本連載23から26 にかけて、一九八〇年代に日本へと漂着したベトナム難民やインドシナ半島のボートピープルをテーマとする小説を取り上げてきた。二〇〇九年に刊行された伊井直行の『ポケットの中のレワニワ』は、その難民たちの二一世紀に入ってからの行方を描こうとしている。
この小説には「付録」として「ベトナム難民と日本をめぐる小史」が収録され、そこで当初日本政府はベトナム難民やボートピープルの受け入れを拒否したが、一九八〇年代半ばになって、それらの受け入れを三千人、五千人、一万人と段階的に拡大し、八九年には次のような状況を迎えたと記している。
難民資格認定制度が開始される。家族と共に日本に定住するベトナム難民が増加、インドシナ出身者が集中して居住する団地が出現した。交通不便な団地も多く、受け入れの実質的な窓口となった地方自治体による一種の「隔離」だったという説もある。総計、一万数千人が日本に定着した。
それと相前後して、ベトナム政府は海外脱出者の一時帰国を許可し、日本に定住した難民とベトナム間の中古品貿易が行なわれるようになり、ベトナムでも経済の自由化が徐々に進められていった。
このような日本におけるベトナム難民クロニクルとベトナム状況の推移を背景として、この混住小説に他ならない『ポケットの中のレワニワ』は紡ぎ出されている。
主人公の「俺」=アガタ=安賀多真一は職場のコールセンターで、小学三年の時に同級だった町村桂子=グエン・ティアンに再会した。「俺」が通っていた向洋台小学校は親がベトナム人やカンボジア人、中国人である生徒が多く、ティアンもその一人だった。ただ彼女は五歳になる前に来日したので、日本語は話せたけれど、ベトナム語はカタコトだった。二人は孤独さを共有していたことから、港見学という「デート」をしたこともあり、その秋に転校してしまったが、「俺」にとっては最も印象に残っている女子だった。
だがそれは「運命の再会」というよりも、彼女の身も蓋もない言に従えば、「同じ貧乏な団地に住んでいた者どうし、結局同じように恵まれない職場にたどりついた」ことになる。しかしそうはいっても、ティアンのほうは正社員の統括主任、「俺」は中学でいじめにあって不登校になり、そのために底辺高校からFランク大学に進学し、卒業しても就職できず、フリーターやニートにはならなかったが、やっと見つけたのが派遣社員の仕事だった。つまり彼女は日本とベトナムの名前を持っている上司として、日本人の「俺」の目の前に現れたのである。
そしてティアンは「俺」に対して、親会社の野球部の試合がかつて通い住んだ小学校と団地のある向洋台球場で行なわれるので、一緒に応援にいこうと誘う。それは親会社の社員でコールセンターに出向している徳永さんに頼まれたからだ。これらの説明が付されたイントロダクションにふれただけで、二一世紀になって進行した職場における格差と待遇をめぐる状況が浮かび上がってくるし、それがベトナム難民がたどった日本での二一世紀の回路、及び国内における日本人の難民化とも重なり、『ポケットの中のレワニワ』のベースを形成していることに気づかされる。
その途中で、二人はやはり小学校と団地を同じくしたチュオン・キム・ハン=山本泉と出会う。彼女の声は「学齢になってから日本に住むようになった東南アジアの女性が身につける日本語の間合い。向洋台団地にいた間、鳥の鳴き声のように耳に入って」きたもので、やはり彼女もベトナム難民なのだ。ティアンとハンが携帯アドレスを交換する一方で、「俺」の携帯にもいくつかのメールが入ってきていて、『ポケットの中のレワニワ』においても、携帯とメールが物語に同伴するメディアと化している。それらは先述した職場の階級構造、日本人とベトナム人の混住とパラレルに、携帯やメールが日常生活の通信インフラとして定着したことを告げている。そうして物語は進み、小学校や団地も姿を見せていく。
歩を進め、球場方向へと下って行く直前の小高い場所に立つと、団地の敷地の半分ほどが姿を現し、隣接する向洋台小学校の校舎も見える。だが同時に、近所にある工業団地が視野に入ってしまい、その先は田畑と住宅と工場や倉庫の混在する美的とはいいにくい地域だ。(……)
向洋台団地は離れ島だった。子供にとっては、それが世界のすべてに思えるような。だから、俺や、団地の子どもたちにとって、成長するとは、世界が団地の外にあると気づくこと、世界がもっと広いものだと知ることと同じだった。
しかし、いつか世界は反転し、俺たちをまた狭苦しい場所に閉じこめようとする。さらに年齢を重ねると、世界の広さと自ら住む世界の両方を知ることになるのだ。俺は狭い子供の世界が嫌いで、早く大人になりたいと願っていた。要するに、俺はバカだったってことだ。こんな大人になってしまったのだから。……
「俺」と「貧乏人どうしでくっついて」見ている親会社の社員たちの野球はティアンにとって、「火星人のやっているわけの分からない遊びみたい」だったし、「俺」にしても、彼女とのデートや結婚を望んでみたいが、「ハケンから抜け出す道も、いつか家族を持つイメージ」が湧いてこない。
だが「俺」も試合に駆り出されているうちに、ティアンの姿が見えなくなったので、彼女を探しに団地に向かうと、今は住民も半分以上が一九八〇年代以降日本に帰化したり、定住した外国人となっていた。最初はベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ三国からの難民が中心だったし、九〇年頃にティアン一家も団地に越してきていた。それが今ではイラスト入りの大きな看板が立てられ、日本語、ベトナム語、中国語、カンボジア語、ラオス語、英語の六ヵ国語で、ゴミ捨て、近隣騒音、防犯などの生活上の注意書きが記されていた。それはかつてなかったもので、団地が荒れ始めた九三年以降だったら、落書きだらけになっていただろう。当時はゴミが散乱し、埃が舞い、部品をとられた自転車やバイクが放置され、道端にはしゃがんで通行人をにらんでいる若者たちがいた。不思議なメロディとわけのわからない歌詞のカラオケ、サイレンの音、酔っぱらいの喧嘩、高層棟の上層階で起きる火事、怒号と泣き声などの中にあって、解放されたような気分も味わっていた。だが団地が荒れ始めてから、経済的余裕のある家は越すことが多くなり、県の勤労者の平均年収以下の世帯しか団地に住めなくなった。そして九〇年代後半には住民の半分以上が入れ替わり、主体は老齢世帯と外国系世帯となり、小学校生徒は減少し、その半数以上が「外国とつながる」生徒で占められるようになった。それもあってか、かつての荒んだ気配が消え、こざっぱりと清潔になっていた。
(文庫版)
このような八〇年代から九〇年代にかけての向洋台団地の推移は、難民や日系ブラジル人を受け入れ、混住することで変容せざるを得なかった全国各地の団地の姿であったといえよう。それはまたアメリカの町における黒人の増加によって郊外へと移住していった白人家庭、フランスにおける移民や難民の団地への隔離的収容をも想起させる。そうした環境と状況を「俺」やティアンたちはくぐり抜け、二一世紀へとたどり着いたことになる。
その向洋台団地にあって、以前は東芝の特約小売店だったところがベトナム料理店になっていて、そこにはやはりベトナム人のヒエンもいて、ベトナム人の経営する廃品回収、中古品販売会社に勤めていた。「俺」とティアンとヒエンはレワニワを媒介とする仲間だった。レワニワのことを言い出したのは高校の生物教師だった「俺」の父親で、小学校二年生の時だった。レワニワはインドシナ半島の奥地に生息する両生類と爬虫類の中間に属する動物で、まだ生態はつかめておらず、「生物学上の謎」とされ、水辺で目撃されることが多いが、陸上も自由に動くことができる。妖精の場合、大きさは十センチから二十センチで、団地の隣の棟の軒下にも出たという。それで「俺」は父親とその軒下を見たが、妖精は見つからなかった。これは後になってわかったのだが、その棟にはベトナムで女優だったすごい美人の奥さんが越してきていて、父親は彼女を見るためのダシに息子を使うつもりで、レワニワというものを考え出したのである。しかしレワニワは団地の子供たちの心の中で生きのび、実在化することになった。
それは次のような事情によっている。向洋台の子供たちは工業団地の近くを流れる水が茶色く汚れた浜川に、片目のないフナや背骨の曲がったボラなどの変な魚がいることを知っていた。その上流の田や畑の間を流れる小川の近くに住む生徒が変な動物を見たといってきた。その絵からすると、レワニワのようがったが、レワニワは東南アジアに生息するもので、しかもその地域でも今は幻の動物のはずである。そこで工業高校の教師の父親は自転車のエンジニアになるつもりで入学したベトナム人のクアンを呼び、その絵を見せると彼は驚き、レワニワに関して語り始めた。
父母の子供時代、ベトナム中部の農村にはどこにでもいて、珍しい生き物ではなかった。しかし一九六〇年代半ばにベトナム戦争が本格化すると、レワニワは村の周辺では見つからなくなった。ところが村が北ベトナムの軍に占領され、再教育のために一家は山奥の未開の地に送られた。クアンはそこの近くの泥川でレワニワを見つけた。レワニワに話かけると言葉を覚え、仲のいい友達になるし、言葉を教えてくれた人の願いをかなえる力を持っている。だが決して願い事をしてはいけない。願い事を聞いたレワニワはその欲望に染まった心を養分にして巨大化し、人間化して、ついには人食い鬼になるからだ。それでもクアンはレワニワとつき合っていたが、言葉を覚えたかどうかわからないうちに、一家はその村を逃げ出すことになり、二度と戻ってこれないことを自覚した。そこでクアンはレワニワをつかまえ、ポケットの中に入れ、舟に乗った。
だが両親と妹は遭難し、兄とクワンとレワニワは生き延び、難民として日本へとたどりついた。そして向洋台に越してくる前に、異国での難民として願い事をしないためにレワニワを手離す決意を固め、日本の川に流し、それからレワニワを見たことがなかった。だが浜川で生きているという事実は、まだ誰もレワニワに願い事をしていないことを意味していた。ここまできてレワニワ伝説が造型される。レワニワとは日本人とベトナム人の合わせ鏡のような欲望を体現化する存在であり、それは同時に難民を表象してもいるのだ。それゆえにそのイメージを日本人もベトナム人も共有することになり、それは次第に現実の姿をも招来させていく。
父親はレワニワのことを「秘密」にしておかなければならないといったが、「俺」は親友の吉田君に話し、彼はヒエンにも伝えたので、三人に説明するはめになり、レワニワ探検隊も結成され、さらにそのメンバーは増えていった。三年になって、カンボジア人のミアン君がレワニワのことを言い出し、レワニワ伝説が広まっていることを知った。その伝説の広範な伝播は向洋台団地にベトナム、ラオス、カンボジア難民の家族たちが住めるようになったという友愛の雰囲気の中で起きたことだった。
それまで日本語だけの世界だった団地の小学校に、突然外国からの生徒が来たのだ。混乱するのは当然だった。先生も困ったし、生徒もとまどった。もちろん転校してきた側も。
でも悪い雰囲気ではなかった。
お互い何とか交流を持とうとし、仲良くなろうと努力した。吉田君は、積極的に話しかけた一人だった。そういう子供はほかにもいた。当時は、外国から来た子と仲良くするのはなかなか格好いいことだったし、なによりも楽しかった。お互いに言葉を教えあい、うまくいっても、いかなくても笑い合った。
先生たちも、多くは新しい事態に懸命に対応していた。生徒に、ベトナムがどこにある国か教え、歴史についてかたった。低学年のくらすで、生徒がどれほど理解したのかわからないが。同じ国民同士で争う戦争があったこと、そこから小さな舟に乗って逃げ出した人たちが、命からがら日本に来て団地に住むようになったこと、話のうまい先生のクラスでは生徒が泣いてしまったこともあるらしい。泣いたのは日本人の生徒だ。学校は新しい刺激を受けて活気づいた。
ヒアンはこの友情の場を守りたいと思っていたのに違いない。(……)
そこには難民としてのレワニワ伝説も寄り添っていた。そして日本人と「外国から来た子」が混住する第2次レワニワ探検隊が結成され、それは捕えてベトナム語を教えることを目的としていたので、その活動は「レワニワ狩り」と呼ばれていた。浜川の捜索だけでなく、レワニワはもう大人サイズになり、陸上では人間に変装して活動するともされていたので、団地に入ってくる不審な人物を見つけ、行動を監視したり、記録したりもした。そうして同級生の母親の愛人がレワニワではないかとの発見もなされてしまったのである。ただそれはレワニワを妖精的ファクターから忌むべき凶々しい存在へと転化させるきっかけでもあった。
それを機にしてのように、向洋台小学校にあった友愛の雰囲気は消え、団地のムードもすさんでいき、外国系の人々と日本人の間の溝が深くなっていった。だがその一方で、バブル時代に入り、民間アパートの家賃は急上昇していたが、団地の家賃は安く、住みやすかった。
これと時を同じくして、向洋台団地への外国系住民の転入、定住が始まった。それは、世間からは注目されない地味な異文化接触だった。継続的で、生活丸ごとの接触。それがなんの準備も心構えもないままに始まった。引っ越して空き住居になった部屋に、次に越してきたのが言葉の通じない、異なる生活習慣を持ち、日本の文化についてあまり知識のない人だった、というわけだ。そういう人たちが、一挙にというほどではないが、かといって徐々にというほど控えめでもなく、団地の住民となっていった。
まさに混住の葛藤がいきなり表出してきたことになる。そうしてもはや学校も団地もかつてと異なるものになり、その合わせ鏡のようにして、レワニワはその混住から生じる「ホラ話の生け贄の中で増殖し」、ティアンたちをも巻きこんでいったのである。またそれが「俺」とティアンの「デート」のきっかけだったし、小学三年生の時の思い出でもあった。
しかしティアンとの再会をきっかけにして、レワニワがあらためて姿を現してくる。それは「俺」のコートのポケットの中に見出され、難民のような生活を送っている「俺」の相談相手にもなり、告白もするし、会社を辞めてしまったティアンを探す手立てをも教えようとする。
ここにきて、レワニワは単なるアジアの妖精めいた生物ではなく、混住の「ホラ話の生け贄で増殖した」神のような位置に接近したことになる。そしてゆくりなく、本連載29 の篠田節子『ゴサイタン・神の座』を想起してしまう。まだ『ポケットの中のレワニワ』のクロージングまでは見届けていないけれど、ここで閉じることにしよう