出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話573 鈴木剛『メッカ巡礼記』と田澤拓也『ムスリム・ニッポン』

大東亜戦によって、吾が共栄圏内に多数の回教徒を包容せんとする今日に於て、回教研究は吾等に取りて必要欠き難き現実当面の問題となった。
大川周明『回教概論』(ちくま学芸文庫


これも浜松の時代舎で見つけ、購入してきた一冊だが、本連載567の田中逸平『白雲遊記』とまさに同じ『メッカ巡禮記』で、昭和十八年に地平社から刊行され、著者は鈴木剛である。同書は鈴木の三回目のメッカ巡礼を記している。やはり大川周明の『回教概論』の言葉も見える彼の「はしがき」の一節を引こう。
白雲遊記 回教概論

 私は、真剣な信徒の一員として、メッカの巡禮を思ひ立ち、これを刊行した。巡禮とは、広漠たる砂漠の地、炎熱灼くが如く、悪疫は流行し、更に厳格なる戒律の下に行はれる大祭に参加することなのである。
 回教徒として、最大の名誉であり、歓びであり、感激である。このメッカへの巡禮を、私は三度決行した。一度より二度、二度より三度と回を重ねるにつれて、益々回教徒としての信仰を深め、この宗教の偉大さを識ることが出来た。

同書の記述から、その三回のメッカ巡礼の年を類推してみると、第一回は昭和十年で、郡君と細川君の三人で訪れている。その目的のひとつは前年に亡くなった田中逸平の遺言により、聖地にその衣服を埋葬することだった。そして思いがけず、英国が背後で糸を引いたと見なされるメッカでのサウド国王暗殺未遂事件の現場を目撃している。

第二回はその翌年の十一年で、この内実は不明だが、今回の第三回目は十三年で、満洲国回教徒代表の張君を伴ってのものであり、サウド国王との謁見、巡礼期間における神聖大会、張君の病気のことなどが、著者による写真入りで語られている。

しかしわずか四年間での三回に及ぶメッカ巡礼の目的は明確に述べられていないし、巻末の「著者略歴」にも「現在参謀本部嘱託、東京イスラム教教団長」とあるだけで、解説や注釈も施されていないことから、著者としても同書にしも、今ひとつ輪郭がはっきりしない印象を残した。

しかしその後、田澤拓也の『ムスリム・ニッポン』(小学館)を読むに及んで、鈴木剛が登場しているのを知った。そこで田澤は鈴木の『メッカ巡礼記』の述懐はいつわりで、彼は「完全に便宜上のムスリムだ」として、その経歴にふれている。田澤によれば、鈴木は明治三十七年神奈川県柿生村に四人兄弟の末弟として生まれ、京華中学に進学したが、西洋画家の長兄や高級官僚の次兄へのコンプレックスを抱いていたことから、中退してしまい、「南の満鉄」と呼ばれた南洋興発に勤め、ニューギニアなどによく出かけるようになった。そうした関係によるのか、彼は頭山満や中野正剛と交流し、南洋興発を辞め、陸軍参謀本部に出入りし、三度のメッカ巡礼に赴いている。多額の旅行費を要する三度のメッカ巡礼は恐らく陸軍参謀本部によって担われたと考えられるし、鈴木は中野学校の講師も務めていたという。また本連載570の嶋野三郎などの尽力により、昭和十三年に完成したばかりの東京モスクで、同566の若林半を仲人として、イスラム式の結婚式を挙げたとされるが、その日常生活はムスリムのようではなかった。
ムスリム・ニッポン

そして大東亜戦争の始まりと日本軍の南方作戦に伴い、占領を広げたアジア各地のイスラム圏に日本のイスラム専門家たちも総動員され、鈴木もジャワで軍政関係の仕事やムスリム絡みの工作に従事していたようだが、詳細は不明である。そして『メッカ巡礼記』を上梓した昭和十八年に、東京で大東亜会議が開かれ、大東亜共同宣言が発表されると、三十九歳になっていた鈴木は、学徒動員で南方に送られる甥に向かって、何か状況が切迫したら、次のように答えるのだと伝えた。それは「ライラーハ・イッラッラーフ・ムハンバドゥン・ラスールッラ」というアラビア語で、日本語に訳すと「アッラーは唯一の神であり、マホメッドはその使者なり」というものだった。危険に直面した時も、この言葉を発せれば助かるともいい、それが叔父の甥への別れの言葉となった。

昭和二〇年四月、台湾海峡を一隻の輸送船の阿波丸が日本をめざして航行していた。白い十字のマークが大きく描かれ、連合国によって安全な航海を保証する安導券を与えられた日本郵船所属の一万二千トンの新鋭船で、内地に帰ろうとする軍人、分属、外交官などを含む日本人二千余名が乗船していた。だが台湾海峡に潜んでいたアメリカの潜水艦クィーンフィッシュに駆逐艦と誤認されて撃沈され、生き残ったのはたった一人で、二千名余は海の藻屑となってしまった。

その乗船者の一人が鈴木剛で、たった一人の生存者の証言によれば、ジャカルタで乗船した鈴木は、シンガポール港で軍関係者から重いカバンを託されたという。後に判明したそのカバンの中身は、当時の金で一億円の価値がある宝石で、陸軍はその巨額の宝石の運搬役として鈴木を選び、巻き返しの一助にするつもりだったとされる。
ここに南洋興発を経て陸軍参謀本部とつながり、三度のメッカ巡礼を果たし、大東亜戦争下に再び南方へと向かった日本の回教徒、それが「便宜上のムスリム」だったにしても、その数奇な運命がたどられていることになる。
なお最後になってしまったが、『ムスリム・ニッポン』には、本連載566などのイブラヒムが、昭和十九年八月三十一日に急性肺炎で亡くなり、葬式は東京モスクで営まれ、多摩霊園に埋葬されたことも記されている。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら