、一九〇四年にオスマン政府に対して、彼の本国送還を要請し、オデッサ監獄へ投じた。

しかし日露戦争と〇五年のロシア第一次革命はロシア帝政に大きな動揺をもたらす一方で、ロシア・ムスリム民族運動はかつてない高揚を迎え、その覚醒のための新聞や雑誌が創刊された。またムスリムの改革派知識人たちは初めての政党であるムスリム連合を組織するに至った。イブラヒムはその中で常に指導的役割を果たし、ムスリム・ジャーナリズムの先達であり、その名前は広く知られることになった。だが〇七年にロシア帝政の反動が始まり、ムスリム民族運動も退潮を余儀なくされ、大半の新聞や雑誌も発禁処分を受け、イブラヒムも雑誌と印刷所を失った。そこで彼は新たな政治的戦略を構想するために、年来の夢だった広大なイスラム世界の旅を試み、〇七年にトルキスタンに旅立ち、そこから戻ると、翌年にカザンを発ち、シベリアを横断し、モンゴリアや満州、そしてウラジオストックを経て、日本へと向かったのである。

そして一九〇二年二月二日に船が敦賀港に入るところから、『ジャポンヤ』は始まっていく。イブラヒムは敦賀から米原に出て、横浜に落着き、そこから東京に出る。訪問先を以下に挙げてみる。『国民新聞』の徳富蘇峰とその他の多くの新聞社、政治家の大隈重信早稲田大学、文部省庁舎の一角にある史談会と上野公園での総会、貴族院議員の松浦厚伯爵、衆議院と林田書記長、イブラヒムのために宴を催してくれた梅原喜太郎たちの徒歩主義同志会、伊藤博文の別荘、巣鴨監獄、東京大学とその図書館、大倉喜八郎と大倉美術館、土方久元宮内大臣日露戦争で名をはせた大山巌元帥と東郷提督、右翼の内田良平玄洋社頭山満などである。

これらの訪問先の紹介者、及び水先案内人を務めたのは陸軍中佐の大原武慶だったようで、イブラヒムによれば、彼は「日本人で最初にイスラムに改宗した」人物で、イブラヒムによってアブー・バクル大原というムスリム名を与えられ、一緒に亜細亜義会を創設し、その会長でもあった。その大原が「アブデュルレシト・イブラヒム師は韃靼、つまりタタール出身の回教の管長で、われらが導師でいらっしゃいます。日本におけるイスラムの礎を築かれた方です」と紹介して回ったようだ。

そのような訪問や会合を通じて、前回ふれた情報将校福島安正の依頼により、日本人として初めてメッカに赴いた山岡光太郎とイブラヒムが同行することになったエピソードも語られている。また世界中から日本へと続々やってくる旅行者の便宜をはかる喜賓会という協会があり、会長は蜂須賀茂韻侯爵、副会長は渋沢栄一男爵だった。イブラヒムはこの会員となり、日本の詳しい地図と仏語、英語で書かれた2冊の観光手帳の他に、特別のはからいで紹介状付きのパスポートといえる「日本国内を旅行するための紹介状」を入手したのである。それは明治42年3月付の「露国在籍マホメツト教管長エー・イブラヒム氏」の名前が記されたもので、そのまま『ジャポンヤ』に収録掲載されている。また訳註によれば、この喜賓会は一八九三年に設立された日本で初めての外国客誘致機関で、現在の日本交通公社の前身だという。

本連載563で、同じく頭山満や内田洋平に会っていたポール・リシャール夫妻の、大正時代における日本での4年間に及ぶ滞在に関して、東京の文化環境の国際化にふれたが、日露戦争後には軍部の様々な思惑も絡み、イブラヒムやリシャールのような宗教人も歓待する社会的ベースが整っていたことがわかる。ただそれまでの来日以前の根回しなどは記されていないので、そこに至る回路は明らかではない。

なおこの『ジャポンヤ』はイスラム世界から見た最初の日本と日本人論とされるが、原書は一九一〇年にイスタンブールで刊行された、トルキスタンから中国までの長大な旅行記『イスラム世界』第一巻の大半を占める日本での見聞の初めての邦訳である。

同書は近年になって、岩波書店から復刊されている。
ジャポンヤ

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