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古本夜話569 大日本文明協会叢書『土耳其帝国』

前回イブラヒムの『ジャポンヤ』において、繰り返し会談し、言及が多いのは大隈重信で、しかも早稲田大学も何度か訪れていたようだ。そのうちの一度は大隈講堂で、日暮里に住んでいたトルコ系エジプト人のアフマド・ファズリーの講演会が開かれた時だった。彼は若きムスリムのエジプト人将校で、英仏語を完璧に身につけ、その夫人は日暮里の村娘だが、日本で「初めてイスラムに帰依せし女性」で、彼は日本におけるすべてのムスリムの先達として、早稲田大学イスラムに関する初めての英語講演をしたのである。それはイブラヒムが大隈に提案したもので、一九〇九年三月のファズリーの三時間に及ぶ講演には二千人の大学生が集まったとされるが、当然のことながら、聴衆は大学生ばかりでなく、当時の日本のイスラム関係者も動員されたと思われる。
ジャポンヤ

しかし驚かされるのは明治末の時代にあって、それだけ多くのイスラム関係者、及びイスラムに関心を有する人々がいたという事実であり、西洋でもキリスト教でもない東欧のイスラムへの注視の昂揚に他ならない。実際に大隈がイブラヒムに語ったトルコに対する見解は、その一端を示していると思われる。そこには日露戦争後のアジア、トルコ、ヨーロッパの地政学もまた反映されていると見るべきだろう。

そのような大隈の言を読んでいると、大隈が会長を務める大日本文明協会から『土耳其帝国』なる一冊が刊行されていることを思い出した。確かめてみると、それは明治四十四年六月の出版で、イブラヒムの来日やファズリーの講演とパラレルに企画編集が進められていたと推測できる。

菊判上製六三八ページに及ぶ『土耳其帝国』は、大日本文明協会を編輯兼発行者とするものだが、「同編輯局識」とする巻頭の「例言」によれば、著者は元トルコ大使秘書官サー・チャールス・エリオット(Sir Charles Eliot)、原文タイトルはTurkey in Europe で、その一九〇七年刊行の第二版の翻訳である。「例言」はトルコの政治状況に関して、次のように記している。
Turkey in Europe

 土耳其国の現在及び将来は共に一大疑問なり。昔は欧州第一流の強国として列国に恐怖せられたれど、近世其勢力次第に衰へ、十九世紀に至つて極度に達し、垂死の病者に比せらるゝに至れり。唯列国の均勢上土国を保全する事の近東に必要なるは、恰も極東に於て清国の保全を必要とすると同じく、之が為めに他国に併合せらるゝ事なく、其滅亡を免れたり。然るに一昨々年八年七月、久しく同国の改革を目的とせる青年土耳其党成功して革命をなし、爾来憲法を制定し、議会を開設し、専制主義のサルタンを廃し、新帝を擁立し、世人をして大に土国復興の希望を起さしむるに至れり。(中略)而して土国政治の困難は政権を握れる土耳其人の外に、人種、宗教、言語、風俗、全然相同じからざる異種民族の集合して同化し能はざる点に在り。現在斯くの如し、将来如何になるべきかは何人も予告し能はざる大問題なり。(中略)吾人は世界の開明国を学ぶと同時に、衰微せる国家の跡を察して自ら警戒するを要す。我国は土耳其国とは国状全く異なれど、土国人が其征服せる異民族を心服せしめ同化する事なく、単に威力のみを以て圧服せんとして今日の状態に陥りたるは以て自ら殷鑑とすべし。

この生々しき「例言」はトルコ現代史に寄り添うものであり、オスマン帝国の衰退、中東、バルカン半島をめぐる西洋列強の東方問題、青年トルコ党革命、民族、宗教をめぐる葛藤が語られている。そしてトルコはアジアにおける清国に擬せられ、また日本の植民地政策の在り方にも及んでいることになる。

それに目次が続き、トルコとヨーロッパの関係の歴史、トルコにおける多民族混住と宗教の実体という主内容が示され、次にトルコ、ルーマニアブルガリアボスニア、セルヴィアなどの「巴爾幹半嶋」の折り込み地図が収録されている。先の例言やこの地図を見ていると、この『土耳其帝国』の翻訳刊行の翌年、すなわち一九一二年から一三年にかけて、まさにの「巴爾幹半嶋」諸国間のバルカン戦争が起きたことを想起させる。要するにイブラヒム来日やファズリー講演、『土耳其帝国』翻訳刊行の時代はバルカン情勢が風雲急を告げていたことになり、それが大隈講堂での講演会を盛況に導いた理由であろう。

同書の翻訳は井上留次郎の手になるが、そのうちの第六章「モハメット教」は早稲田大学教授吉田巳之助、第七章「正統派教育」は生方敏郎によっている。井上と吉田は詳らかでないけれど、生方は『明治大正見聞史』(中公文庫)、本連載484『現代ユウモア全集』の『東京初上り』などの著者としてよく知られている。だがこの時代には大日本文明協会にも関わっていたことを教えてくれる。

明治大正見聞史 [f:id:OdaMitsuo:20150210120518j:image:h110](『現代ユウモア全集』第5巻『生方敏郎集』)

この版元の大日本文明協会については、拙稿「市島春城と出版事業」(『古本探究』)や本連載152「草村北星と大日本文明協会」などで既述している。この『土耳其帝国』は明治四十一年から四十四年にかけて刊行された同叢書五十一巻のうちの第四十二回配本、第十九巻に当たるもので、あらためてこの翻訳シリーズの意義を認識させてくれた。やはり明治末から大正時代の重要な出版物として、大日本文明協会叢書を見直さなければならない。
古本探究

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